[14]~[21]
[14]
ー仮我という概念が、もはや仮我であるー このように仮説したときには、非常に多くの肯定感が生じていくことを、覚えることは、まことに事実であって、重要な営みである。すなわち、どの感情や着想や働き、我や欲望でさえも、理由とその必要性があって生じ、同時に、全ての存在するものへの肯定を保障するものとも、なるからだ(たとえば、性エネルギーは昇華すると、聖エネルギーになるということが発展するならば、元々、性も聖も、単一であり、ひとつであると、捉えること)。私は、仮我と言われるものは、人々の創りだした、エネルギーを集約する為の知恵の方便であり、それこそ幻影であると、強く感じる。従って、その幻影でさえも、同一の源から派生しているものであるから、この世界にあるのは神我の神我だけであり、一我だけであると、心より、思う。すなわち、神我や仮我は、「一我」という一枚の紙の、表と裏であり、双方で、ひとつの「我」を現しているのだから、「一我」なのである。仮我によって、神我は導き出され、神我によって、仮我は、生命エネルギーを与える。つまり、神我や仮我を、「一我」と、私は呼ぶ。一我とは、今、私が創造した造語である。
[15]
全人類や自然万物、全存在を一我とする。この世界は、一人の人間であり、一つの翼であり、一輪の花、一つの心、一つの愛、一つのロマン、一篇の詩、一つの言葉、一つの我として、捉えることが出来る。すなわち、世界はひとつであり、自も他も本来は無く、一我である。
従って、自分を愛することが、他を愛することに繋がり、他を愛することが、自分を愛することに結合する。また、それは同時に、自他が無く、「愛があれば良い」ということが発展される。
つまり、「一我」とは「愛」の働きを、如実に顕す。
[16]
本来、法律は、外にあるものではなく、内にあるものなのだ。従って、歴史上振り返ってみると、その時代や時々の法律を見れば、その当時の多くの人々の境涯が丸裸になる。法律を変えるということは、人が持っている心の中の運動や、心掛けを変えるということに、他ならない。孔子が「己の欲するところに従えど、則を越えず」と言われた言葉は、まさに、法律や人々の本来、あるべき姿を、唱えている言葉である。
[17]
危険な心の働きとは、常識をそのまま自分自身に当て嵌めて、その常識を全うしている自身こそが、自分自身の本性であると、錯覚に陥ることである。常識とは、あくまでも、流行りのような役割でしかないことに、気付く必要がある。
[18]
信じること、ただそれさえ実践出来たならば、悟りが開かれる。
人は、最初から最後まで、信じることを、真似て、学ぶ、有機的、変動的な生命体である。
信じること、ただそれさえ実践出来たならば、その人は、覚者であり、キリストであり、ブッダである。
[19]
「愛」のチャクラである、アナハタチャクラが何故、胸に存在し、七つあるチャクラのうちの中心にある、第四チャクラであるかといえば、天と地(人を含む)を結ぶ、唯一の力が、「愛」であるからだ。
何事も「愛」で始め、「愛」で終えること。また、「愛」だけが、始まりや終わりも、無い世界へと、絶対の世界へと、誘う。
[20]
本当の知恵というのは、いつなんどきも「愛」を忘れずに、実践していることである。
「愛」を実践することで、初めて、「叡智」が完成し、生き生きとした、現実と合一する。
[21]
「愛」とは別の言い方をすれば「確信」である。互いに「確信」を抱き合うために、人はあらゆることを神の千手なるお導きによって(あらゆる手解き)で、体験していく。つまり、神の正体とは愛であり、愛が神であり、確信が神であることが発展する。
確信こそが、全ての営みの由縁であり、確信に至るまでのプロセスが、輪廻転生である。従って、聖霊も確信を授けに来るために、人々の元に、訪れる。