15 夜の闇に照らされて
夜の帳が落ちた時間。
本来ならば暗闇が街の大半を支配するはずの時刻。
この時間も賑やかなのは一般人からすればランタンなどの照明具を潤沢に使えるか、術理の刻まれた魔法の照明を持つような資金力のある店舗くらいのものだ。
松明に使う油ですら多くの人にとっては高価な品物であって、日が落ちてからも起きているのは冒険者やそれを相手にする商売人たちくらいのものである。
しかし、この日。
暗闇に沈むはずの港区は赤々と照らし出されていた。
灯台の眩い光や夜間に漁に繰り出すための光とは違う赤い光。
夜の港には怒号と悲鳴が響き、遠巻きにも確認できる紅蓮の炎が今なお街へ浸食を続けている。
「な、何が・・・」
その言葉が誰の口から洩れたのかは定かではない。
騒動を聞きつけてやってきた兵士の誰かかもしれないし、野次馬の誰かなのかもしれない。
離れていても見えるほどに巨大な騒動の中心と思われる轟々と燃えているのは船だろうか。
巨大な松明のようになっているそれがレンガ造りの港に激突し、桟橋などを大きく損壊させて陸へと乗り上げている。
唖然として目を奪われていると爆発音が響き渡り、音の波が人々を叩く。
発生源に視線を向ければ今まさにレンガ造りの建物が崩れ落ちていくところだった。
「ま、魔物だ! 魔物が攻めてきたぞぉっ!!」
誰かの声が上がった。
喧噪の勢いが増して逃げ出した人の波が溢れる。
突き飛ばされ、蹴飛ばされ、踏みつけられて、悲鳴や泣き声が広がっていく。
それでも苦い表情を浮かべつつも焦燥に駆られて兵士たちが人の群れを掻き分け港へと急行する。
本当に魔物が攻めて来ているのであれば彼らは命がけで戦わなければならない。
それは王国への忠誠心ではなく、使命感に近い感情から来るものであった。
この王国における騎士と兵士の違いは職業軍人であるかどうか、だ。
騎士とはいわゆる職業軍人であり、厳しい訓練の日々を過ごし各地を回って障害と対峙する。
彼らが厳粛な訓練と戦闘の日々を過ごすのは一重に強大な魔物の脅威を取り除くため。
そうやって武力を高めた集団が野生に存在しているが故に、専属の戦闘員というのが必要なのだ。
対し、兵士というのは徴兵された一般人の事を差す。
彼らは農民や店舗を持つ商人などの本来は武力と無縁の者たちだがこの世界においてはそれでは許されない。
魔物は単なる肉食獣よりも好戦的で積極的に人里を襲うからだ。
しかし、一つの村で出せるような人数では魔獣に対抗することなどできない。
だからこそ彼らは二年ごとに持ち回りで自分たちを護るための戦力として兵士を集う。
武器防具も貸与制のため資金的にも多少は楽になるという面もあった。
役割としては騎士が『剣』で兵士が『盾』だろうか。
ともかく、兵士たちは自分たちの財産や身内を護るために団結しているので強い使命感を持って任務にあたる。
反感や無気力な気持ちなど、数度も魔物の撃退に参加していれば消え去ってしまう。
自分たちを、自分たちの大切なモノを護るために兵士たちは奮い立つ。
しかし―――
「―――なん、だよ・・・こりゃあ・・・」
人混みを掻き分けて兵たちは次々に港へと辿り着くがそこで呆然と立ち竦む。
その視線の先には原形を止めないほどに無残に破壊された光景だった。
それだけではない。
「う゛ぁ゛・・・ぐがぁ・・・・」
びちゃり、びちゃり。
不気味にも思う水音を撒き散らしながら徘徊する影がある。
出来の悪い泥の人形のような等身の崩れた水に膨れた青い肌の人型。
頭はイソギンチャクのような複数の触手が蠢き、先端は色が変わっており黄色や紫の不気味な光を放つ。
そんな気色の悪い姿の『何か』が群れを成して侵攻してくる。
「なっ、なんなんだこいつらは・・・!?」
「う、うぉぉおおおおっ!!!」
何人かの兵士たちが思わず槍を突き出す。
呆然としていた男たちも、ハッと我に返って慌てて槍を魔物へと振るった。
だが―――
―――バギッ!!
