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[186]
『存在のスケッチ』
存在とは愛である
存在するだけで
この世界の何かの役に立っており
この世やあの世を含めた
大宇宙マンダラの一翼を任せられている
存在は「ある」
存在を尊重しよう
存在を肯定し、大切にしよう
存在は、生である
愛とは永遠にさせる力を持つと
ソクラテスが言った
存在は永遠である
たとえ肉体が朽ち果てようとも
心のなかにはその存在が有り続ける
存在に死はない
手塚治虫は「火の鳥」のなかで
科学的な視点や化学的な遺伝子のレベルからのアプローチでも
存在や生の永遠性を可視化すること
表現することに成功した
ときに存在を嫌がる人々がいるが
それは、存在ではなく
いつか朽ち果てる、一過性の
退廃的な物質次元から考えているからである
存在からの心で感じていないからである
物質次元を物質次元だけと捉えるならば
物質次元には心も愛も存在もなくなってしまう
それはたいそう退屈な世界であろう
心のなかにある心から観るときに
すなわち魂から観るときに
存在は永遠であり
神の完全なるデザインや設計図を
観ることが可能となり、実感できる
もしも存在が無ければ
こうしてよろこびを分かち合えなかった
周波数を合わせて
存在が溶け合うときに
存在はひとつになる
つまり、大宇宙マンダラに繋がる
現に、いま、あなたもわたしも
このひとつの宇宙空間で
ひとつの大気を
赤子のように吸って
手をとり合って、生きている
存在は奇跡であると、同時に
存在は愛の結晶であり
存在は神である
たとえば、人間は
一人一人が神の一翼を担っている
とても高尚で無垢な存在であり
とても精巧で繊細な存在である
人間と万物、あの世、全てによって
神を体現している
存在は、存在によって、存在を産む
存在が無い段階から存在を産む場合は
それは創造神を産んだ絶対神である
この世からでは
絶対神を確認することは
絶対有、もしくは、絶対無として
でなければ、確認することが出来ない
たとえば、創造神が父親や母親であるならば
絶対神は祖父や祖母である
存在は意識無意識に関わらず
関わり合い、連動しあっている
躍動している
そのなかから
弾き出されて
わたしたちの日常に出来事や
物事が起きてきている
存在にヒエラルキーなどは
本来は無いが
心の段階のなかには
ヒエラルキーが存在する
心は地獄の段階から
生きながらに天国の段階に到達することが
可能なほどの創造力を有している
地獄の曇った目から世界を見渡せば
一面が地獄絵図のような世界になる
一方、天国の透きとおった目から世界を見渡せば
一面、天国の楽園が顕現していくであろう
このときの目とは心であり
この心を育てていけば
存在の真価を発揮することが出来る
存在の真価とは
存在の最深部分である、神の性質
すなわち愛である
ある存在は、そこに居るだけで
あらゆるものを治め
天国にしていくことが出来る
たとえば、幼子はいるだけで
その場を明るくし、柔らかくし
天国にしていくのである
イエス・キリストは「幼子のようになれば、天国に行けます」
と、言われた。
わたしたちは、その段階に到ることを
意識無意識問わず
一秒たりとも忘れずに望んでおり
ひたすら強く求めている
愛とはすなわち
純粋無垢なものであり、潔白なものだ
最後にあえて言うが
人間は、存在しているだけで十分である
存在は常に、告白している
存在とは、なんと人智を超えた
不可思議なことか!
[187]
『愛と確信のスケッチ』
たとえば、より良い新たな世界を
日々、神様に、渡されているとする。
けれども、わたしもそうなのだが
人の目は暗いので
より良いものだとは分からない。
また、そういう時が幾度もある。
その為
まだ知らぬもの
触らぬもの
聴いたことがないもの
見たことがないものが
身に迫って、押し寄せてくると
ひどく、恐ろしく感じてしまう。
このように
不安や緊張や怖れの連鎖というものは
発生しているように思える。
しかも、嫌な体験やトラウマなどがあれば
なおさら、その恐怖の監獄から
抜け出せられないような感覚にさえ陥る。
そこで、わたしが思うのは
性善説的であり、かなり楽観的なのだが
神様はそんな意地悪な御方ではないということを知る必要性があると、思う。
そういった不安や緊張や恐れというものは、一過性のものであり、幻想に過ぎないこと。
たとえば、自分自身を最も愛してくれる誰かや何かが、いるとして、神様は、その誰かや何かよりも、正しく深く愛して下さっていると、思って相違ないと、わたしは思う。
神様は、わたしたちの親であり、愛の御方であると、認識し、安心し、確信に到ることが必要になってくると思う。
神様が愛の手を引いていないから、わたしたちは、この瞬間も、生きていられて、存在できて、地球はぐるぐると、回っている。
少なくとも、わたしは、そのように総合の神様のある一面を捉えている。
人間だから、恐れてしまうことは、仕方がないのだが、毎度毎度、恐れて、恐れて、恐れっぱなしになってくると、これまた、話しが違ってくるように感じる。
かなり骨折りであるし、大変苦労の多い、気苦労の多い、生き方だ。 「信じる者は、救われる」と言われている。
いきなり、信じてみよ。と言ってしまうことは、とても乱暴なことかも知れない。
だが、人間というものは、慣れていき、順応し、変化していける生き物であると、わたしは、思う。
良い意味で、怖れてしまう、恐がってしまう自分自身に、慣れていく必要がある。
自分自身を受け入れるところから、はじめる。自分自身をゆるす。
そういった営みが、過去に、無ければ、現代のような文化や文明というものは、ここまで発展しなかっただろう。
蛇は脱皮すると、大きくなるが、、 人間も心の皮を何回も破り、脱皮していく必要があると、わたしは、思う。
人生をかけて、幾度も、脱皮して
成長していく。
恐ろしい、苦しい、寂しい、
と感じるときは
成長痛であると、
捉えてみては、いかがであろうか。
何事も、ゆっくりで、いいのだ。
ゆっくり、この地球に廻されて、行こうではないか。
急いては事を仕損じる。
急がば回れとは、
そういうことなのかも知れない。
結局、一周でも、何周でも回ってみなければ、よく分からないし、全体像も掴めないし、確信にまで、到らないのだから。
確信までの道のりとは
すなわち、愛への到達でもあろう。
愛と確信は等しい。
だから、だんだん、信じる者になっていけば、良いと、わたしは思う。
やっぱり、愛というものは、気長なものであり、あきれるほど、時間がかかり、
いつかは時間を忘れてしまう、
ものなのかも知れない。
きっと
愛には時間がない。
愛は時間に、支配されていない。




