17 いつかから残るもの
「―――」
おと。
音だ。
それに何の意味があるのかもわからないが、何かが聞こえた。
「っ・・・」
自分の口から洩れた音だけが嫌にはっきりと感じ取れて、ノアはぼんやりと意識を覚醒させる。
それでも五感が戻ってくるまで時間が掛かり、明瞭な思考が戻ってくるまでにも相応に時を要した。
(生きて、る・・・?)
少なくとも、彼女の意識は『ここ』に在る。
そうして完全な目測違いに苦笑のような感情が浮かんできた。
(全長何キロの物体が秒速数百メートルで飛んできたからって数フレームしかない無敵時間で躱しきれるはずがないだろうに)
1フレームは60fpsのSSOにおいて1/60秒。
居合からのカウンターにおける無敵時間は多くても3フレーム。
ゲーム時にはお世話になった仕様だったが、現実で縋りつくには心許無い。
(いいや。あの状況から生きているのだからむしろ正常に機能したと判断するべきか)
それこそ旅客機に追突されたような状況から生き残ったのだから『無敵時間』も存在したと考える方が自然だ。
現実と、ゲームと、現在と。
その境目が曖昧な三つの状況が頭の中でぐるぐると廻る。
何度も挑戦するようなものでもないし無駄な思考だと自分でも感じたが、何か考えていなければ意識が途切れそうでノアは何度も似たようなことに思考を廻す。
「―――ちゃ・・・」
体感では十分以上の時間を掛けて、ようやく意識が五感に追いついてくる。
最初に戻ってきたのは聴覚。
ノイズ交じりに意味を為さない何かの音が聞こえてきた。
次に視覚。
LEDが普及する前の壊れかけの電灯のように何度も明滅して薄ボケた映像を写し取る。
しかし、そこで一度停滞した。
というのも戻ってきたはずの二つの感覚が覚束ないのだ。
じゃりじゃりとノイズを走らせる耳に、物の輪郭すらもはっきりしない上に点滅を繰り返す視界。
不快感のようなモノが込み上げてきたが吐き気があるわけではない。
途切れ途切れで不協和音を垂れ流す古い映像作品を見ているような自分が不安定になっていくような感覚。
「・・・おね・・・お姉ちゃん!!」
ようやく耳がハッキリとした音を拾った。
それをきっかけに視界のピントも合い始める。
泣きじゃくる小さくて可愛らしい顔が。
画面越しの作り物だった顔をくしゃくしゃに歪ませて。
零れ落ちる涙が自分の頬を滑って地面を濡らし。
妖精が必死に叫んでいた。
何故だか、そんな姿に涙が浮かびそうなほどに嬉しさが募って自然と笑みが浮かぶ。
「・・・ふぃ・・・」
掠れた声が漏れた。
いや、声になっていたのかも怪しい。
音ともただの吐息とも判別のつかない何かが漏れて、それでも泣いているフィルを慰めようと頭に手を―――伸ばせなかった。
正確には腕が無かった。
右腕が付け根から捥ぎ取られており、肩から先が存在していない。
次に視界に入ったのは左足。
白い太ももから先が腕と同じように無くなっていた。
ノアが自分の身体を確認できたのはそこまで。
「ぐっ・・・ひぁ・・・ぁ゛あ゛・・・~~~っ!?」
忘れていたかのように急激に痛覚が戻ってきて全身がバラバラになりそうな激痛が全身を襲う。
掠れた声での絶叫を上げたせいかフィルはより一層に泣き喚いてボロボロな身体を揺さぶりそれがさらに痛みを齎す。
「お姉ち゛ゃん! お姉っちゃん・・・!」
「いだ・・・やめ・・・じぬ・・・じぬほど・・・いだ・・・」
ノアの声が音になっていなかったのか、フィルが何も聞こえないほどに動揺していたのか。
思考と意識がバラバラに吹き飛びそうになりながら、それでもノアは残った左腕を伸ばす。
否。実際にはピクピクと微かに動いただけだ。
骨が折れて間接が曲がりあらぬ方向を向いた腕が持ち主の言うことを正確に聞き届けることはない。
「フィルっ!」
ぱぁぁぁんっ!と乾いた音が響く。
猛禽のような速度で飛び込んできた金色の髪を揺らす戦乙女が妖精の頬を張ったのだ。
状況の確認だとか宥めるだとか主の姿に愕然とするだとかの停滞する要素は一切無視するような行動の早さ。
呆然と姉を見上げるフィルに対し、たっぷりと一呼吸分の間を取って真っ直ぐに視線を向ける。
「・・・落ち着きなさい」
絞り出した言葉は、自分に対して言い聞かせているようでもあった。
気丈を保つ姉を見上げたまま、フィルの瞳にじんわりと涙が滲む。
「あ、ル姉・・・」
