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ー対話Vo.2よりー
アミュースケールは寒天の空を神を仰ぐように見上げた。心には、黄金時代から銀の時代、青銅の時代、英雄の時代、鉄の時代と移行していく様子を思い浮かべつつ、街を歩いていく。アミュースケールとしては、どの時代も、現代において、継続しているな(黄金時代はかなり追いやられている)、このように思った。そのまま歩を進めると、コンビニが見えてきたので、コンビニに入る。
コンビニに入るといつものコンビニとは、明らかに違う何かがある。コンビニに陳列されている商品が生きものであって、どうやら、光を帯びているように見える。ドイツロマン派の精華であったノヴァーリスが言っていた「一切は神からの伝達である」が脳裏によぎり、どれもこれも、神からの多様な恵みであることに気が付く。コンビニで働く人々もコンビニで商品を買う人々も、かけがえのない命であって、神の化身のように思えてくる。
こうして、アミュースケールは買ったペットボトルを握りながら、再び街を歩き、心を熱くして、心の奥から神に叫んだ。
アミュースケール:神様!なんと輝かしい想いなのでしょうか!これは、かの黄金時代の人々が胸に抱いていた心情というものでしょうか!?あゝ神様、どうか御応え下さい!
ソース:汝よ、その想いは確かに、黄金時代の一部を想起している過程である。想起とは、プラトンが言っていた天のプルシャ、法、設計図であるイデアを想起することにほかならない。汝よ、クロノスに代わり、ゼウスが統治するようになってから、銀の時代になり、動乱の時代に入っていった。これは、とあるチャレンジによるものでもあるが……(アダムとエバの逸話でも、アダムがイエス・キリストとなって、復活する過程を経ることにより、エバの原罪が贖われるのと類似しているように)。人々は、次第に、イデアである秩序を忘れていった。それにより、奪い合いや殺し合いが始まるようになってしまった。我計らいで、一度、英雄の時代を訪れさせ、神々が人類と交じり合うことにより「半神半人」となることで、人類にチャンスを与えた。ヘラクレスも「ガイアの息子達は人類によってのみ倒される」という預言によって、ギガントマキアーに参戦し、停戦を決定づける活躍を成し遂げた。だがしかし、この神話も文字通り受け取らないように。神々の戦いの場合は、違うエレメント同士のエネルギー交流やパワーバランスだと捉えた方が良い。また、これからの時代はイエス・キリストの復活や数々の神秘家のように、平和の子でありなさい。
汝よ、英雄の時代には「半神半人」という、ヒントが隠されている。神と人間のシンクロ率を回復していくということである。我が光である、神の光を授かり、輪廻転生(オルフェウスの黄泉の逸話や仏教などからも伝わっているように)を経ながら、半神半人と呼ばれるような段階に到り、チャンスが与えられる。これを先ずは、目指しなさい。パーセンテージでいえば、人間が50%神が50%である。この段階に到ることも、地球上では、ごく稀である。
地球上では、神秘家と呼ばれる人々によって、その道も設けられているし、実践されつつある。聖書では、預言者と呼ばれるような人々をはじめ、何名かの有名な神秘家もいるし、宗旨宗派やジャンルを問わず、我も認めているところだ。もちろん、有名無名は問わない。
そもそも神秘家とは、我に還ってくる者達を指すため、広くは人類、皆、神秘家なのである。人類には、我種が宿っている。スピノザなども「総合の元素」という呼び方をした。その神秘の種、聖なる種を輪廻転生を通して、育てていくのが、人類共通の使命でもある。
[318]
ー対話Vo.3よりー
22時。アミュースケールは、これから寝ようとして、布団や毛布にくるまった。くるまっていると、とてもあたたかく、毛布の心地よい感触もあってか、今日を回想しながら、なんとか生きてきた達成感のようなものを覚える。時の魔法なのか、時が経てば、どんなことも、美しい思い出や体験であったようにすら感じる。ここは常春のエリュシオンか?しかしながら、人生では時の魔法だけでは、癒えない傷や失敗もあることに気づく。それは、人間関係であったり、愛別離苦で示させれている別れや大切な人の死であったり、抗えない蹂躙であったり。
