顔が鏡になった少年の話
今日、大変なことに気が付いた。少し早目の時間に起きて顔を洗い、歯磨きをしようとした時だ。
うにゅうと絞り出した歯磨き粉をたっぷり乗せた歯ブラシを口に突っ込もうとした俺はそれに失敗した。そこに口がなかったからだ。それどころか本来あるはずの目や鼻や眉や髪や耳が、顔が、人間の頭がなかった。あったのは細やかな装飾が施された鏡ばかりで、そいつは銀色の縁は先ほど顔を洗った時の水をまだ少し残し、キラキラと輝いている。
俺の首から下は高校の制服を来て平然としているのだが、そういうものが乗っかっているお蔭でおおよそ普通の人間には見えなかった。それの直径はおよそ40センチほど、厚さは5センチあるかないかと言ったところで、鳥や葉っぱの立体的なレリーフが美しい。鏡の部分は完全な円形で、洗面台の鏡とどこまでも写し鏡になって吸い込まれてしまいそうな奥行きを持っていた。地面がぐるぐると渦巻いてどこまでも落ちていくような感覚と理解が俺を襲う。
俺は、鏡だったのか。
驚いたのも一瞬だった。そういえばと、思い当ることがいくつもあったのだ。
まず、高校の同級生の女の子たちだが、彼女たちはよく俺の顔を見ながら化粧を直していた。何人かの男子生徒も、俺の前でワックスこねて髪を整えたりしていた。たびたび不思議に思っていたが、俺が鏡ならばごく自然なことだろう。
また、時々彼らは俺の前で「かわいいね」「かっこいいな」と言ったが、あれは俺に対してではなく、俺に映った自分たちに言っていたのだろう。俺を褒めるのはたいてい、自信に満ち溢れた美しい人たちだった。逆に、美しくない人たちからはよく目をそらされたし、褒めてもらったことがない。
……今まで自分に対する賛美だとばかり思っていた言葉が、そうでなかったなんて。飛んだ思い違いだったのだ! 自惚れていた恥ずかしさに顔に血が上るような気がしたが、鏡は一つも表情を変えずに佇んでいた。それもそうだろう。感情次第で曇ったり赤くなったりする鏡など聞いたこともない。
どうして今まで気が付かなかったのだろう。自分の愚鈍さにもほとほと嫌気がさして、うんざりしながらリビングへ向かう。こんなバカな鏡でも、腹は減っていたし、学校へかなくてはならない。
「お兄ちゃん、今日げんきないみたい」
妹はそういって、俺の顔(の位置にある鏡)を覗き込み、悲しげに言った。確かに落ち込んではいたが、俺に表情はない。元気がないのは映り込んだ妹の顔だろう。
食卓に両親の姿はない。彼らのために用意されたのだろう食パンは、まるで手付かずのまま、所在なさげにダイニングテーブルに取り残されていた。妹が用意したのだろうが、多忙な両親はそれを食べることなく出勤してしまったようだ。俺は彼女がかわいそうで、居た堪れなさから言い訳するように手を振った。
「そんなことないよ、そんなことない」
そんなことないから、と過剰な否定が耳にこびりつく。妹はそんな俺の動作に控えめに笑うと、そっか、と言って、小動物のように小さく小さくパンを食んだ。俺はそこで初めて口がないのを思い出し、すっかり困憊した。しかし、せっかく妹が用意した朝食をこれ以上無下に扱うわけにはいかない。
どうしたものかとトーストをいじるが、一向に対策は思い浮かばず、半ばやけになりながらパンを顔に近づける。鏡がバターの油で汚れそうだ。少し不安に思いながらもいつもの感覚を思い出し、あるはずのない口を開ける。べったりと油のついた鏡を憂いながら、想像の口にパンを放り込もうとすると、しかし、パンは鏡にぶつかることなく、想像の口の中にバターの風味を広げ、咀嚼され、嚥下された。
そんな馬鹿な、と手元のパンを見ればそこには確かな小さい歯型がある。自分のものと思えない小さな歯列が僅かにそれを削り取っていた。恐る恐るもう一度、口に近づけると、先ほどと同じことが起きた。味がして、噛む感触があって、飲み下す。不審に思い妹を見つめると、彼女の持っているパンにも、俺のパンと同じ歯形が残されていた。サイズからして、妹の歯型と思って間違いないだろう。俺は妹の歯を使ってパンを食べているようだ。歯を磨こうとしたときは口などできなかったのに。
ここまで考えて、ある一つの可能性に思い当たる。俺は、自分に映っている人間の顔を、自分の顔として使えるのかもしれない。そうでなければ今までどうやって生きてきたのか、説明がつかない。
自分の理解力もまだ絶望するほどではないようだ。少し気を取り直し、少し慌ててパンを食べ終えた。妹が席を立ってしまったら、俺はその時口を使えるか怪しかったためだ。
「ごちそうさま」
妹にそういうと、彼女は先ほどより大きく笑った。俺はその笑顔を映しながら、何か途方もなく空虚なものが心に流れこんでくるのを感じていた。俺は妹の笑顔を映した途端に、幸せな気持ちになったのだ。多分彼女の表情そのままに、俺は感情を変化させたのだ。俺の自我というものは、映るものに影響されてしまうらしい。なら俺は、一体何者なのだろう。人を映すだけでなく、自分の心まで移ってしまうなんて、俺は、本当にここに存在するのだろうか?
妹はそんな俺の不安感に気づくはずもなく、彼女が元気よく「ごちそうさまでした!」と言った途端、俺の気持ちは明るく元気にシフトしてしまい、もう、ろくに考えることができない。