[95]~[104]
[95]
本来、哲学は、分野を超え、各ジャンルの根底に流れ、支え、育て上げる、人の根源的な営みのはずである。本来、哲学は、カテゴライズが出来ないものである。哲学によって、人は、あらゆる事柄や活動を統合し、自身の力に変えたり、他へのアプローチを彩らせていくことが出来る。つまり、哲学とは、錬金術でもある。私が言う錬金術とは、あらゆるものに真理の力を導入したり、引き出したりしながら、聖なる息を吹きかけ、黄金の存在、永遠の存在に変えていく働きかけであり、術である。超一流の人々には、必ず、超一流の哲学や錬金術がある。そもそも超一流の哲学や錬金術が無ければ、超一流には、なれないし、成立しえない。人は、哲学を発達させていくことで、本来の固有の自己原因や個性の骨組み、輪郭を形成していくことが出来る。哲学は、あらゆるものの呼吸や羅針盤となる。
最高の哲学者は、預言者や救世主であり
最高の指導者で、あろう。
同時に、哲学は、特定の人々のためのものではない。哲学は、万人のものであるからして、神の世界のものである。これらを忘れてはならない。また、誰もが皆、哲学をしながら、生きている。存在していることは、哲学していることでもあり、哲学していることは、存在を示し、証していることでもある。これからの時代は、さらに、哲学が発達していかなければ、非常に危ない時代に入っていくだろう。とりわけ、「LOW OF ONE」の哲学、「アミュー」の哲学が必要となってくる。世界はひとつであり、地球は一つ、宇宙は一つ、国々はひとつの国、心は一つであり、愛は一つであり、全人類で一人の人間、全人類と自然万物で一つの家族である。個別性や違いを尊び、分かち合いながら、根幹には同じ生命が通っており、そのまま全体性へと繋がっていき、俄然一体なる総合力が生じてくる道である。このような一元論、シャンカラが唱えた不二一元論の道でもある。いつの日にか、日本県、アメリカ県、ドイツ県といった地球国が誕生してくれることを、心より願っている。「ONE FOR ALL , ALL FOR ONE」の哲学や生命を本当に実践出来るかどうかに、私達の未来の全ては、懸かっている。
[96]
悪魔を元の天使の姿に、戻してあげること。
清め、癒してあげる道が、アミューの道の一つである。全てを味方につけること。振り返ってみれば、皆、天使であり、神であったと、実感し、実践していくこと。
[97]
現代で出家者になったら、どこか一体感がなく、乖離が生じる。泥から芽吹く、蓮の花があるように、清濁を合わせ呑む、在家の道こそが、一元論の道であり、空の道が、開かれていくのではないだろうか。どこかで、離脱したところで、個として花を開かせるよりも、全の中に、ダイブして、溶け込んで、花を開かせることこそが、神秘家の道であり、大乗の道である。元々、聖と俗と分けること事態が、分別の始まりであって、「全てが聖なる営みである」と、無分別や無分別智になっていくことこそが、本来の人としての、生きる道ではないだろうか。たとえ、聖と俗と分かれたとしても、俗の中の中に、聖なるものが宿っており、その佇まいを感じとることや、活かしめることを選択していけば良いのであるし、またそのように、生きた現実は運ばれていくため、やはり、全ては聖なる営みなのであり、世界はひとつ、なのである。
[98]
本来の宗教であるならば、愛に到達する道を説くはずであり、依存させたりせずに、規定を設けないもののはずである。もしも戒律があるとしたならば、人々の中に宿る神の声、内なる良心にこそ、戒律がある。このように、自立させていく道が、本来の宗教の道であり、宗教とは、人が神へ、到る道の架け橋であるのだから、宗教をしていない人は、実際のところは、いないのである。だが現代においては、宗教が、枠組みを作ってしまったり、人々の恐れや不安を利用してしまったり、宗教ではなく、イデオロギーの団体になってしまっているのが、残念なところだ。元々、宗教には戦争が無い。宗教紛争という歴史は、実際のところや実質のところは、「イデオロギー紛争」であったのだ。主義や主張がぶつかり合っているだけ、クラッシュしていただけであって、本来の宗教ではなかった。先ほども書いたように、本来の宗教は、内なる神を育てあげるため、また、神との合一を助けるため、それを達成するための一つのプロセスであり、在り方のものである。なので、宗教が必要無いという人は「はい。私は、神に、なりました」と言っているようなものなのだ。
