異世界からの物体X
よく晴れた夏の始まりのある土曜日、一人の若者が四苦八苦しながら料理の真似事をしようとしていた。あー、家に火を点けようとしているのでなければ多分料理だ。
どうやら彼の家族は彼を過大評価して旅行に行ってしまったらしい。
彼の名前はハヤトという。背も程よく高く筋肉質で鍛えていることが見て取れる。
彼のつけているMRメガネはオリジナルなカスタムがなされており彼がデジタルの世界の住人であることを示している。
髪も短くさっぱりとした見た目の好青年だが芋虫を飲み込もうとするような表情がすべてを台無しにしていた。
「--本日未明、ラジオ記念館屋上に正体不明の未確認構造物が墜落しました。当局はテロ等の可能性も考慮し付近の立ち入りを禁止しています。構造物の発見から十時間以上経っていますが未だ広報官からの公式な発表は一切ありません。不安の声も多数あーー」
彼は煩わしそうに手を振って仮想画面《ARモニター》のニュースAIを消す。
科学技術が進歩した現代で、トランスヒューマンは脳を計算機械にアクセスして超高速思考を実現し、ナノボットが望んだ料理を提供してくれるようになると企業は喧伝するが、生憎なことに未だ家事ロボットの料理部門は実用化されていない。
メガネはどうすれば美味しい料理を作れるかを教えてくれても純生身のハヤトの体は指示通りの動作を行えない。
そしてナノは値段が高い。こんなことで|サイバネ義肢が欲しくなる《機械を指に埋め込む》なんて思いたくなかった。
それが思いっきり牛乳をこぼしたハヤトの本音だった。
いらだたしげに仮想コンソールを操作し|スクラビング・ゴシゴシ《お掃除ボット》の一団を呼び出す。これで粗相しな部分はきれいになるだろうが自分はどうするべきかハヤトは悩んだ。朝ごはん作りを続行するべきか否か、、、、、、
*
結局彼が一息つけたのは昼過ぎに様子を見に来た幼馴染の楓が手伝ってくれてからだった。応援が来る前に引き起こされた大惨事については彼の名誉のために伏せておく。
「いや~、母さんがハヤトの様子を見てこいって言うから来たけど卵を焼くだけでなんであんなことになるのよ。もう、最初からあたしを頼りなさいよ!あと廊下がびしょびしょなのはなんで?」
「いやお前も家事ができないタイプだと見くびってたよ。ほんと助かった。あー廊下はボットの設定ミスった。疲れててな、マジありがとな」
「素直にお礼を言うなんて珍しいじゃない。どんだけ疲れてんのよ」
言い返す気力もないようでソファに倒れこむ。
そして楓の服装に目をやる余裕ができたのだろうか、楓の方を見つめると居住まいを正す。
彼女がかかとを二回打ち鳴らすと白のノースリーブにデニム地のホットパンツという露出の高い服装が一瞬で菜の花色のエプロンと三角巾という組み合わせに変化した。ナノウェアのなせる業である。
そのナノウェアがウィーズ社製であることを示す印章が画面端にポップアップする。
楓とは幼馴染として長い付き合いがあるハヤトだが髪を括った姿はそうそう目にするものではないし彼はうなじフェチでもあるので緊張せざるを得なかった。
「何よ、こっち見ないでよ。は、恥ずかしいじゃない」
「ば、ば、ばかやろう!変に意識してんじゃねーよ!」
お互いに顔を見れないまま、黙々とチャーハンを口に運ぶことにしたようだ。
*
遅めのブランチをとったあと明日以降の話になった。ハヤトとしてはかなり情けないことだが楓は明日からもハヤトに給餌(誤字ではない)をすることになった、というかすることにした。
インスタントオンリーじゃ味気ないし体にも悪いだろうという涙が出るような配慮である。無論、前世紀のカップ麺ではないのだから手軽さと栄養価はちょっと値段をかければ十分に両立するはずだがそれは言うだけ野暮というものだろう。
そんなわけで2人は食材を買いに街へ出かけた。
せっかくだからゲーセンにもよるらしい。
建前上は食料の買いだめだが明らかなデートである。
そこそこ大きな街になるとやはりカラフルな3D広告やヘルプアシスタントAIのイルカが遊泳している。これらはスマートグラスをつけていなければ見えもしないし聞こえもしない者たちだ。初めてAR化モデル都市計画が提案されたときは健康問題やら安全の問題とやらで喧々諤々の議論が交わされた、が実施されて起きた問題らしい問題といえば酔っ払いが噴水に設置されたデザインフィッシュを幽霊と思い込んで騒ぎになったとかそのくらいのものだった。今では全国的にAR都市化は広く進められ元新宿地区などはかなりの魔境と化している。
