19 揺り起こされる感覚
ぼんやりとした視界の中に『天使』が現れた。
高熱で寝込んだ時と似たような朦朧とする意識と全身を包む鈍痛で思考が働いていないのはわかっている。
そんな中に現れたのは慈愛の気配を纏ったシルエットだけの嫋やかな女性。
いや、聖書における天使は基本的に中性で性別はないとされているとどこかで聞いたことがある。
そうなれば一目で女性とわかる豊満な肢体の彼女は天使ではなく聖女とか聖母と呼ぶべきだろうか。
「・・・ノア様。もう少しだけ辛抱してください」
囁くような声音が滑り込んできてノアの視界がわずかに開けた。
不安と心配で歪んだ表情は決して高みから見下ろす傍観者の天使ではない。
普段はおっとりとした態度を心掛けている三人の中で最も思慮深く腹黒い大切な娘のひとり。
「・・・早かったね、イリス」
「皮肉は後でお聞きしますわ」
「普通の感想なのだけど」
どうも時間感覚が曖昧だ、とノアが呟くのを聞きつつイリスは即座に治療を開始する。
彼女の得意とする青の術理は傷の治療が可能だがそれだけでは部位欠損を補うことはできない。
というよりも、術理では失った『肉体』を再構築することは不可能だ。
けれど、戦闘義体という特殊な力で象られた特殊な身体であれば話は別。
周囲の力を利用することに長ける緑の術理を組み合わせることで、失った義体を復元することが出来る。
「しばらく、そのまま安静にしていてくださいませ」
「はは、身じろぎすら痛みを伴うし、寝ていることしかできないから大丈夫だよ」
「・・・」
複雑そうな表情を浮かべるイリスに微笑みかけてノアは目を閉じた。
それは痛みを堪えるためだったのかもしれないし、安堵に身を委ねたのかもしれない。
静かに横たわる主に複雑な視線を落として、一つ息を吐いて気を取り直し真剣な眼差しで傍らに置いていた『武器』を手元に引き寄せた。
手にした杖がシャランと軽やかな音を立てる。
現実的には錫杖と呼ばれる修験者や僧が持つモノに近いがSSOにおける武器種では奏杖と名付けられた音の鳴る長杖だ。
イリスの主戦型戦技特型である術命法型はいわゆる巫女や巫をイメージしている。
その影響からか使える武器種は奏杖、大幣、ハープという偏ったものだが治療能力は最上位。
音や舞を術に組み込むことで効果を引き上げることが可能で、設定上では最高位の術命法型が奏でるハープの演奏だけで流行り病に侵された村を救ったという伝説があるらしい。
「いきます」
自分に告げるように緊張の混じる声音で小さく呟き、イリスは手にした奏杖を軽く振って音を響かせる。
その音がクリスマスシーズンでよく耳にするサンタのソリ―――正確にはトナカイの首の鈴―――の音のようでノアは苦笑を浮かべた。
シャンシャンと規則的に響く音は段々と変化して音楽へと移ろってゆく。
単一の音だけで楽曲を奏でるのにどれほどの技量が要求されるのかはわからないが、イリスのセンスは決して低いモノではないと感じさせられた。
「そういえば、イリスの演奏を聞いたことはなかったっけ」
「当たり、前です・・・治療、が・・・必要になる、なんて・・・」
「いや、普通に音楽として鑑賞したいな、って」
泣きそうな声のイリスに対して、ノアは目を閉じたまま微笑みかけた。
かくいうノアの声も痛みを堪えているからなのか掠れていたが、胸を突かれたようにイリスは息を呑んだ。
「もっと、穏やかな状況でアルナたちも一緒に演奏会とか・・・それは流石に問題あるかな?」
「・・・いいえ」
イリスにとっての『音楽』とは、誰かが傷を負った時に披露する治癒の技能と同義だ。
逆に言えば誰かが傷を負った時にしか使わない類の能力であるということ。
彼女には自分の演奏が誰かが痛みや傷を負わなければ使ってはいけないという先入観があるのかもしれない。
誰かを癒すための音、とプライドを持っているのならばノアの言葉は侮辱にもなる。
だが、そもそもそんなことを思いつかなかったイリスにとっては目から鱗が落ちるような想いだった。