鈍い輝きを放つ兵士たちの槍は音を立てて折れてしまう。
しかも、魔物の青い肌には傷すら付いていないではないか。
兵士たちが持つ槍は確かに高価なモノではないが、かといってそう簡単に壊れるようなものでもない。
それは彼らが魔物から自分たちを護るために必要となるもので、自分だけでなく多くの人の命を守るための備品だ。
当然、国からも相応の物を使用するように支援金が出るし、兵士たちも手入れを怠るわけがない。
常に命がけの、自分以外の誰かを守り続ける役目を担う重責に相応しい代物なのだ。
中級冒険者の使う得物に引けを取らないそれが相手に傷を負わせることも無く簡単に折れるなんて。
「うっ、うわぁぁあああ・・・っ!!」
混乱と驚愕に襲われて一人が悲鳴を上げる。
その声に後押しされたわけではないだろうが、魔物がのっそりと腕を振り上げた。
人間とは似ても似つかない触手の『手』が握りしめるのは剣のような塊。
大昔にあった石を削っただけの鈍器のような巨大な剣だが、極彩色で素材は何であるか想像もつかなかった。
そんな大剣が力任せに振り下ろされると、ぐちゃっと水気を含んだ音が響いて誰かが沈黙する。
横薙ぎに振り回されれば数人が吹き飛んだ。
悲鳴が悲鳴を呼びあっという間に戦線は崩壊する。
まともに陣を構築したわけでもない即興のモノだったが、たちまち兵士たちは為す術もなく逃げ惑うことになった。
それでも使命感や士気の落ちなかった者たちが果敢に刃を向けるも、やはり刃は通らずに槍は折れ、あっけなく殴殺されていく。
「だっ、だれか・・・」
誰ともなく、声が漏れた。
悲鳴も怒号もそこかしこで上がり、それすらも無上の暴力によって蹂躙される。
傍から見れば無様にも映る腰を抜かして這いつくばる様子が、圧倒的な暴力に兵士たちの勇気が屈した証のようでもあった。
「たすけ―――」
「―――微力ながら、手を貸すよ」
瞬間、銀閃が奔る。
夜の漆黒の中で艶やかに輝く別種の『黒』が舞った。
弧を描く細く美しい刃が踊れば、魔法の様に異形の魔物の首が呆気なく飛ぶ。
ふわりと宵闇の中で輝くような白いローブが翻り、踊る様に刃が振るわれれば周囲の敵はあっさりと地に伏せた。
青い血が周囲に撒き散らされるが、その純白のローブは何かの術でも施されているのか返り血に汚れた様子もない。
「・・・大丈夫?」
軽く周囲に視線を配って一時の安全を確認してから『彼女』は可憐ともいえる柔らかな薄い笑みを浮かべていた。
「ぁ・・・」
月下に照らされた整った顔。
降り注ぐ月光に照らされて淡く輝くような白い肌。
神秘的に輝く藍色の瞳は鋭くもどこか優しさを感じさせる。
嫋やかな肢体は服の上からでも魅力的で、黒い衣装から覗く肌の色とのコントラストは妖艶ですらあった。
一般的には考えられない薄い防具に守られた胸部がわずかな動きで揺れる様に男たちの視線が釘付けになる。
「? ええと、大丈夫じゃない、のかな?」
美しい顔を僅かに曇らせての困惑気味な再度の問いかけに、腰を抜かしていた男は一瞬で直立し礼を取った。
いや、彼だけではない。
周囲で無様を晒していた兵士たちもほとんどが同様だった。
「だっ、大丈夫です!」
「そ、そう? それならいいのだけど・・・」
同意するように頷く多くの男たちに僅かに頬を引き攣らせながらも彼女は柔らかな笑みを浮かべる。
髪をかき上げて淡く微笑む。そんな所作ですら兵士たちは息を呑んで見惚れてしまう。
「っ、あ、危ないっ!」
誰かの必死な叫びが響く。
それは彼女の後ろで武骨な大剣を振り被る影を見たからだ。
あんなモノで殴られれば、麗しくも華奢な彼女の身体など一撃で―――
「―――悪いけど、油断をしたつもりはないよ」
焦る様子もなく彼女はゆるりと舞う。
何時の間に引き抜いたのか左手に白地に桜模様の鞘を持ち、大剣へと振るわれた。
大剣の軌道を軽く逸らして、それによって生じたわずかな隙間に身体を滑り込ませ、踏み込みに合わせて右手の刀を奔らせる。
防御から攻撃へと繋ぐ流麗で鮮やかな演武の様に美しいカウンターに、麗しき舞い踊る剣の主に、闇を切り裂くような銀の剣閃に。
