25 夜空に舞う華
剣戟の音や悲鳴、怒号に呪詛。
耳に入ってくる不快な音を無視するようにノア達は氷の上を駆け抜ける。
巨体を目指して疾駆する四人だが、その道のりは決して平坦ではない。
分厚い氷の地面は、けれど罅割れ、砕かれて浮き島のように漂っているものも多く不安定だ。
当然だが水面が見えれば半魚人―――SSOにおけるアグリッシュという名称の敵モンスターに襲撃される。
乱れ舞う槍の銀閃やレーザーのような水の攻撃を掻い潜りながら前へ、前へと進んでいく。
淡く輝く妖精の翅を瞬かせ空を自在に行くフィル以外の三人が海面を渡れるのはイリスの掛けた軽量化の術理の効果が大きい。
実際には単純に重量を軽減しているわけではなく、足場にかかる負担を軽減するというものだが、コレのおかげで無理をすれば海面を蹴って跳躍することすら可能だった。
連続させることは難しそうで海面を駆ける事は難しそうだが、これによって行動の自由度が跳ね上がったのは間違いない。
(イリスの使ってくれた術理は確かに凄い。けど、それ以上に―――)
アルナは視線を走らせて主の姿を捉える。
その様子は彼女の目をもってしても駆ける様は影のような、疾風のようなものだった。
海面に顔を出した敵には手裏剣を投げつけ海の中へと叩き返し、足場よりも上に躍り出た相手には残像しか見えないほどの速度の剣技をもって切り伏せる。
足を止めないことを当然のようにこなし、回避と移動を両立しつつ的確に間に挟んだ攻撃で敵を打倒していく姿には感動すら覚えた。
ノアの動きはあの『異変』から成長を続けていたが、この一件に関わり始めてから急速に強くなっているような気すらする。
(それに比べて―――)
自身の不甲斐なさに歯噛みしつつ剣を持つ手に力が籠った。
アルナも身軽な方ではあるが、能力と戦闘技法の傾向的に地面を踏みしめることが重要だ。
これはSSOというゲームに導入されていたモーションデータの大半が現実にある武術を基準としていたからに他ならない。
現実的な武術というのは―――特にスポーツとして嗜まれる様な近代的なモノは基本的に両足が地についていることを前提としているものであり、不安定な足場を想定した武術はあっても空中や踏み抜けば沈む氷の上を想定していることはマズない。
ゲームキャラとして生み出された彼女の動きはどうしてもそういった『前提』に縛られてしまうために足場の不安定さが彼女の行動を大きく縛る。
逆に武術に関して素人な冒険者であるノアは既存の動きに思考が縛られることはない。
むしろ現実的でない空想上の、虚構の動きを、十全に訓練を受け常人離れした身体で再現するためにゲーム時代よりも柔軟に動くことができている。
そして、実践の中でようやく噛み合ってきたことでアルナでは想像の付かない領域の挙動を実現していた。
(―――なんか、体軽いな。普段もイリスに『アレ』掛けてもらいたいくらい)
ノア自身は、そんな気の抜けた感想を抱きつつ冷静に刃を振るう。
思考速度が常軌を逸した身体の速度に追い付いてきたこともあって余裕ができた。
何より、あまりにも敵を連続で斬り伏せてきたので殺傷に対する忌避感や人の死に対する感傷など完全に麻痺してしまっていることも大きい。
精神的な縛りがほぼ消えたことにより彼女の体からは普段は無意識の内に力んでしまっていた力が抜けて動きの鋭さは格段に上昇した。
そういった幾つかの要素が重なった結果、ノアはゲームキャラクターであった『ノア』を超えて凶悪な才能の開花を果たす。
「ふっ!」
海中から突き出された槍を蹴りつけて足場代わりに跳躍し、赤い輝きを纏う手裏剣が敵の喉元を貫く。
離れた位置から放たれる水流のレーザーを脇差で切り裂いたと思えば、放った瞬間がわからないほどの速度で投擲された複数の手裏剣が水面に紋様を描いて雷撃が水の中で爆ぜる。
大した範囲には届いていないようだが、それでもその一撃で水面付近に居た十匹程度は息の根を止めて力なく水面に浮かぶ姿へと変えた。
攻撃を加えようと海面に顔を出してくる影を蹴撃で叩き伏せ反動で宙を舞う。
中空で上下が逆になりながらも狙いを誤ることなく投擲した刃が次々に敵を血祭りに上げていく。
さらには足場が足りなければ作ればいいとでも言うように、青い輝きを纏う投げ放たれた刃が海面に突き刺さるとその場に氷が広がる。
フィルたちが作った分厚い氷とは比べ物にならないほど薄く、一度踏めば割れてしまう程度のものだが今の彼女にはそれでも十分すぎるようだった。
「アルナ、二時方向から飛び出してくるのを防御。フィルは九時方向に炎を。松明代わりに海面ごとしばらく燃やして」
