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業における意業、身業、口業の三業を、意密、身密、口密の三密にしていくことを仏教の密教では説かれている。私が思うことは、このような人間にまつわるものだけが、業では無いということ。業は行いや営みであるからして、業はもっと大きなものでもあり、業そのものが生命エネルギーであること。生ずることが先ず、業でもあり、死ぬときに、一つの業も終わること。また神業というものがあるということ。神による出来事メッセージなども一つの業を顕している側面もある。業を活かす術もあり、新たな業によって、希望を見いだせることもある。やはり、何事も、なんでも活かしていけば良いと、感じて止まない。
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SNSなどで「イイネ」を押すか押さないかの話をよく耳にすることがあるが、私からすれば、主体的な選択と責任を、取るか取らないかの話をしているようにしか、聞こえない。簡単にいえば、周りの目を気にしていて、行動に制限をかけてしまっている場合がほとんどであり、それらは、個の存在理由や純粋意欲などを研究し始めている初歩的な段階であるように私は感じる。これらからすると、SNSなどは、自由なようでいて、不自由な場合がほとんどであるが、やはり、自由な方を選択していくべきであり、情報に対する、感動や感謝の意を込める、選択を本来はしていくべきである。「思っているのに、出来ない」ということは、昔からある人間の営みでもあり、それが、SNSとしても、引き継がれているだけであるが、SNS特有の現代特有のカルマを創りつつある姿であり、そのような側面も、私はあるように、感じている。最終的には「思っているから、出来る」また、「思っていることに従っても、全て、LOW OF ONEの領域であるから、むしろ、どんどん出来る」になっていくことが理想であり、その積極性や主体性が、人間には求められている。新たな文明や文化でもあるSNSやインターネットを一つとってみても、人間の境涯が丸裸になるのだ。特に、潜在意識(本音)の領域、つまり、霊界の領域がインターネットによって丸裸になる。霊界もそのように、潜在意識がベースとなり、顕在意識は無くなるため、インターネットやSNSによって、この世が霊界化しつつあることは、変えようのない事実である。ならば、インターネットやSNSを良化していく、一歩を各自で行っていくことが、ドレスコードとなってくる。投稿する際に、大事なことは、「この情報は確かであるし、世界の為にもなる、良い投稿である。そう思えてならない」このように、最善を尽くしていくことがベストである。インターネットやSNSに限らず、人間は、どのものを取り扱うときも最善を尽くし続けることが、儒教で説かれている「仁・義・礼・智・信」の「礼」である。「礼」をSNSやインターネットで尽くして行こう!
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「先ずは、神の義を求めること。そうすれば、全てのものは、添えて、与えられるであろう」これは、大事な聖句の一つである。何事においても、神の義を求めることで、つまり、愛を選択し、自身の中にある良心を選択していくことで、全ての事柄を、豊かに与えられるようになる。これは、もはや信仰が無ければ、実践出来ない領域にもなってくる。多くの人が、理由をああだこうだと付けて、簡単に、神の義を諦めてしまっている場合が多い。それを感じる度に、私は、深い悲しみを覚えるところが素直な感想である。それと共に、個別性を尊重し、そこを通過する必要性があるとも感じるが、それとなく、神の義に近づける方向の言葉を、私は差し上げる。
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先ず、自分自身の現状と一致することで、何事も治まっていく。現状を受け入れて、肯定していくと、不思議なほどに、力が漲ってくることを、私は、覚えてならない。だいたい、状態が悪い時は、自身の現状と一致せず、受け入れず、否定してしまっている場合がほとんどである。現実の只中に、やはり、生きた神がいらっしゃるので、現状と一致することは、神と一致することにも繋がり、神と一致することは、豊かなエネルギーに満ちてきて、自身の本来の姿や純粋意欲などにも満ち溢れてくる。そうなってくると、自分自身の想像を超えるような、素晴らしい展開が幕を開けてくる。現状との一致ほど、大事なものは無い。そこから豊潤で豊穣な作物が多く収穫していけるであろう。
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最も高尚なものほど、呼吸や空気や水のように、必要不可欠であり、すでに行っているものではあるが、体験はしていても、自覚症状が薄いものである。最も高尚なものは、今この瞬時にも、働きかけている御力であると同時に、これまでも、これからも働きかけ続けていく御存在である。私達は、最も高尚なものには疎く、暗く、移り変わりやすい表層的なものばかりを追い求めている。色の無い世界や、無味無臭の世界を感得しなければ、高尚な世界で生きていくことは、出来ない。それは、酒やジュースばかりなどを人々が好み、その源になっている、水や泉に注目しないのと、同様である。最も高尚なものは、透明度もそれだけ高いため、全てを支えられるが、それだけに、気付かれ辛い。この透明度の高い御存在に気付いていき、そこで光や愛を感じ、喜びを持って生きることこそが、最も高尚な在り方である。神界や根源界は、それだけ透明度が高く、隠れたところに住まわれていらっしゃる。私達も、最も高尚な感受性を働かせて、育てて、それを中心に据えて、隅々まで浸透させていき、密かに、生きていこう。
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透明度が高いものを詩は、その透明度を保ったまま、表現することが出来る。つまり、詩を読むことや書くこと、詩の活動や詩の営みによって、最も高尚な存在と、いつでも結ばれていることが、可能となる。
詩が神を呼ぶ。
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「必要悪」と人々が呼んでいるのをよく耳にするが、なるほど、確かに、物理的に見ても宇宙には、ブラックホールもあるのだから、そのように表層的に捉えることは、出来る。だが、ブラックホールも固有の役目や資質を担っていて、大自然における営みの一つであるならば、それは「悪」というよりは、「営み」であり「天然自然」である。この世界には、「光」しかなく、闇も光のなかの一部である捉えてみては、どうであろう。つまり「性善説」を徹底していくならば、悪は昇華され、無くなり、全てが善の中の一部である。
「悪」という捉え方は、まだ発展途上の段階であり、様々な霊的境涯の人々がいるなかでは、「善」を「悪」のように感じ、「悪」を唱える人や「悪」や「ハルマゲドン」を使用する機会が生まれてしまう。それを「必要悪」と人々は、呼んでいるのだと思う。だが、こういったことは、本来は、「必要善」であることが、そのうちに理解する時が到来するので、本来は「必要悪」や「ハルマゲドン」は無く、過渡的段階に過ぎない為、私はあえて、「必要悪」は無い、ということを、ここに記しておく。あるのは「必要」だけであり、全てが「必要善」であり、全てが恵みであり、愛と光によって、包まれて、育まれていることを。




