[29]~[41]
[29]
時には、大きく感じてしまう迷いや恐れであっても、人間の全体性からすれば、小さな一部分や傾向に過ぎないことを、先ずは、認めること。自他共に、沢山ある良いところに、意識や心掛けや波動を率先して、促していくこと。これらが、人間の日々の努めである。また、迷いや恐れは、やがて、真理と愛に、メタモルフォーゼする。
[30]
赦しとは、ある状態をある状態のまま、肯定する在り方であり、そこにあるものは、無償性への賛美であり、意識の拡大と成長と、確信である。すなわち、赦し合うことによって、互いが持っている潜在能力の花が、開花していく。赦しとは、多様性や一様性をさらに、引き出していく、トリガーとなっていくであろう。つまり、赦しとは、全体性の回復力でもある。
[31]
ソクラテスが説かれた「無知の知」を実践出来たときに、全ての銃声は、鳴り止む。
[32]
詩と絵と彫刻と音楽と舞踊は、性質が非常に、近似しており、広義においては、ひとつである。これらを互いに、語り合わせることで、総合芸術が、そこに誕生する。また、シュタイナーが勧めた、オイリュトミーは、これから先も、受け継がれるべきものだ。
[33]
メルヒェンとは、散文でもあり、天然自然である。メルヒェンや散文の源とは、本来は、神が起こされる出来事メッセージ(出来事による知らせやレッスン)と、同一なものと、なっていく必要性を同時に帯びている。また、メルヒェンによって、天の世界や目に見えない世界、心の世界やアルカナ(パラケルススが唱えた自然の中に根源となるエキス)などの、言葉や映像を可視化させたり、具現化させていくことが、可能となる。パラケルススが唱えた、全ての病気や万物を溶かす、万物融化液なるアルカヘストのような、役割をメルヒェンは持っている。メルヒェンによって、本来は天上と地上が一つであることを、伝え、創造していくことが可能となる。
[34]
夜の夢で起きる体験は、普段体験している体験を補ったり、補強したり、昇華したり、指針を与えたり、包括していく力がある。夢に注目することによって、人は、魂にある全体性や記憶、パワーや感受性を取り戻していくことが出来る。また、朝目覚めたときも、その夢の余韻を活かすことによって、その精妙な感受性を普段にも引き継ぐことが、出来る。夜の夢によって、天国や霊界に繋がることが出来、また、人類が肉体的存在というよりも、霊的な存在が主であることが、実証されている。夢によって、第六感や第七感を回復することが可能となる。いつしか人類は、夢を生きるように、なるだろう。夢こそが、現実になるのだ。
[35]
夢日記を書き始めると、神様からの御手入れが始まる。これは、避けようが無い、事実であり、悦びである。
[36]
ネオプラトニズムにおいて、言われている「天才は、何かの欠如によって、成り立つ」についてだが、これは、神の公平性をも、現している言葉である。才能は、やはり、もろはの剣なのだ。長所が飛び抜けている人は、同時に、短所も飛び抜けている。従って、短所を通常にしてしまうと、長所も通常になってしまう。
[37]
失敗が失敗ではなく、実践しないという失敗が失敗なのである。その失敗と人は、遅かれ早かれ、向かい合わされることになる。何故ならば、その実践は、次なるステージへの一歩であるからだ。だったら、最初から素直に実践してしまった方が、自然でもあり、無理がない。思い立ったが吉日。
[38]
神様とは、どのような存在か?これを知りたいときには、先ずはこのように、捉えるとよい。神様とは、親のような存在であると。
[39]
ピタゴラスが奏でた、数字と音楽と天体とのシンフォニーは、今もなお、響いて止まない。
[40]
親鸞ほど神性と人間性を兼ね揃えた、僧侶はいない。
[41]
他力には、無限の可能性が秘めている。それは、元々、他力は無限であるからだ。自力の母体となっているのが、他力である。人は、神仏や自然が無ければ、呼吸することすら、ままならない。