それと「アリアドネの糸」から連想されることとして、天の愛の徴を頼りにすれば、この世の迷宮や地獄から抜け出せることも示唆しているのかも知れない、また、この徴は、直感や悟性に似ているが、霊感や神感のようなものではないか、このようなことも観想した。
アミュースケールは、眠るまえに、この内面世界を神に一度託したくなり、神に祈り、委ねる。
アミュースケール:神様、神様は全てお見通しでございます。ましてや、わたしのような分かりやすい、人間であれば、なおさらのことでしょう。ただ、それでも神様に、こうやって、心情を改めてお伝えしなければならなくなるのです。しかも、わたしは神様といつだって、ひとつであると、思っているのに……。ああ、神様、教えてください。何故、わたしやわたしたち人間は、悲喜こもごも体験をしながら、存在しているのでしょう。
ソース:汝よ、よおく、聞きなさい。先ずは、人類だけではなく、我にも使命があることを覚えておくように。我の使命は大きく分けると2つある。1つは、この世界を救済すること、もう1つは、救済した世界と共に、絶対界に還ることである。このことを達成するがゆえに、人類問わず、この森羅万象も霊的宇宙も存在している。
我と人類の協同創造ではあるが、現段階では、神と人類には、隔たりがあることを、先ずは知るとよい。本来、人類は「神の手足」であるように、喩えることができる。いわゆる究極的な「ツインソウル」のようなものと捉えても、差し支えない。しかしながら、「知恵の実」や「イヴの原罪」で伝えられているように、我と人類は離れてしまった。このことは象徴でもあるが、いわゆる「人間中心主義への警告」ということである。人類はその間違った生命エネルギーの使い方を正し、その同じ生命エネルギーによって「生命の樹」を外界と内界に、生活習慣レベルで植え直していく必要がある。
汝が言うように、大きな悲しみを背負うことが使命の者もいる。その場合は、悲しみ痛んだ分だけ、やさしい器の大きな人間になっていくことを覚えておきなさい。我は必ず意図や意味があって、日々の出来事を起こしている。賽さいはふらない。人類を潰すためには、出来事を与えないし、試練を与えない。その出来事が起きたということは、その出来事を治められる段階に入ったことを意味しており、魂の食事として、しっかり味わいなさいということ。時には、反芻しながら、味わい尽くしなさい、このような意味合いがある。
アリアドネの糸やアポローンの息子アスクレピオスがケイローンに師事していたこと、自身の芸術はアポロン的かディオニュソス的か、パリスの審判などの想いを巡らせていたようであるが、ギリシャ神話で語られている重要なポイントとして「神が何を嘉みするか」これである。これについて想い巡らし、日々、出来るところから、実践すると良い。イエス・キリストが「わたしが語っているのではなく、我父が語っている」や十字架上で「我魂御手に委ねます」という業を成したとおりである。出来るだけ、小さな自分自身の殻から抜け出し、計らいを無くし、神の水路や神の電流を流すように、心掛けなさい。汝をどこまでもいつまでも導こう。
***
『万華鏡』
1
この月光は
いつまでも
わたしとあなたを離さない
この清らかな光は女神が落とした
万華鏡だから
いつでも
わたしとあなたは出逢える
野蛮な都会の喧騒からも
あらゆるマイナスエネルギーからも
この
愛の巣のなかに逃げこめる
絶対領域
2
万華鏡に浮かぶプリズムは
わたしの杞憂をテレポーテーション
させてくれます
その光暈
その多元
その瞬
凝り固まろうとするアストラルを
自由な遊戯へと導き
幼少の柔らかな
よろこびを想起させてくれるのです
わたしは
あなたの多面性に気付けば気付くほど
わたしの内面も新たな世界が訪れ
わたしの全体性が回復してきます
不思議なものです
1つの命に
これだけ多くの可能性と
創造性が宿っているのですから
個カラーナの全体性の回復は
やがて
場プルシャになっていきます
これについては
花が咲きこぼれて
花粉を飛ばし
新たな世界へ転生するのと
似ております
ああ世界が
百花撩乱となり
いにしえより期待されている
相互的で浄福な
愛の国の門が
開かれますように