自身も刃を振るいつつ指示を飛ばす。
戦乙女が主の声に従って盾を構えると弾丸のように飛来する水の塊が弾けた。
ほぼ同時にフィルが氷の割れ目に炎を落とすと様子を覗うように顔を出していた敵が顔を焼かれて引っ込み、周囲を明々と照らす。
要求通り、まるで海面にガソリンでもぶちまけた後のようにその炎は即座に消えることなく燃え続け、周囲の状況を把握する一助となる。
その炎は維持しているだけで、その場所からの攻撃も牽制できるので便利だ。
周囲の氷が多少溶けて足場が減るというのはあるが、多少割れたところで一面を銀世界のようにした後だということもあり大した問題にはならない。
少なくともノアを含めた四人が海に落ちるような状況にならないであろう程度には―――
「っ! イリス、鈍化を!」
「は、はいっ!」
―――と、思っていたのも束の間。
まるで隕石のように降り注ぐ巨大な拳に血相を変えることになる。
イリスが放った黄色い波動の鈍化の術理は相手の動きを遅くするものだがどれだけ意味があったのかもわからない。
海面に拳が落ちてくるよりも早く、言葉もなく四人は同時に散開してその一撃を避けた。
氷の地面は板チョコのようにあっさりと割れて、巨大な水柱が立ち上がり一拍の間を置いて波紋が高波となって敵もまとめて周囲を押し流していく。
幾重にも悲鳴が渦を巻いて天を衝いた。
「きゃあ・・・っ!?」
そんな環境変化に足を取られて、四人の中では最も俊敏性の低いイリスが体勢を崩す。
だが彼女の身体が地面へと倒れこむよりも早く、疾風が駆け抜けた。
「―――ちょうどいい」
「ノア、様・・・?」
柔らかな淑女の身体を掻っ攫うように腕の中に抱きつつノアは不敵に微笑みを浮かべた。
お姫様抱っこ状態のイリスは、ほとんど無意識の内に主の首に腕を回しつつ身を寄せる。
甘い香りが鼻腔を擽り、こんな状況だというのにノアの頬が緩んだ。
「え、と? あの、ノア様?」
「イリスたちが灯台の壁を駆け上っていたから、行けると思っていたんだよね」
「えっ!? えぇっ?! 本気―――」
言葉の半ばで、それを無視するかのようにノアは駆け出した。
海面に突き立った巨大な腕を、垂直に、だ。
「~~~~~~~っ!?」
腕の中で声にならない悲鳴を漏らすイリスを抱きしめたまま、意外と出来るものだな、なんて思いつつノアはゴツゴツとした腕を駆けていく。
ノア達が四人で腕を回しても一周できないようなそれは腕というにはあまりにも太いものだったが。
それでも灯台のような建造物だったのなら、たとえノアが初めて行う移動方法だったとしてもイリスは全幅の信頼を置いて身を委ねたことだろう。
しかし、である。
巨大な建造物のようにも見紛う海に突き立ったソレは仮にも『腕』なのだ。
相手が生物なのかどうかすら疑問ではあっても、先に見たようにソレは動く。
地震なんかとは比べ物にならないほどの足場の変動にイリスが悲鳴を上げるのも無理はない。
「遠くから見ていた時と上に乗っている時だとやっぱり感じる速度に差があるな」
小さく零しながらも、振り落とそうと振るわれる腕の上でノアが移動速度を緩めることはない。
足場が足りなければ造るという手法。
目にも止まらぬ速度の中で最適な判断を下す思考速度の加速。
不安定な足場でも十全に能力を発揮するための身体操作。
そのどれもが海面を氷で覆ってからのわずかな時間の中で開花したノアの能力だ。
元々訓練していた内容も相まって、一度感覚を掴めば使いこなすのには苦労しなかった。
ブンブンと振り回される腕の上で余裕をもって走れるくらいに。
腕の表面に手裏剣を投げつけて突き刺し、そこに氷で足場を作って体勢を整えて再度駆け出す。
それを繰り返すだけではあるのだが、それがいかに至難の業なのかはやっている本人には案外わからないものだ。
瞬きひとつにも満たない時間、体を支えるノアの腕が片方外れ僅かな浮遊感が襲い掛かるたびにイリスが小さな悲鳴を上げて瞳の縁に涙を湛える。
(なんか、体も軽いし妙に頭がすっきりしているし・・・こういうの、全能感って言うのだろうか)
何でもできる、というのは物理的に不可能だと理解しているが、妙に体の切れがいい。
普段なら無茶と思えることができそうな感覚だと認めつつ、ノアはそこで一旦自制の心が働く。
(アルナとフィルは・・・ちゃんと合わせてくれているか)
ノアの方で注意を惹けたからか、アルナは腹を似たような方法で駆け上がり、フィルは死角と思われる背中側から頭部付近を目指している。
巨体の相手への攻略法は基本的に足元を狙うのが効率的とされているが、腰から下を海に浸かっているこの相手では採用することができない。
