09 初めての感触
「ふっ!」
小さな呼気を漏らして、ノアは大剣を振るう男との距離を詰めた。
10メートル以上の距離を一歩で瞬時にである。
人間技ではない、と驚いたのはノア自身だけであったが。
「グギャァアア!!!」
「っ!」
理性を感じさせない獣のような鳴き声を放つ男の一撃を、ほとんど無意識の挙動で盾で弾き飛ばした
たった二週間にも満たない期間の特訓で戦闘技法を身に着けたのはノア自身の物覚えの良さと教官の詰め込み能力の高さがあったことが大きい。
思考と行動の速度が一致しなかったのはホンの数秒。
左腕に斬撃を払い除けた衝撃が残っている内に膝を男の鳩尾へと叩き込む。
ふわりと腰布が空を舞い、芸術的な脚線美が露わになる。
「あ、黒―――ふぎゃぁっ!?」
びしょびしょのまま転げ回っていたせいで砂埃と泥でぐちゃぐちゃに汚れていたチャイナ少女を踏み潰す。
見た目同姓でも異性の下着を覗くのはマナーに欠ける行為であるので、自業自得だとノアは冷めた思考で切って捨てた。
ちなみに、黒のレースのかなり際どいセクシーなランジェリーに包まれた秘所はフィルの視界にも映っており人知れず「おぉ~」と小さく感嘆の声を漏らしたとか。
「ふっ!」
「ギャギャァッ!!」
白銀の剣閃と紫の輝きの狂刃がぶつかり合う。
顔面を踏まれても元気なチャイナ少女が転がって戦域から離れていくのを感じながら刃と刃で鎬を削る。
瞬き一つの間で数度の斬撃を交錯させる二人の速度は常人離れしていた。
それがこの世界の常識なのだと何とはなく理解したノアは振り下ろされる刃に合わせて円形盾を割り込ませる。
表面を滑らせるように攻撃を受け流し、相手の大勢を崩しつつ反撃に刃を振るう。
「グギャァ!?」
男が脇腹を切り裂かれながらも、全身のバネを使う獣じみた動きで瞬時に飛び退いて見せた。
両足で踏み切って後ろに飛ぶ挙動はノアにとっては想定外で追撃に動くことが出来ない。
直後、雷光が虚空を駆けた。
純白の閃光が弧を描き障壁装甲とぶつかって火花を散らす。
「む。切り替えが上手い」
支援攻撃を防がれたフィルが不満げに口を尖らせる。
障壁装甲は遠距離攻撃を防ぐための技能であり、剣などの近接物理攻撃を受け止めようとすると一撃で破壊される。
その為、近接攻撃を受けた直後などは展開が間に合わないことも多い。
プレイヤーであってもON/OFFを切り替えるタイミングを的確に行えるだけで上級者に分類されるほどだ。
ちなみに、今のノアには切り替えどころかONになっているかどうかもわかっていない。
それを考慮するに―――
(今のは相手が上手いわけでもフィルが悪いわけでもない。こっちが『下手』だっただけ)
―――付いて行けてない。
ノアはギリッと苦々しく歯を食い縛った。
今現在でも行動も思考も常人離れした領域の速度ではあるが、フィルたちにとってはこの速度でも追いつけていない。
何より、ノア自身が自分の能力を十全に扱いきれていないと実感している。
『ノア』にとっては未だ全力どころか三割も能力が扱えていないという確信を彼女は持っていた。
(速度で劣る以上、チェックを掛ける手は主に二種類。フィルの大技を当てるか、或いは―――)
「―――フィル、足止めに専念して」
小さく頷きが返るのを視界の端で捉えてノアは間合いを詰めていく。
戦闘義体の状態になったことで身体能力が向上したらしく体の動きが普段よりも鋭い。
そのせいで振り回されている面もあるが、今すぐにどうにかできるものではないと割り切った。
「はぁっ!」
「ギャギャッ!!!」
大剣を盾で防ぐ。
身体能力に大きな差はない。
むしろ、ノアの方が勝っているからこその拮抗。
自分で思うように動けていないけれど、それでも相手を上回ってしまうのは『レベル差』というモノの影響なのだろう。
フィルの方は『本来のノア』に合わせる動きをしているから現状だと連携がぎこちなくなる。
今すぐに改善することは不可能だ。
(なら―――)