「まだ、終わっていません」
何かを堪えるように、それでも真剣な眼差しにフィルは口を噤んだ。
呆然とする彼女から素早く、けれど慎重にノアの身体を抱き寄せてアルナは腰元の霊倉の腰鞄から白い小瓶を取り出す。
RPGなら必ずと言っていいほど存在する回復の霊薬。
その蓋を開くのを激痛に苛まれながらも確かにノアは見据えていた。
SSOは戦闘関連のシステムがシビアで、回復についても相応に厳しい。
瞬時に体力を回復できる類のアイテムは最初の街周辺では重宝するが需要はすぐに無くなる。
回復量が圧倒的に足りないからだ。
二つ目の街を訪れる頃には体力の五分の一も回復しないし連続して使用することもできない。
アルナが持っているのもそういった最初期に使っていた物の余り―――彼女にとっては思い出の品。
ほとんど効果のないソレをアルナは一瞬だけ惜しむような、懐かしむような顔をしてから自分で呷りそっと顔を近づけ唇を重ねた。
「ん・・・っ・・・」
口移し。
まともに物を飲み込む力が無い相手の口に緊急的に飲食物を注ぎ込む手段だ。
それほどまでに酷い状況だとアルナが判断したということなのだが、その時のノアの脳裏に過ったのは『それ、飲み薬だったんだ・・・』という間の抜けたモノだった。
本当ならもう少し何か感じたのかもしれないが痛覚以外の感覚が薄く思考がぼやけてまともに機能していなかったのかもしれない。
口の中の薬品を流し終え小さく吐息を漏らしながらアルナが顔を上げる。
「・・・ア、ルナ・・・」
「マスター!?」「お姉ちゃん!!?」
身体は動かないが、今度はきちんと声が出た。
少しは効いたのだろう。本当に速攻で。
「アルナ、周辺警戒。ここはまだ安全地帯じゃない」
「! はい!」
顔を上げて周囲に視線を走らせる。
周囲の全てごと二つに裂けた船が押し潰したために今のところ即座に襲われるほどの距離に敵は居ない。
ノアの全身には未だ鈍痛が渦巻いているが、思考能力を失うほどではなかった。
(いや、そうか・・・武装を展開している間は『別の身体』って話だったっけ)
ねじ切れているのに出血のない腕や足が視界に入って何となく感じ取る。
少し前に街中で戦闘になりフィルが腕を失った時と同じで傷口から燐光のようなエフェクトが漏れているが実際に何かが漏れ出ているような実感は抱かない。
これが戦闘義体という出血表現を押さえるための設定の効果か、と不思議と納得した。
しかし、解除して再展開・・・とはいかないらしいともノアはすでに聞き及んでいる。
一定以上の傷を負った状態で解除した瞬間に痛みが処理しきれなくなってショック死するという現象が確認されているらしい。
事が事だけに試してみるというわけにもいかず、詳細は分かっていないがこの場での解除が危険だとノアは判断する。
「・・・イリスが来るまで―――」
「絶対に守り抜きます、マスター」
どこかのドラマだかアニメだかで見た胸に手を当てて片膝を着く礼をひとつしてアルナは船の残骸を駆け上がった。
ゲームの時には戦闘義体なんて設定がありつつも部位欠損なんて状態が存在しなかったのでこんな突発的な防衛戦は初めてだ。
それでもアルナなら大丈夫だとノアは自信を持って言える。
というか、彼女に無理なら自分にも無理なのだからと半ば投げやりな考えの方が大きい。
そんな風に割り切った考えがすぐにできるあたりノアが普通ではない証左でもある。
「お、ねぇ、ちゃ・・・ご、ごめっ・・・わだじ・・・ちょうし、のっで・・・」
「フィル・・・」
アルナが見えない位置まで行くとフィルが嗚咽を零した。
タイミングを計ったわけではないだろうけれど。
だが、ノアにはフィルがどうしてそこまで泣きじゃくっているのかまで思考が回らなかった。
困惑を胸に呆然と彼女を見据えて声を掛けることもできない。
「わ、たし・・・」
しかし、フィルにとっては自分が盛大に失敗して取り返しのつかないような状態になったと感じるには十分な出来事だった。
フィルとて『あの日』からの変化は如実に感じており、そしてソレは下手をすればプレイヤー以上に大きく実感している。
プレイヤーから見ればNPCが自我を持った、という出来事は当人たちからすると別の感覚だった。
世界が広がった。
そう言うのが最も近いだろうか。
急に頭の中がスッキリして、自由に動けて、やりたいことが次々に思い浮かんだ。