人型なのだから構造的に簡単にバランスを崩せそう、とは思うのだが。
「はぁ・・・っ!」
瞬く間に肩にまで駆け上ったノアは自然と漏れた声と共に片手で『顔』に当たる部分を刀で斬りつける。
が、硬質な表面を薄く傷つける事しかできなかった。
岩に剣を叩きつけたようなものだが、刃が欠けるようなことがなかったのは幸いだ。
武器の耐久度は腕や足と共に削り取られた防具とは違って極端に高いか、破損すること自体が無いのかもしれない。
「ノア様っ!!」
「お、わっ・・・!?」
淡い月明かりが不意に陰った事とイリスの言葉で気が付いた。
まるで蚊でも潰すかのように巨大な壁―――手の平を模した珊瑚のような色合いの岩の塊が迫っていることに。
(マズっ―――)
「―――アルナっ!!!」
まともな手段では回避が間に合わない。
その判断が脳裏に浮かぶよりも早く、ノアの身体は宙を舞った。
背後で爆発が起こったのかのような轟音と、押し出された空気の厚でイリスを抱えたままの彼女は木の葉のように空中で翻弄される。
けれど。
「マスター!」
不規則に中空を揺れる二人の身体。
そんな動きを見切ったように、ノアの足元へと薄く輝く『盾』が差し置かれる。
「イリス、行けるね?」
「もちろんです」
それが在ることを当然のように、仲間たちへの信頼を微笑みと視線だけで表現しつつ彼女たちは同時に深く踏み込んで跳躍した。
イリスが先ほどまで居た肩とは逆側に着地するのを視界に捉えながら、ノアは天高く巨人の頭上へと跳んだ。
彼女の身体が頂点へと昇っていく間に、轟音が響く紅蓮の炸裂が巨体の胴体で幾重にも咲き誇る。
あばら屋くらいなら吹き飛ばすほどの威力を誇る幾つもの爆砕の暴威は、けれどもただの目晦まし。
しかし体の表面を砕く爆発に意識を向けることなく、巨人の眼―――窪んでいて光もなく宵闇よりも深い黒を宿す視線は宙に在るノアへと向けられた。
「行くよ、フィル!」
「・・・ん!」
爆ぜた火花は赤い軌跡を闇に溶けて消える。
いや、空に残った赤い輝きは幾何学的な紋様を描く―――いわゆる魔方陣。
「その『眼』がどれだけの範囲を見ているのかは知らないけれど」
中空にあるノアの肉体を薙ぎ払うように巨大な腕が振るわれる。
轟音と暴風をまき散らしながら、比較すれば虫のようなサイズの彼女の身体はあっさりと振り払われた。
まるで『幻影』のように。
「一撃くらいは入れさせてもらうよ」
「行きますよっ、マスター!」
巨人の腕が通り抜けた遥か下方。
炎の華よりも下で戦乙女の操る盾の上に彼女は着地していた。
「盾殴打・・・っ!」
「っ!?」
アルナがノアを乗せたまま術技を纏う盾を振るう。
似たような連携では使わなかった術技を使ったことで足に痺れる様な衝撃を受けながらも彼女の肉体は再度空を駆け上る。
(この体は戦闘義体なんて無くとも、かなり痛みに強いはずだけど・・・脚がちょっと痛い)
この世界で目を覚ました当初も、ベッドや床に被害を出しつつも決して痛みは感じなかった。
衣擦れの感覚は痒みやくすぐったさにも似た独特の感覚を、むしろ鋭敏に感じ取ったのに、だ。
痛覚に関しても視覚や聴覚のように無意識に制御していたのかもしれないが、明らかに常人以上に痛みや苦痛に強い肉体だというのは何度も実感していた。
現在も痛みを感じにくくなっているはずだというのに、アルナの攻撃はそれを貫いてきたようだ。
その威力のおかげか自分で駆けるよりも遥かに速くノアの身体が巨人の頭上へと到達する。
合わせてイリスが奏杖を振るうと幾重にも咲いた赤い魔方陣が広がる音に感化されるように青み掛かって紫色の輝きを散らす。
「とりあえず―――」
術技を乗せた脇差を投擲すると、その刃は巨躯の額に半ばまで突き刺さる。
そこを中心に青緑の魔方陣が展開し、周囲の青紫の魔方陣と共鳴するように不可思議な音を放ち始め紫電が空を焼く。
「お姉ちゃんっ!」
海から現れた大軍を焼き払った時にはノアがフィルの補助をする形であった。
しかし、それはフィルという妖精がサポートを不得手とすることを意味しない。
巨体の背後で空中に陣取る、音を立てて頁の捲れあがる魔導書を従えた彼女が大きく手を挙げた。
ほぼ同時にノアが二本目の刀を引き抜き右腕で天に切っ先を向けるように振り被る。
「天裂く雷鳴!」
妖精の空を掴むような動作と共に現れた雷光が、本当の落雷ではあり得ない挙動でまるで吸い込まれるようにノアの掲げる刃へと光が収束していく。
神々しさすらも感じるほどの輝きを放つ刃を、ノアは先に突き刺さった刃を掠めるように振り下ろす。
「一撃入れされて貰―――」
―――瞬間、彼女の右腕が根元から吹き飛んだ。