息を呑んで見惚れた。
それは『冒険者』が扱う常軌を逸した業では―――だけではない技だった。
流れるような挙動で繋ぐ蹴りに死体が地面へと転がり、遅れて青い血が噴き出す。
「力任せ、なんて・・・まだ狼の方が頭使うよ?」
クスリと漏らした声。
小馬鹿にしたような挑発的な声音のはずなのに、その場の男たちは心地よい鈴の音の様にすら聞こえた。
彼女は優美な挙動で刃を鞘に納めた彼女は、再度周囲を睥睨する。
悲惨なほどに破壊された港に、彼女は悲しげに目を伏せ、けれどすぐに顔を上げた。
その横顔には毅然とした気高さと美しさが浮かんでいる。
「皆さんは少し引いて体勢を整えて。居住区や商業区に攻め込まれれば被害は何倍にも膨れ上がるから」
「しっ、しかし・・・!」
彼女の言うことはもっともだ。
港区は基本的には深夜には活動しておらず、住民の数も比較的少ない。
が、多くの民が寝食をする居住区や色町を含む繁華街を内包した商業区は日の落ちた今の時間も多くの人が集まっている。
武装した兵士が太刀打ちできない怪物たちが入り込めば一方的な蹂躙による死者がかなりの数になるだろう。
しかし、それでも彼らには民を護る『兵士』としての矜持があり、何より港区にも相応に民が居るのだ。
生き残っている人間は少ないかもしれない。
けれど、それでも―――。
そんな想いを感じ取ったのか彼女は優しく微笑む。
「兵士の皆さんには怪我人や避難してくる人たちを受け入れられる場所を守ってもらいたい。何より―――」
―――魔物退治は『冒険者』の仕事。
その言葉は不思議な響きを持っていた。
騎士が『剣』で兵士が『盾』だとするならば、冒険者とは魔剣や妖刀、魔槍の類である。
彼らは気まぐれで、雑用などに目を向けず、どんな危険な仕事も行うが義務ではなく興味と報酬でしか動かない。
それも破格の報酬を用意したと思っても冒険者にとっての興味を惹く物を用意しなければ見向きもされないことすらある。
兵士はおろか騎士すらも上回る能力を持っているけれども、多くの人や国家といったモノの意思には操られない。
時には盗賊の真似事のような依頼すら引き受けて害になることすらもある無法者たち。
それでも、一般人などを大きく凌駕する彼らの『力』は、日々魔物の脅威に晒される一般人たちには不可欠であった。
その特性上、冒険者を優遇する施設はそれなりの数が多いのだが、故に自らも命を懸けて戦う兵士や騎士の多くは良い感情を抱いてはいない。
力を持つ者の義務を放棄している―――そう言う声は小さくなく常に兵士たちの間で漏れ出るものだった。
特にここ最近は何故か冒険者の数が減り、中には街中で暴れ出すものが現れ、依頼すら受けることがなくなった。
一般人はまだそれほどではないが商人などの冒険者を介した利益を得る者たちや、彼ら兵士たちの不平不満はかなりの大きさとなっている。
本来であれば冒険者の指示など聞く必要などない。
むしろ、冒険者の言葉など反骨心と矜持から突っ撥ねる者がほとんどだ。
だが。だけれども。しかし。
優しげな、母性すら感じさせる温かな微笑みと共に本来の護るべきモノを守って欲しいと請われた。
彼女の言葉が正論であり、圧倒的な実力と研鑽の一端を見せたこともあって兵士たちは若干、顔を高揚させながらも頷きを返す。
そんな様子に彼女は笑みを深くする。
「しばらくすれば他の冒険者も来くるので。それまでに負傷者の収容と治療を」
「りょ、了解した!」
「殿はこちらで引き受けるね」
軽く言って彼女は踵を返す。
それだけなのに揺れる艶やかな髪と白いローブが揺れて男たちの視線を釘付けにする。
万人に降り注いでいるはずの月の光がまるで『彼女』のためのスポットライトの様にすら感じられた。
宵闇の中ですら輝くような彼女は身長以上に大きく見える。
「・・・月の女神様みてぇだ」
誰かの小さな呟きは同意と共に瞬く間に広がっていった。
この日、水の街・リッシュバルという地上に『月の女神』が降臨することとなったわけだが、後に中身が男であるとある冒険者は小首を傾げる。
曰く、そんな人物は見かけなかった、と。