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ドイツロマン主義時代には、プロティノスやプラトンなどのギリシャ哲学が母胎となったり、十字架のヨハネなどによる神秘主義の継承や復興が力強く見られることに眼を背けられない。また、究極存在である神や一者との可能な限りの実践的合一体験、いわゆる「エクスタシー=脱自」というものが主体にあり、これを芸術、数学、自然科学、宗教観、哲学、文化などに導入し、大衆に定着させ、啓蒙させようと、試みていた。カントから引き継いだ、「直感的知」をフィヒテは最高存在として、認識出来てない領域を宗教的実践や放下などで、取り返していくことをフィヒテは薦めた。これは、中国の孟子などで見られる「性善説」にも通じるものがある。「放心」によって逃げてしまった天の性質を想起しようと説いていたのだから。また、神とのエクスタシー体験などを客観して、アウトプットしていく最高の手段をシェリングは「芸術」だとした。シェリングはさらに、芸術のなかにも再び、神を見いだそうとしていた(これによって少し変わり者扱いを受けた。ちなみに、シェリングによる直感的知とは、全自然との一致にまで発展する)。しかし、こういった面はノヴァーリスなどでも通じる感性であった。ノヴァーリスは「この世にあって新たな生を始める」というゾフィー体験(ゾフィー=キリストまで導かれた、亡き恋人ゾフィーの墓場での体験)に基づき、無限なもののなかにある有限を親しみ、変化させ、有限をまた無限へと、ポエムやメルヒェン、独自の「魔術」と呼ばれる創造で、何度も投げていき、いわば、日常なものを神性化し、神性なものを日常化しようと志し、実践していった。ノヴァーリスにとっては「自我=非我」や「詩=哲学=芸術=科学=学問=生命」など相互的体系であり、一体感のある総合的な詩学であった。
「自然に帰れ!」でおなじみの巨大なルソー(ちなみに、自然に帰れ!という明確な表記は無いようだ)やヘルダーで見られる赤裸々な自己分析、自然からの啓蒙や細やかでどこか潔癖な描写は、思考や知性を超越する感情がテーマであった(つまり、大衆的になり寄り添っていった)シュトゥルム・ウント・ドラングで知られるゲーテやシラーなどに引き継がれていき、ゲーテも積極的に自己の内奥世界と世界の一致、自己の全体性の回復と自然や世界の回復の一体性を説き、目指し、生涯取り組んでいった。シラーの神や自然に対する遊戯的スケッチ、とりわけオリエント的な要素は、ノヴァーリスにも大きな影響を能えた。
こういったドイツロマン主義の時代はやはり、初期ロマン派のテーマであった「第五福音書の完成」に向かい、その体系をあらゆるジャンルで残そうと、努め、最も精力的に取り組んだ時代の1つであったことは、間違いないであろう。
日本においても、明治大正、昭和などの自然文学や純文学において、こういったロマンやたとえるところのミューズが受け継がれているのをしばしば見受けられている。しかしながら、現代こそ、我々人類は、神と自然と人間の関係性を結び、回復しようとした、「ロマン」というものを復興する必要性があるように、私は想えてならない。




