01 触れられるほど遠い世界
「―――・・・た・・・」
暗闇の中に、小さな音が落ちた。
音の波紋が広がるにつれて、徐々に体の感覚が浮上してくる。
「ん・・・」
口から吐息が漏れた。
そんな僅かな刺激が全身に広がってビクッと震えを走らせる。
「はっ・・・んぅ・・・」
布に肌が擦れるだけで鳥肌が立つかのような感覚が全身を包む。
「―――す・・・すた・・・ご主人様っ!」
「っ!?」
耳元で響いた鋭い声に強制的に意識を覚醒させられる。
見開いた視界に最初に映ったのは、蒼い瞳の美しい女性。
造り物めいた小さな顔に大きな瞳、瑞々しい白い肌に豊かな金色の髪。
「え? な・・・んで・・・?」
あまりの衝撃に言葉が上手く出ない。
彼女のことはよく知っている―――はずだ。
知っているというか、よくわからないというか。
自身でも思考が纏まらず、戸惑っているようだ。
「マスター?」
彼女は怪訝そうに、心配そうに顔を覗き込む。
混乱と困惑で固まっていると彼女はそっと頬に手を伸ばした。
「ひゃぅっ!?」
指先が頬に触れた瞬間、甲高い悲鳴が響く。
その声に驚いて金髪の女性が手を引くのとほぼ同時に、ベッドが大きな音を立てて真っ二つに割れた。
「まっ、マスターっ!?」
「ん、ぁ・・・だ、大丈、夫・・・」
全身を包む不思議な感覚に身悶えしつつ、割れたベッドの狭間で声を出す。
それでも混乱から立ち直れずにわずかに涙目になってその場から動けずにいる。
「一体、どうされたのですか? マスター」
「・・・ますたー・・・」
呆けた様に顔を上げた瞳が、金髪の女性を見据えた。
しかし、そこでまた固まってしまう。
(ますたー。マスターって―――)
数秒の後、キョロキョロと周囲へと視線を巡らせる。
その瞳に映るのは木製の床や壁、落ち着いた色合いでシンプルな内装の部屋。
目に見える範囲では書棚とサイドテーブル、姿見に観葉植物、窓際には小型テーブルセットとランタン。
明らかに一般的な現代日本の部屋ではない。
「あの、本当に大丈夫ですか? マスター?」
「大丈夫・・・じゃない、かも」
混乱をきたした頭のまま、何とか立ち上がろうと足に力を込める。と―――
―――ずぼっ!
「へ?」
足が、床板を貫いて埋まった。
二人は一度顔を見合わせて、スッと視線を逸らし気まずい様子で沈黙する。
「え、えっと・・・あ、そうだ!」
気を取り直す様に自らの身体に手を伸ばす。
豊かな胸の膨らみ、適度に引き締まった細い腰元、緩やかな弧を描く臀部に―――。
「・・・無、い?」
思わず口を出て着いた言葉に『彼女』は視線を落とした。
しかし、局部を確認しようとした視界は柔らかな胸の膨らみに遮られる。
そんな部分が死角になる感覚は『男』ではありえない。
もしかすれば腹部が出てくるようになれば似たような感覚を味わうことは可能かもしれないが。
「え? あ、えぇっ!?」
混乱の極致とでもいうのか、何が起こったのかわからず声を上げる。
その拍子に自分の指が肌を撫でた。
「ひゃひっ!?」
瞬間的に走った刺激に甲高い声が漏れてその場で蹲る。
(右手首が、左腕を擦っただけなのに、なんでこんな・・・!?)
