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【一我】または【一我思想】というものについて、また、触れてみたくなった。
(14~15参照)
【一我】または【一我思想】とは、作者の造語である。
【一我】という仮説においては、「存在」が最上位にあるため、「存在」を一切否定しない立場にある。よって、仮我もなく、欲望もなく、エゴもなく、悪魔もいない。そこには、たとえば、シームレスの連続である「存在」がただ「ある」。シームレスな為、色彩や透明は等しく、ヒエラルキーは無く、あるのは、種類の違いや種別、また、用途や役割の違い、謂わば、四季の移り変わりなどの違いである。デュナミス(潜勢態)やエネルゲイア(可能態)、エンテレケイア(完成態)もそれである。「存在」という立場において、全ては、平等であり、対等であり、連綿と繋がっている。「時間」との関係性においては、たとえば、「四季」や「生死」のような所有時間を「移行」または「違い」と呼び、「時間」ではない。それから考えうることは、【一我】においては「時間」が無いため、始まりや終わりもない。護美、霞、滓、埃、塵、刹那、一瞬などは、「存在」や「永遠」となる。すなわち、このような式が考えうる。
存在=永遠
この【一我】について、分かりやすい一篇の詩がある。ここでそれを残しておくことにする。
『情熱』
いくら偏差値が低くても
いくらIQが低くても
人付き合いが悪く
人望が薄く
人相が哀れで
運動音痴で
感受性が乏しく
絵が下手で
空気を読めず
ぶち壊してしまう
いびつで
残酷な性格であったとしても
その燃やしている命だけは
決して、決して
軽んじられるような世界で
あってはならないのです!
この世界に【存在】して下さっているだけで
計り知れない
尊いお役目を果たして
下さっているのですから…
わたしは何度でも言います
その、裸の情熱だけは
決して、決して
軽んじることが
あってはならないのです
これからも【一我】については、事ある毎に、触れていきたいと思う。




