私の頭の中のボールペン
恋人が記憶喪失だなんて、小説の世界だけだと思っていた。
現実味を帯びた現象のようには思えなくて。物語を引き立てるためのスパイスなのだと無意識に捉えていたためピンとこない。いや、あくまで可能性の話だと言われた。
ある日、病魔に襲われ倒れた彼女――最早、笑いさえこみあげてくる「成功率に一抹の不安が残る手術」と「僅かな余命生きる」という残された二つの道。そんな選択肢の一つである手術を行えば成功したとしても、脳の細胞に傷をつけて記憶を損ねるかも知れないと医者は語ったのだ。
病気になっただけでも不幸なのに――どうして彼女がそんな目に。
そう、思ったけれど。
でも、記憶を差し出してでも――僕は生きていて欲しいと思った。
形あれば、もう何だっていい。
姿に意味があるわけではないけれど、生きていれば……ただ、生きていれば。
存在が、そこにあればもう何も要らない。
例え、僕が忘れられても――。
そんな僕の願いと彼女の生きたいという願望が重なって行われた手術。
途方もない時間を経て終了し、医者からはとりあえずの成功を告げられた。あくまで命を繋ぎとめるという意味ではあるけれど一つの山を越えたという心地に胸を撫で下ろしつつ、そんな成功を素直に喜べない懸念が心の中にこべりついているのは、僕の贅沢なのだろうか?
それでも――手術の前に僕は言った。
――忘れないで、と。
忘れないよ――、と彼女は笑って返した。
そんな約束を握りしめ、膝から崩れ落ちそうな不安を抱えて、不幸な未来を脳裏に過ぎれば、掻き消して。平穏な未来を、とびっきりのご都合主義を必死に描いて、祈って……数多の日々が過ぎた。意識が戻るのにも時間が掛かって、集中治療室の中で限られた面会時間を過ごすのは僕にとって苦痛だった。
握り返す手が、誰なのか認識しているのか?
管と、機械に囲まれ、未だに生と死の境目を彷徨っているように見える彼女の弱々しい姿。呼吸の度に上下する体、薄っすらと開く瞼、その隙間から零れる涙を見つめる最中――無常で無慈悲な医療器具の電子音が鳴り響き、不安と懸念はただ涙腺に感情を集めて熱くする。
零れた涙が触れた彼女の手が、弱々しく握り返す。
その度に僕の心が壊れ、砕けて挫けて、くたびれる。
見ていられない存在から――目が離せなかった。
目を覚ましたら目一杯文句を言ってやろう。
そうしようと心に決めてから更に日々を重ねて数日、一般病棟に移る事によって彼女の容体が快方に向かっているという事は容易に想像出来た。体を纏っていた医療器具も数を減らされていき、そしてとうとう――人口呼吸器が外される日がきた。
僕はその日、彼女の両親らと一緒に病室へと向かった。恋人である僕個人の立場的に両親との対面は抵抗があるのだけれど、それでも胸中に宿した不安には敵わずに大した緊張には成り得なかった。
寧ろ、記憶喪失の可能性が語られていた分、彼女の両親とは不安を共有出来たように思う。
そして――対面。
随分と痩せ細った彼女。綺麗に腰まで伸ばしていた髪は一部が手術の都合で刈り取られ、縫合部を中心に包帯が巻かれた。看護師にリクライニングとなっているベッドを起こしてもらい、背もたれ付きの椅子に腰掛けたような形となった彼女は――、何も喋らなかった。
一言も、喋らなかった――が、喋ろうという挙動は見せたのだった。
その瞬間に、僕は思い出す。
彼女が病気を患い、手術を行って、その副作用で記憶がなくなるかも知れないと感じた日からネットや医学書で極力、情報を集めるようにしていたのだ。妙な妄想に取りつかれかねないので、専門家でもない僕がそういう中途半端な知識を得るのは良くないのかも知れない。悪い例に行き当たって気落ちする可能性だってあるけれど――知らずにはいられなかった。
そんな最中に知ったのだ。
言語自体を失う可能性がある、と――。
言葉と物の結び付きが失われ、会話が満足に行えなくなるという事。
そんな挙動を見せる彼女に対して、両親は歩み寄って「自分達が分かるか?」と問いかける。しかし、言葉を聞くという意味でも理解出来ないのか明らかな混乱を見せる彼女。とはいえ、言語関係が完全に失われていても、既視の人物である両親のそんな反応はおかしいのである。
ならば――。
そんな挙動に両親を含め、一歩引いた位置から見つめていた僕も悟る。
言葉に加えて、身近な人間に対する認識さえも――忘れてしまった。
寧ろ、両親よりも術後に接した回数の多い看護師の方に信頼を置いていると言わんばかりに彼女は見知らぬ老いた男女が寄ってくる様に混乱と恐怖を、無言ながら挙動で示した。
何も覚えていない。
言葉どころか、誰も。
それは――もう、空虚も同然ではないか。
彼女の両親が膝から崩れ落ちる。母のむせび泣く声と、それをどう扱ったら良いかも分からず抱きしめて、背を優しく叩く父の姿。愛する娘から忘却を突きつけられ、今日まで積み立てた記憶の全てが失われている現状に最早、取るべき対応も分からないと――。
そんな、見ず知らずの老いた男女の理解出来ない挙動に苦しむ彼女と、ふと僕の視線が合った時――奇異な事実が露呈した。
目を見開き、まだ点滴の繋がれた手を必死に僕の方へと差し出して……それはきっと、僕の手を取ろうとしているのだろう。口を必死に動かし、喋るという行動を感覚的に覚えていながらボキャブラリーがゼロとなってしまった言葉を必死に紡ごうとする彼女。しかし、言葉にならない思いが吐き出せずに、悔しそうな表情を浮かべる彼女の唇が震える。
そんなもどかしさからか、涙が一滴――彼女の頬を伝う。
そんな瞬間に――僕は気付いた。
僕の事を忘れるな、と約束した彼女は――失われる記憶の中から必死に、僕という存在の認識だけを守った。失う記憶に関して取捨選択の機会が設けられていたとは思えないものの――しかし、彼女はそれを意図して保持したように、僕は思った。
そんな約束の履行って――あるのか。
僕はただ認識に突き動かされ、感情を泣く事でしか表に出せない赤ん坊のような彼女と、同じ表情で涙を零した。
次から次へと溢れ出て、止まらない。
止めるという感覚さえ、起こらない。
そうだ――世の中の物語において、愛する者の記憶を失うなんて、嘘だ。本当に愛しているのならば、その他の全てを捨ててでもこうして守るのだ。奇跡だとか、ご都合主義的な展開に見守れ――味方されて、彼女は必死に僕との記憶だけを、
その約束を――守った。
言葉が無くなって、何も言えないけれど。
でも――姿形があって、存在があり、僕と彼女がいる。
それで、いいじゃないか。
何も言えず、目元に涙を溜めてこちらを見つめる彼女に僕は歩み寄ってそっと、どこか壊れ物のように抱きしめた。二人分のすすり泣く声と、高鳴る鼓動が僕らの鼓膜にそっと響いている気がした。
二つの瞳と、一つの心臓。
互いの愛情を伝え合うのに――言葉なんて要らない。
無粋な言語が飾った感情を越えて、より身近に感じられる彼女の存在によって――心の在り処を知った気がした。