そうなってからの日々は、ただ、ただ楽しかった。
けれど主である『お姉ちゃん』は困惑した表情を浮かべることも多い。
色々と考えていて『二人の姉』も何度か深刻な表情で相談し合っていた。
これは『普通』じゃない、と。
けど、そんなことは『わたし』にはどうでもよくて『お姉ちゃん』に構ってもらうのが嬉しかった。
触れてもらうだけ、話をするだけ、笑い合うだけで今までには得られなかった快感と感動があった。
一緒に街に出た時は笑顔が途切れないほどに楽しかったし、戦いは以前よりずっと楽で凄いことが出来た。
だから―――油断した。
あの日よりも以前だったら、姉たちのフォローもなく大技なんて使わなかった。
そんなことをすれば反撃や奇襲に対応できないのは当たり前だし、試行錯誤した連携でも最もやってはいけない類のモノ。
何の準備もなく大火力を放てば後衛に攻撃優先順位が集中して他の人に負担が行く。
―――わかっていた、はずだったのに。
フィルは知る由もないノアが設定したSSOにおける陣形や戦闘指示には後衛の先制攻撃から入る連携はなかった。
それはゲームならではの考え方かもしれないが戦闘前から準備しておいて大火力で敵の数を削るという戦法が取れないからでもある。
現実的な何でもありではなくゲームのルールに従った戦い方ならそれで良かったが今ならば別の戦法の方が有効だと判断しただろう。
事実、ノアはフィルの攻撃を悪手だとは考えていない。
高火力広範囲攻撃で敵の数を減らすのは有効だったし、反撃があんな大物理攻撃だとは考えていなかったからだ。
だからノアはフィルが自分の失敗だと思っているとは考えていない。
そもそもノア自身も打開策を考えつかず、本来なら指示を出す立場だと考えながらも全うできなかった彼女も失敗したと思っている。
だが、しかしノアは自分が傷を負ったことに対して彼女が泣いていることくらいは理解していた。
「・・・フィル」
泣きじゃくる彼女が何を考えたのかは理解していなかったけれど、それでもノア小さく呼びかける。
「指示や連携のミスなんて、いつもの事だよね?」
出来る限り軽く、笑いかけながら。
それはゲーム時代ならただの笑い話で済ませるよくある話。
そもそもパートナーNPCの使用率が低い理由が連携の難しさなのだから、ノアたちの失敗と試行回数がどれほど多いのかは推して知るべし。
だが、その失敗は全てノア自身のせいでしか起こらない、
ゲームにおけるNPCは冒険者が指示しなければ動かないのだから。
だから、ノアは自業自得なので気にする必要はないという意味で言ったつもりだった。
「だから―――」
「お姉ちゃん」
ぐしゃぐしゃの顔で、それでも瞳に力を宿して妖精は立ち上がった。
「わたし、もう失敗しないから・・・!」
「え、と・・・そう決意するのはいいのだけど、照明弾でも上げて貰っていいかな? イリスに居場所がわかる様に」
「あ・・・!」
フィルは慌てて空に向けて盛大に炎を飛ばした。
その威力は花火と言うより雲を吹き飛ばすほどだったが、居場所を知らせるには十分だろう。
味方にも、敵にも。
(リスクは承知だけど、何もしなくても敵の方が先に着きそうだし、今の状態で抱えてもらって移動するのも・・・)
悪手であっても選択肢は多くない。
全身の痛みの影響もあるが、もともと優秀でない頭では最善など選びようもなかった。
自分にできるのは信じて待つだけ、と割り切ってノアは小さく頷く。
「フィル、大技は温存してまた『船』が飛んで来たら迎撃して。それ以外はアルナの援護を」
「お姉ちゃん、は・・・?」
「いや、寝ていることしかできなくて申し訳ない」
できるだけ軽い口調を心掛けてはいるが痛みは消えない。
本当の身体ではないのに背筋の震えは止まらず、脂汗が浮かび、気を抜けばすぐにでも意識を失ってしまいそうだった。
そもそもゲームキャラなので『本当の身体』というのはおかしな話かもしれないが、今は少なくとも『ノア』の生身ではない。
痛みを堪えつつ苦笑を浮かべる彼女に、フィルは涙をこらえながらも強く頷いた。
「絶対、お姉ちゃんはわたしが守るから・・・っ!!」
そう宣言して妖精は輝く翅を揺らして夜空に舞い上がる。
それを唖然として見送り、ノアは嘆息漏らす。
「はぁ・・・アルナとは、協力して・・・」
弱々しく口にしたものの、その声はすでに妖精に届いていなかった。