このように、本来の宗教性を取り戻していくことは、非常に大事な営みであると、同時に、自覚の有無問わず、神と合一していない人々は、皆、本来の宗教者でもあるのだ。よって、宗教に限らず、なんでも、本来の在り方に戻っていく道が、重要であり、本来の価値やイデアを取り戻して、復活させていくことが、普遍的で素朴な、愛と命の道。アミューへの道である。
歪められてしまった宗教さんが、あまりにも、可哀想である。本来の宗教さんは、人類の愛や夢や希望、アミューへの架け橋なのだから。
[99]
芸術は教育でもあること。
これからの時代は、柔らかで可憐な芸術が、尊ばれて、いくであろう。
幼子の芸術である。
幼子とは、もちろんのこと、魂や、良心であり、内なる神のことである。幼子状態とは、悟りに向かう、または、悟っている状態を指している。聖典である『バカヴァット・ギーター』に登場する、結果を求めない行為、神と一つになった行為である「超作」の芸術ということである。超作の芸術は、この世界にさらなる彩りを与えて、静謐なる喜びと平和をもたらすであろう。
[100]
最高の楽器とは、ほかでもなく
直接神が人類に授けた、声である。
[101]
高位の存在かどうか、見分けるために必要な判断材料となるものは、そこに、無条件性があるかどうか、また、愛や真心があるかどうか、事実であるかどうかである。
愛は必ず、命を大切にし、導き育てる素因を持っており、事実を与え、愛が無いところには、命を損ね、傷つける素因があり、嘘を与える。あらゆる情報が飛び交っている枝葉末節な現代であるから、このような素朴な認識は、いつなんどきも、天国の根っこと繋がり、天国の幹となっていくことであろう。情報によって生きるのではなく、情報を吸収して、力に変え、自発的に生きていくことが人に宿るアルカナであり、世界の奥の奥底に流れている自然性である。
[102]
「真理は人を自由にする」という聖句があるが、まことに、その通りであると、私も感じている。真理によって、生命エネルギーや時間の振り分けや使い方が、より正確になっていくからだ。このような心掛けをしていけば、苦しみがやがて抜けていき、楽しみへと昇華され、極楽が自然と与えられていく、抜苦与楽していくことに、繋がっていく。いつなんどきも、先ずは、公平無私な真理を求めること、それに努めようと、心掛けることが、鍵となる。
[103]
真理には、普遍的な真理と個別的な真理がある。前者は、皆の規範となる真理(たとえばLOW OF ONEの真理やアミューの真理)であり、後者は、ゴーダマ・ブッタが人々に、個別に指導した対機説法のように、一人一人に即した真理である。また、これを自問自答し、試行錯誤して取り組んでいくことが、眠れる潜在能力を開花させていくうえでは、重要である。自分の場合は、何をしたら良いのか、何に気を付けると良いのか、自身の胸に手を当てて、問い続けていくこと。
[104]
仮我がくずおれて、神我に生命を与えるときに、人は真価を発揮する。この状態は、なかば仮死状態であり、神秘的死である。これによってトランス状態や、エクスタシー状態になり、神の世界に、人は訪れることが可能となる。なにか物事に集中し、一点にフォーカスしているときは、多かれ少なかれ、この恍惚状態で、あることが多い。これを、繰り返しながら、人々は、成長し、真理や神や愛に、歩みよることが出来る。人における、最高の能力開花をするときは、この仮死状態、肉体や仮我を天に捧げることが、唯一の供物となり、神託が、期せずして、起こされる。