ビクビクと震えると全身を薄絹が撫でて、それが余計に全身に刺激を与えてきた。
呼吸が浅くなって鼓動が高鳴り、堪らなくなって涙が浮かぶ。
「はぁ・・・ん・・・ぁ・・・はっ・・・」
「マスターっ!?」
駆け寄ってくる金髪の女性を手で制して歯を食い縛りながら呼吸を整える。
声も出せずに全身をしっとりと濡らすほどに汗を掻き荒く吐息を漏らしながらも数分の時間を要して何とか呼吸が整い始めた。
「は、ぁ・・・ふぁ・・・ご、めん。すこし、待って・・・身体の、感覚が・・・おかしい・・・」
「な、何かお薬が必要でしょうか? 私にできることは―――」
「待って。本当に、ちょっと・・・落ち着く、まで・・・」
意味のある言葉を口にできるようになったが、それでも全身を包む感覚に翻弄されている。
(女性の身体だから? いや、それ以前に全身が刺激に慣れていないような・・・)
普段触れないような部分が刺激に弱いことは多い。
擽られると思わず反応してしまうような部分が全身に広がっているようだ。
あるいは生まれたばかりの赤ん坊の肌感覚なのかもしれない。
「ふぁ、んっ・・・はぁっ・・・」
耐えかねて壊れたベッドの欠片を掴む―――と、次の瞬間には粉々に砕け散った。
それに驚いて仰け反ると床を引っぺがす勢いで蹴り上げて真後ろに転がる。
「マスターっ!?」
「・・・うぅ・・・ぁ・・・力が、加減できない・・・?」
床を転がるが、ただ転がるだけなら抜けるようなことは無さそうだ。
ならば体重の問題ではなく内包するエネルギーの問題―――現実にはあり得ないが筋力の問題かと思われた。
転がった拍子に肌を撫でる感覚が全身に電流を流したような気分を巻き起こしてまた身悶えする。
「あぁ、んっ・・・ひゃぁ・・・ふぁ・・・」
「マスターっ!」
流石に見ていられなかったのか金髪の女性が『彼女』を抱き上げた。
そんな触れ合いですら刺激が強すぎるのか、彼女の腕の中で身動ぎするも傷つけないようにとの配慮か極力動かないように気を付けている様子だ。
「大丈夫です、マスター。私の身体の方がベッドや床よりも余程頑丈ですから」
「ん・・・ぅん・・・」
僅かに頷くくらいしかまともな返答が出来ないがそれでも通じたのか金髪の女性の顔に優しい笑みが浮かぶ。
けれど、腕の中の『彼女』にはそれ以上に色々な衝撃が襲い掛かっていた。
(甘い、香りが・・・まるで頭の中まで染め上げるみたいに・・・それに、彼女の柔らかさと温かさに包まれていると刺激が・・・)
触覚同様に嗅覚も過敏になっているのか金髪の女性の纏う花の香りが異様に強く感じられる。
その甘い香りには僅かな汗や体臭が混じっていることに『彼女』は気がついたのだろうか。
敏感な肌が感じ取る体温を、柔らかな女性の感覚に包まれると力が抜けていく。
ついつい甘えたくなるような優しさは母性と言われるものなのだろうか。
(だめ。ダメだ。今ここで身を委ねて思考を放棄するのは色々と駄目だ!)
夢なら意識を失えば覚めるのかもしれない、という考えは全身に甘い痺れを齎す感覚に破棄せざるを得なかった。
身体の感覚の異変は当然だが、すでに確認した『女』の身体に抱き締めてくれている金髪の女性の存在。
混乱する要素はいくらでもあるが、冷静になれる要素がひとつとして出てこないのは大きく問題がある。
「鏡」
「はい?」
「悪いのだけど、鏡の前に連れて行って」
金髪の女性は小首を傾げながらも苦笑を浮かべて肩を貸してくれた。
僅かに肌が触れ合うだけでもピリピリと痺れて、もどかしい感覚に涙が浮かぶ。
(全身がカサブタが剥がれた直後の肌みたいな敏感さ。身体が刺激に慣れていないから、こんなに―――)
漏れ出そうになる声を何とか噛み殺して、ホンの数歩の距離を時間を掛けて進んだ。
足の裏ですら腋よりも鋭敏で一歩前に進むたびに身体が震えるのを金髪の女性が上手くコントロールして支えてくれる。
それでもなお、力を入れ過ぎているのか床板に罅が入ってしまうが、数分かけて姿見の前に辿り着いた。
「・・・あぁ・・・」
多くの時間、見てきた絶対に触れることのできないはずの存在。
長く艶やかな黒い髪、月の光のような淡い白の肌、藍色の瞳は大きくけれど鋭い。
背は高いわけではないが低くもなく、シャツ一枚の姿は煽情的で、確認できる身体は細身でスラリとしているが程よく女性らしい肉付きで胸はそこそこ。
理想的な美人のひとつの形。そう言っても良いはずの姿―――
「―――自分がなりたいわけじゃないんだよ・・・」
色々と渦巻いた思いの欠片が口を突いて零れ落ちた。
(確かに美人だし、理想の姿だよ。だけど、画面越しで見るくらいでちょうどいい『偶像』だからこそいいのであって、変身願望はないんだって! こんな! こんな・・・っ!)