「わたくしの演奏では、お耳汚しではありませんか?」
「まさか。まぁ、レパートリーが少ないなら一緒に練習しようか。ピアノとギターはホンのちょっとだけ練習したことがあるから」
ノアの声は平静を保とうとはしているモノの痛みのせいか時折不安定に歪む。
こうして軽口を垂れ流しているのは自分が意識を保つためでもあったが、イリスの緊張を解すためという効果も期待をしていた。
直感的にそうしなければならないと思うほどにイリスの声音が硬かったからだ。
「ノア様がピアノ? それに、ぎたー・・・ですか?」
「そういえばこの世界にギターはないんだっけ」
そもそも文化的な要素が育つ下地が設定されていない世界。
常に魔物の脅威があるためか芸術の分野はSSOで設定された街や国では稚拙と言っていい。
絵画や彫刻などはもちろん、傷つきやすい楽器類はほとんど存在―――というか、設定されていない。
この世界に在るのは冒険者が作り出したものか、運営が歴史や背景を無視するように設置した物くらいだ。
巨匠と呼ばれるような人々の研鑽も文化も関係なく現実世界から模倣して持ち込んだ品々だけがこの世界の芸術。
そう考えると何とも言えない気分が沸き上がる。
「そのくせ、観劇があったり講堂があったりするんだから、世界って歪んでいるよね」
「いきなり何を言い出すのですか・・・」
呆れた様に零す声音からはだいぶ硬さが取れていた。
肩の力が抜けただけでも他愛もない会話には意味があったのだろう。
「それじゃあ、よろしく頼むよ。早く終わらせてゆっくり寝たいし」
「夜更かしはお肌に悪いですものね?」
「肌ツヤを気にするタイプではないけど」
クスクスとどちらともなく笑みが零れる。
それに釣られるように緑の、青の光が渦を巻きノアを包み込んでいく。
視界を閉ざしている彼女にも身体が軽くなるような感覚が訪れて失ったはずの右腕や左足が軽く痺れる。
本当に失っていたならあり得ない、むず痒く熱い感触が身体を巡った。
痛みが引いていく代わりに痒い。とても。
「んっ・・・ぁ・・・んん・・・ふぁ・・・っ!」
堪え切れず身じろぎして吐息が漏れる。
全身を掻き毟りたいくらいだが、零れ落ちる悩ましい声にイリスの頬が徐々に朱色に染まっていく。
一度でもそう思ってしまうと身をくねらせる挙動すらも艶やかさを感じるのだから不思議なモノである。
さらに言えばシャンシャンとイリス自身が鳴らす奏杖の音すらも不思議な雰囲気を盛り立てるような気分になってくるあたり妄想気質でもあるのだろう。
「の、ノア様? 大丈夫、でしょうか・・・?」
「は、初めて・・・なんだか、りゃっ・・・わかりゅわけ・・・にゃ・・・はんぅ・・・っ!」
呂律が妖しい。
肌も汗でしっとりと湿っていることもあってとても普通の様子ではなかった。
釣られるようにイリスの呼吸が荒くなっていくが、腕や脚を生やすという初めての出来事にノアは不安と戦うので精一杯で気が回らない。
しばらくの間、吐息の音だけが木霊する中で無言のままに治療が進む。
青と緑の光が折り重なって身体を形作っていく光景は、ある意味では神々しく、けれどどこか空虚で作り物めいたモノだった。
元がゲームだから、というだけではない何かがソコにあったのかもしれないが傍から見る者の居ないその場では指摘する人間もまた存在しなかった。
「・・・んぁ・・・ふぁ・・・ぁ・・・」
ゆっくりと持ち上がる瞼の下に蕩けた瞳が現れる。
焦点の合っていない眼が宙を彷徨い、気怠げに脱力した肢体を僅かに震わせた。
「ノアさ―――」
「ひゃっ!? まっ、待って・・・まだ、触らな・・・でぇ・・・」
ただ手を握られただけだがノアは涙目でのた打ち回り情けない声で懇願する。
いつかみたいに復活したばかりの腕や脚は感覚が鋭敏になっているらしく、ノアは何かを堪えるように眉根を寄せて耐えている。
「・・・くっ、ふぅぅぅ・・・もう、二度とあんなことにはならないと思っていたのに・・・っ!」
「大丈夫ですか?」
「なんとか」