列車を降りたタイミングでそういえば、と呟いてハヤトはグラスのAR表示レベル設定を弄る。先日「|サイバネ《CYBERNETICS》・AIの将来とトランスヒューマンの可能性と娯楽のための博覧会」通称「キャットエキスポ」に参加したとき、あちこちの展示を見るために仮想画面の表示レベルを最大にしていたのを思い出したからだ。道理でやけに広告がうるさく感じた訳だと1人で納得する。
「もう、歩きスマホは危ないんだから。やめなさいよ」
「スマホじゃないし」
「へりくつだよ!そんなの。どっちにせよ事故の元じゃない。人ごみでメガネ落っことして踏まれても知らないんだからね?」
「わりぃ、わりぃ。はぁ、俺も外付けのスマートグラスじゃなくて早くインプラントと拡張肢体にしてぇなぁ。」
「私は嫌だな。体を機械に置き換えるなんて自分が自分じゃなくなるみたい。」
そんな感じで駅からでた2人は午後の直射日光と道路のきつい照り返しの中歩き出す。
ちなみに楓は麦わら帽子を追加装備しハヤトはジーンズにポロシャツといういでたちだ。
「朝のあの様子ならハヤトはニュースを見れてないでしょうね。」
彼女が手を振るとあらかじめ登録されていたニュースの記事が二人の視覚に共有される。
「今朝ラジ館に謎の衛星らしきものが墜落したのよ。後で見に行かない?あんたこういうの好きでしょ。」
「へぇ、すごいな。合成とかじゃないのかコレ。ていうか歩きスマホはいいのかよ。まぁ行きたいけどな!」
「言うと思った。じゃあ野菜を買うのは最後でいいでしょ。先にラジ館に行こうか。」
「しかし謎の構造物とか衛星とか書かれてるけどどっちかっていうと小屋って感じだよな。」
「さあ?小屋が空から降ってくるなんてそっちの方がおかしいわよ」
ラジ館は駅から少し歩いたところにある五階建てのビルだ。周辺の通りには「KEEP OUT」と書かれた黄色いビニールテープがMR空間に張られ立ち入り禁止となっていた。もの珍しさからか多数の野次馬がいるようだ。ほとんどが自らのメガネに手をやっているのは写真を撮っているからだろう。いくつかの印章はニュース会社の職員であることを示している。
「ここからじゃ何にも見えないねー。ズームしようにも人が多するよ」
「仕方ねーな。別にそこまでこだわりあるワケじゃねーしいいよ。いくぞ」
このご時世に生で見るのも他人のキャプチャも変わらない。
ハヤトは直接見るのが難しそうとわかるとすぐさま踵を返す。自分たち以外にも野次馬しようとどんどん人が集まってきているせいで戻るのも一苦労となりそうだったからだ。
いつの時代も奇特な人間はいるものだ。
何気なく楓の手を取り歩き出すハヤト。
「へ?へ、へ~え、え?」
楓は動揺しすぎてへの三段活用を見せてしまう。
「あんだよ、別にいいだろ?はぐれちまうぞ」
そして野次馬から抜けるとすっと手を放してしまう。
「そんなにいやだったか?」
顔色をうかかがっておいて開口一番に言うのがこの一言という朴念仁っぷりである。
おかげでしばらくの間、つまりハヤトがアイスを奢るまで楓はむくれっぱなしだった。
*
夕方になり2人も家に帰ろうと駅へ急ぎ足で向かっていった。夏特有の夕方になってから急に降る雨、夕立が降りそうだった。雲は黒く不機嫌そうにゴロゴロと鳴いた。
急いでいたハヤトは近道をしようと少し狭い路地を選んだ。なお、彼は楓の手首をつかんでいる。
その路地の途中でハヤトはあるものを目撃する。
それは路地裏にあった。まるでそれが普通ですよと言わんばかりだ。
ハヤトは始めARマーカーの故障や強制的にポップアップする透過型の迷惑メールが送り付けられたものだと考えた。まさかそれが実際に存在するとは思わなかった。
だが楓もそいつを目撃していた。
ハヤトが自分が見たものを信じられないのも無理は無かった。
そこにあったのはミミズののたくったような字で拾ってくださいと書いてある段ボール箱とその拾って欲しいのであろう目的物だった。そこに入っているのが巨大なトカゲだったとしても彼はここまで狼狽しなかっただろう。
いや正確に言うなら箱の中には黒猫もいた。だからこそ「黒い三角帽にマントをかぶった中学生くらいの女の子が体育座りをしている姿」は仮想空間上のものだと考えてしまった。
少女は立ち上がると傍らにあった杖でハヤトをスっと指した。
ハヤトは思わず後ろを見てしまうが路地には彼を除けば楓しか居なかった。
「あなたがハヤトであってるか聞くのが私、オーロラ・シルクなの。」
しかもその娘は片言で話しかけてきた。