獣じみた動きというのは直感的で技巧に頼らない挙動と言うのに等しい。
何より人の身で獣を再現しようとしたところで骨格から違うのだから再現度はどうしても低くなる。
その上、本来の脅威である人間を上回る圧倒的な身体能力の差が存在しないのであれば恐れる必要など無い。
「柔道くらいは経験がある!」
「ギャッ!?」
盾を使って攻撃を防ぐ―――と思わせて相手の手首を掴み取る。
そこから一本背負い、に似た無理やりな投げ技。
腰も入っていないし足を掛けたわけでもなく左手一本で力任せに地面へと男を叩きつけた。
相手が腕を振り下ろす勢いを利用して肩に背負う形で投げたのだから一本背負いだと、ノアは自分に言い聞かせる。
「フィル! 氷っ!」
「ん!」
地面を転がった男が瞬間的に凍り付く。
霜が降り冷気が舞い氷が男を地面に張り付ける。
「っ! あぁ・・・っ!」
躊躇いは一瞬。
仰向けに地面に転がっている男の首にノアは刃を振り下ろした。
腕力やらもかなり上がっているのか、抵抗感はわずかなモノだ。
切っ先はあっさりと肉も骨も引き裂いて頭が落ちる。
鮮血が噴き出して周囲を赤く染め、独特の臭いと滑った感触が降りかかった。
「・・・うっ・・・」
吐き気が込み上げてきて、ノアは顔を顰めた。
盾を装備した左手を口元にやって息を呑んで堪える。
(遅いか、早いかだけの違いだ。これは、必ず必要になるのだから・・・)
きつく口を一文字に結んで自分に言い聞かせた。
自然と剣を持つ手に力が入り、柄の部分の滑り止めが小さく音を立てる。
一呼吸分の間を置くと、気が抜けたのか戦闘が終了したとシステム的に判断されたのか、閃光がノアを包み戦装束から普段着へと変化した。
へばり付いていた血糊も一緒に消えた事は幸いだったのだろうか。
「うっ・・・ぁ・・・っ!」
けれど、同時に臭気と不快感が纏わりついて、色々なモノが込み上げてくる。
堪え切れない、と思った時には水路へと向かって顔を伏せていた。
胃の中の物を放出していると、背中から柔らかで暖かな感触がノアを包む。
「お姉ちゃん、大丈夫・・・?」
「・・・フィル・・・」
掠れた声がノアの口から洩れる。
そんな彼女を気遣うように軽く撫でながら、フィルは中空に真水の水球を浮かべて顔に近づけた。
彼女はそれをありがたく受け入れて顔を洗い、どこからともなく差し出された柔らかい純白のタオルで顔を拭う。
「ごめん、フィル。情けないところを見せて」
「ううん。お姉ちゃんは、お姉ちゃんだから」
血の匂いから距離を取る様に移動しながら力なく微笑むノアの手を取りつつ、フィルは花が咲くような柔らかな笑みを浮かべる。
乱れた心を落ち着けるように深呼吸していると妖精のような少女の暖かさが染み込んでくるようだった。
普段よりも早い鼓動が穏やかさを取り戻してくると、ノアの身体から青白い燐光が立ち上る。
それは空中で糸の様に寄り集まったかと思うと手を繋いでいたフィルを包み込む様に舞った。
「?」
彼女が小首を傾げると、欠けていた左腕へと光が集まって行き―――腕が形作られた。
驚くべきことに服の裾すらも再現されており、目をパチクリさせるフィルが手を握ったり開いたりしてみたが違和感は無さそうだ。
「元通り」
「・・・えぇ・・・」
楽しそうにすら見える態度のフィルとは違い、ノアの反応は微妙なモノだった。
自分から出た得体の知れない何かが大切な娘の一部を満たしたのだから、色々と思うところがある。
説明のつかない現象はすでにいくらでも体験しているが、それでも目の前で起こった現象はやや気持ちが悪い。
「今までも、こんなことあったの?」
「ううん。初めて」
わずかに頬を染めて照れたように言うフィルの様子に呆れを含んだ視線を投げる。
彼女は見た目やエインヘリヤルとしての誕生順とは無関係に中身はノアよりも人生経験があるのだ。
パートナーNPCの設定的に過去の英雄の魂を宿しているはず、というのもある。