未だ涙で瞳が潤んでいたが、ゆったりとした動作で体を起こすノアの背をイリスは優しく支えた。
ほとんど介護の手つきだったがあながち間違いではなく、イリスは霊倉の腰鞄から水差を取り出して口に含ませる。
「・・・この身体でも飲食できるんだね」
「でなければ回復の霊薬も意味を為さないですわ」
「実際に飲むまでは身体に掛けて使うモノだと思っていたよ」
ゲーム内のエフェクトではどのように使用するのかわからない故の認識の齟齬であった。
視線を落とせば生えたというか治ったというか微妙な新しい手足は瑞々しくうっすらと汗の滲む艶めかしい白い肌が顔を覗かせている。
衣類も防具も破れ落ちているために素肌が際どい角度まで晒されていることにノアは僅かに頬を引き攣らせた。
露出についてはわりと順応したつもりではあったものの、衣装と割り切れない部分については許容範囲外らしい。
嘆息吐くと左腕に青白い光の腕輪―――神装の腕輪と名付けられた冒険者が戦闘中に装備を変更するアイテムが輝く。
光は一瞬で彼女の全身に波及して、次の瞬間には衣装が変わる。
黒と藍色のなんちゃって『くの一』装束は独特の色気があってノアとしてもお気に入りの装備だった―――画面越しには。
「・・・自分で着ると得も言わぬ恥ずかしさがあるな」
インナーも着ているのでさほど露出は多くないはずだが普段と違うからか首元や太ももが気になる。
イリスに手を貸してもらって立ち上がり身体の調子を確認している間にも何となく服の裾が気になってしまう。
そんな様子を、まるで娘が新しい服を買って貰ったような様子として眺めるイリスの微笑ましい視線を感じ取りノアが恨めし気な視線を向けるとそっと視線を外される。
「はぁ・・・とりあえず、アルナたちと合流しよう」
「身体は大丈夫でしょうか?」
「まだ少し違和感があるから、傍から見て危なそうなら言って」
ノアは自分の感覚というのを全面的に信用してはいない。
アドレナリンによる痛覚麻痺などは有名だが、自分で思う以上に疲労などが蓄積しているなんてことは日常的にも良くある。
少なくとも戦闘のプロフェッショナルでも何でもない自らの精神のことを考えれば知らずの内に無茶してしまう可能性の方が高いと彼女は判断していた。
虚勢を張るつもりもないが、冷静に自分の全てを把握するのは難しい。
「ずいぶんと危ない橋を渡らなければあのような傷を負うことにはならなかったのでは?」
「あはは・・・冷静じゃなかったのは自覚しているよ」
乾いた笑いを浮かべるノアに、イリスもまた微笑みを返す。
彼女が何故そんな行動をとったのか、すでにフィルから聞き及んでいたから。
泣きながら縋る様に助けを求めてきた末妹の姿を思い出して一層笑みを深くし―――
「―――あ」
不意に零れた小さな呟きに、軽く身体を伸ばす様に準備運動していたノアは小首を傾げた。
表情を引き攣らせたイリスは優雅にも思う仕草で深々と頭を下げる。
「申し訳ありません、ノア様。報告し忘れた事がございますわ」
「? そういえば未だ周囲の状況とかは何も聞いていなかったけど」
自分がどのくらいの時間意識を失っていたのかもわからなかったこともあって時間感覚は曖昧だ。
アルナたちがどれほどの時間を、どれほどの奮闘をしていたのかも想像がつかない。
「ノア様のご指示通り、レオンハルト様を含めた同好派閥『異世界サバゲ部』の方々に連絡し参戦いただきました」
「起きていてくれて助かったね」
苦笑交じりに言うが、これは確信があったからこそ呼びに行くように指示を出していた。
レオンハルトを含めた異世界サバゲ部の面々はノアが夜中に『特訓』していたことに倣って数日前から交代で夜に訓練をするようになったからだ。
居場所もおおよそ把握していたため他の冒険者よりも余程高確率で遭遇できると踏んでいた。
なので、この援軍は驚愕するほどのものではない。
「それと―――」
言い辛そうに口を開いたイリスの言葉に、ノアは小さく息を呑んで目を見開いて驚愕を露わにした。