鏡に映ったのはSSOにおける自分の分身体。キャラクター名『ノア』だった。
(これは、ゲームの世界に入ったとか、そういうことなのだろうか? 自分自身が操作キャラになって? あり得ない、と切って捨てるのは簡単だけど)
感覚が恐ろしいほどにリアル―――というか、普段の何倍も鋭敏に感じ取っている。
そもそも、画面越しの世界の感覚を肉体が感じるなんてことはどうあっても不可能なのだ。
最新の体感型VRを使ったとしてもキャラクターと感覚を共有するのは現代の科学では実現できないだろう。
できても視覚、聴覚、嗅覚がせいぜいで触覚の再現は―――
(―――いや、思考が脱線している。わかっているのは、少なくとも今自分の意思に従って動く『肉体』はこの『ノア』の身体だっていうこと)
混乱した時にはひとつずつ事実を確認するのがいい。
何時だったか大学教授が口にした言葉が『ノア』の脳裏を過った。
(事実。事実ねぇ・・・どう考えても男じゃない。プレイヤーとしての朔良 悠羽という男子大学生の肉体ではないというのはよくわかった)
目の前に『在る』からかどうしても思考が身体のことに寄っていることに気が付いてノアは小さく頭を振る。
一旦、自分の身体の事を置いておいて別の事を考えることにする。と視界に入るのは、肩を貸してくれている金髪の美人。
「・・・変なことを聞くようだけど、アルナ・・・だよね?」
「はい、マスター。貴方の忠実な下僕たるアルナです」
「下僕って思っていたわけじゃないけど・・・」
彼女は感激したように瞳を潤ませて鏡越しに見てくる。
ノアは彼女のことをよく知っていた。
ゲーム的に言えばパートナーNPC―――パーティメンバーとして戦闘に参加してもらったり、時間のかかる作業をオフライン時にも行ってくれたりするプレイヤーの大きな味方。
SSOの設定上では『エインヘリヤル』と名付けられたパートナーは、ノアも一人でプレイする際の戦闘では大変お世話になった。
「パートナーNPC・・・他の、イリスとフィルも、ちゃんと居る?」
「はい、もちろんです。呼んできましょうか?」
「いや、後でいい」
SSOは最大六人でパーティを組むことが出来る。
が、一人のプレイヤーが作成できるパートナーNPCは三体までで次のアップデートでもう一人造れるようになるはずだった。
NPCを利用したプレイを単独プレイと認めない人は居るようだが、ノアはソロに拘るわけではないので一人でSSOを遊ぶ際には彼女たちを使うことを躊躇わない。
そのため最大人数まで作成して全員のレベルも十分に成長させていたし、それなりに拘っていたので全員の能力や装備は把握していた。
(けど、SSOのパートナーNPCはAIに設定できる要素が多くない。大体は大まかなモノで、ほとんどは戦闘関連のルーチンくらいだったと思うけど)
例えば性格は『真面目』『温厚』『冷静』みたいな大きな方向性しか設定できない。
口調も多少は弄ることが出来たがテンプレートは決まっていたし、こちらの言葉に反応して会話することはしなかった。
(あまりに普通に触れ合っていたけど、自然に会話が成立している時点でAIとは思えない。それに温かいということは生物として活動しているということ?)
色々と混乱しているが、自分が作り出した存在が生きているというのは何とも言えない感動を覚えた。
アルナだけでこれなら他の二人を見たら泣き出してしまうんじゃないかと、ノアは内心で苦笑する。
「確かめることが多すぎるけど・・・ごめん。椅子まで連れて行ってもらってもいい?」
「もちろんです! マスター!」
満面の笑みを浮かべるアルナに微笑み返して、肩を借りたままゆっくりと移動した。
彼女は終始『世話するのが嬉しい』といったような態度でニコニコと笑っており何とも言えない気分にさせられる。
要介護者の扱いに酷似していることもあって口にはできないが悲しい気持ちを抱いたのは確かだった。
「何か、必要なモノはございますか?」
ゆったりと椅子に背を預けて座っているだけなのに身体が痺れる。
そのせいでノアは陶然としたような気の抜けた表情を浮かべてアルナを見返した。
「ありがとう。けど、当分は動けないみたい」
自嘲気味に笑みを零す。
独りで移動するのも困難というのはあるが、水を飲むのさえ今はマズいとノアには直感があった。
今、内臓に刺激を受ければ色々と取り返しのつかないモノになる、と。
「それより・・・」
気まずそうに引き攣った表情を浮かべてノアは割れたベッド、穴が開き罅割れた床へと視線を向ける。
ゲームではこういった家具が破損することはあり得なかったのだが―――。
「それ、なんとかなる?」
壊れないはずの物が壊れたというのもゲームとは違うという裏付けになるのだろうか。
破壊不能オブジェクトを破壊した上で修理するというのは不思議な気がする。
「問題ありません。私たちには強い味方が居ますので!」
自信満々に胸を張るアルナの様子に、ノアは小さく微笑む。
「それじゃあ、任せるけど・・・。そうだね、イリスとフィルを呼んできてもらえる?」
(パートナーNPCだからって全面的に信用していい状況かはわからないけど、生活を共有しているのなら正直に話して協力を仰ぐ方が良さそうだ)
ノアが困ったような笑みを向けると、アルナはまるで貴族のように優雅な一礼を披露した。
「かしこまりました。少々お待ちください」
アルナが踵を返して部屋を出ると、ノアはそっと息を吐いた。