フィルに限らず三姉妹たちは多少だが前世の記憶を持っているようだから。
「まぁ、フィルが違和感を覚えないなら良かったよ」
「うん!」
無邪気に笑う様子から何かペナルティのようなモノを負うことはなかったらしい。
だからこそ疑問も浮かんでくるわけなのだが。
「フィルの腕から血が流れなかった、ってことは・・・『アレ』は冒険者、か?」
首を切り落とした死体は未だに凍てついたまま転がっている。
距離を取ったとはいえ生臭い血の香りは届いているし、命を奪った時の感覚はすぐには消えそうにない。
残念ならが、ノアの『中身』は動物を捌いた経験もなく直接何かの命を奪った経験なんて虫くらいのものだ。
派手に鮮血撒き散らす様を見た事など、作り物を除けば人生初。
ノアが一言で表すことのできない複雑な心境に陥ったことは仕方のないことだろう。
「ち、違うっすよ、先輩・・・」
ガクガク。ブルブル。
薄手のなんちゃってチャイナ服に霜を張り付かせた少女が自信を抱いて震えながら声を発する。
それを見据えてノアは口を開く。
「どぶ臭いから近づかないでくれる?」
「酷いっすっ!?」
叫びながらもクンクンと鼻を鳴らして自分の匂いを確認し、どんよりと重い空気を纏う様子を見るに彼女も『女』であるということだろう。
男であってもドブ川の匂いを漂わせているのを嫌がるのは当然とか思うところではあるが。
そんなチャイナ少女の様子からもわかる様に彼女はかなりの異臭を放っている。
実はこの世界で『入浴』することは難しいということもあって、少女も臭いは大いに気にしているモノなのだ。
「お姉ちゃんを不快にさせないで」
「ぶふっ!?」
チャイナ少女の頭上に唐突に現れた巨大な水球が落とされた。
滝で水に打たれる荒行みたいな様子で絶大な水の流れに晒された少女が歪んで見える。
水流に流されない辺り彼女の能力の高さを物語っているような気もするが、それはそれ。
先のフィルによる冷気の拘束攻撃による余波で冷え切った少女に対する追撃としては苛烈である。
「あ゛・・・ぶぅ・・・ざ、ざぶい・・・」
「ふ~ん?」
震えるチャイナ少女に対し、冷たい声を漏らしてフィルが今度は火球を宙に生み出す。
巨大な火勢に『そんなに寒いなら温めてあげようか?』という無言の圧力を感じ取って彼女は慌てて頭を振った。
その様子をノアは、犬が自分の身体を振るって水気を飛ばそうとする仕草だと感じたが、それも別の話である。
「フィル。そのくらいの火力じゃあ火傷させるくらいしかできないから脅しにもならないよ。必要もないから」
「ん」
チャイナ少女はノアの言葉に顔を真っ青に染めた。
が、フィルの用意した火球はSSOにおいて最下級の術理であり、術耐性の高い仙気鳳型には致命傷になり得ない。
もちろん、現実となった今では多少の変動があるだろうが、わずかとはいえ実戦を経てノアはゲーム時の耐性が適応されていることを理解した。
今は『ステータス』を数字で確認することはできないが確実にゲーム画面越しだった時の能力が発揮されている。
その実感がチャイナ少女には欠けているらしい。
「さて、襲撃者くん。君は他人の頭を不意打ちで粉砕しようとしたわけだが」
「そ、それは誤解だって言ったじゃないっすか! 先輩!」
深々と嘆息吐いて肩を竦めてみせる。
チャイナ少女はわかっていないようだが、相手の不注意を責めるのは会話の主導権を握るため。
相手の素性もわからないのに胸襟開いて話を進めるほどノアはお人好しでもない。
もっとも、自分の現状も把握できていないのに見ず知らずの相手に何でもかんでも開示する人間は思慮に欠けていると言える。
現実でもそんなことをしていたら、むしろ信用を投げ捨てるようなものだ。
「まぁ、とりあえず君の名前を聞こうか。襲撃者くん?」
冷めた視線を投げかけ、ノアは内心でため息を吐きながら彼女の事を思い出そうと挑戦してみる。
しかし、やはり記憶になく彼女が口を開くのをゆっくりと待つことにした。