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くわっと口を開けたコグマ――とは言え、もう既に私の背丈なんて越えているので、はたから見れば襲われていると勘違いさせてしまうだろう。
この子は相変わらずで、私が姿を見せると、すぐに駆け寄ってくる。もふもふっぷりも相変わらずなのだけれど、大きくなって少し獣臭さが増した。
「よっと」
私を捕らえんとする両腕を避けつつ、コグマの側面に回り込む。コグマの突っ込んできた勢いをそのままに、腕を引っ張り込んで受け流した。
コグマは前のめりになり、ころころと転がってゆく。ある程度転がったら、俊敏な動作で立ち上がり、再び向かってくる。それを何度も繰り返していた。
最初は流しきれずに押し倒されることが多かったのだけれど、今では上手く捌けるようになっていた。力の流れも、何となく分かってきたような気がする。
とは言え、これが人の相手だと、また違ってくる。今はクロード兄様も学園に戻られてしまったため、組み手をしてくれる人がいないけれど。
クロード兄様は本当に容赦なく投げ飛ばすため、一時期は身体中が痣だらけになり、お母様が憤怒の形相で兄様に迫ると言う事態に陥ったこともあったけれど、今では懐かしい。
ただ、そのお陰もあって、受け身は上達したように思う。クロード兄様も「まずは受け身だ」と常々言っていた。
「そいっ」
ころんとコグマを転がした先――少し離れたところで、この森の守神にして、この子の母、今はその巨躯を横たえて、じっとこちらを見つめているグリズリーの姿があった。初めての立ち合いでは、燃えるような野生の荒々しさを秘めた瞳も、今は穏やかな色をきざしている。
ころころと転がされている我が子を見て、何も思わないのか。それとも危害を加えないと信じられているのか。どちらにせよ、当時では考えられない状況だった。
静かに唸った後に悲しそうな声で鳴き始めるコグマ。少し受け流しすぎたか、と私は両腕を開いて、受け入れ体勢を取る。もちろんプロテクトジェルは保険で身にまとっている。そこに割と良い勢いで突っ込んでくるコグマを両腕で抱き、地面を転がった。
「よーしよし、ごめんね」
もふもふを堪能していると、少し離れたところで母熊が険しい表情で唸っている。いや、そこで怒るのかよって思っていた時期もあったけれど、今はもう慣れた。
「ちょ、こら噛むな」
そりゃ本気で噛まれれば、ジェルがあるとは言え、骨ぐらいはやられてしまうだろう。だから甘噛みだと分かるのだけれど、それでもジェル越しとは言え、噛まれるのは少し怖い。ちょっと本気で頭を叩いて、一瞬緩んだ両腕の拘束を解いて脱出する。
くんくんと悲しそうな声で鳴いているけれど、少し反省しろと言わんばかりに放置した。
「今日はそろそろ帰るよ」
もうしばらくコグマと戯れてから、最後に頭を撫でつつ別れを告げる。図体は大きくなったのに、ずっと悲しそうに鳴き続けるのは変わらない。だから私もあまり気にせず、そのまま帰路についた。
季節は一巡りを済ませていた。とは言え、私にも生活にも大きな変化は無かった。毎日コグマと戯れて、時には母熊と修行もして、日々を過ごしていた。母熊――グリズリーの相手は、やはり骨が折れる。と言うか、本当に折られた日もあった。そんな日はお母様にこっぴどく怒られるし、お父様は静かに席を立って、「シメてくる」とか言い出すし、ラインハルト兄様からは「今すぐ帰る支度をする」と手紙が届いた日に帰ってくるし。大きな変化が無かったとは言え、日々賑やかに過ごすことができた。
そんな素敵な我が家を離れる日が刻々と近づいてきている。それは半分嬉しく、そして半分寂しくもあった。
来月からは学園に入学するため、寮に入ることになるのだ。とは言え、クロード兄様のようにふらりと帰ってくることもできるので、それほど大袈裟な話ではなかった。
「――っ」
我が家が見えてきた頃、ぴりと肌を刺すような空気の張りに息が詰まる。
この気配は恐らく――私は気配のする方に向かって走り出していた。
命が逃げてしまったかのような空間。純粋なる静寂は、背筋に冷たいものを誘う。叫びたいのに、その行為に抱く罪悪感が私を躊躇わせる。
裏庭。そこに、その人は立っていた。木漏れ日が金を彩り、髪は輝く。目は閉じたままで横顔は未だ幼さを残す。まだ齢は十六。それは当然のことだ。薄いシャツを一枚、それでは隠しきれない肉が隆々と、その存在を主張する。
息をするのも忘れるぐらいだった。クロード兄様と違って、共有した時間は少ない。だから、声をかけるのを躊躇ってしまったのか。どちらかは分からない。と言うより、どちらでもよかった。
「……アリサか、久しぶり」
すぅと開かれた碧眼は、刹那で幼さを消してしまうほど、静かな色をきざしていた。
「ラインハルト兄様……お久しぶりです」
「グリズリーの時に帰った以来だね」
「そうですね」
何と言葉を繋げればいいのだろう。色々と訊きたいことはあるのだけれど、それを上手く説明できなかった。
「どうだい、少しは強くなったかい?」
そんな私にラインハルト兄様は優しく問いかける。まるで私の心を覗いたかのような、話題の選択に正直感嘆する。
「いいえ、それほどは……」
「そうかい? 立ち方とか良くなっていると思うけどね」
「良くなってます?」
「うん、何て言うかな……地面にずーんと立ってるんだけれど、すらっとしている感じ」
どんな感じだよと苦笑を禁じ得ないけれど、これがラインハルト兄様だ。
「自然体だけれど、しっかりと大地は掴んでるってことですか?」
「そう、そんな感じ」
はっはっはと軽快にラインハルト兄様は笑う。
「うん、やっぱり良くなったね」
「そうですかね……?」
今一つ、私は自身の成長を信用できない。『断』の魔術を多重展開せずとも、グリズリーの一撃を防げるようにはなったけれど、戦績は未だ五分五分であった。
「何だろうなぁ……雰囲気はそのままなんだけれど、何かぐわっと向かって来そうな感じがするよ」
「――では遠慮なく」
たん、と一歩で兄様との距離を零にする。エアロブーストの恩恵を最大限に活かした結果だ。
「速くなったね」
それなのに穏やかな声が首筋を撫でる。ぽんと頭に手を置かれてしまった。それも前からではなく、後ろからだ。私は完全に背後を取られていた。
「しっ!」
コンパクトに身体を捻り、右腕の肘を打ち出す。それも片手の人差し指で受け止められた。
その結果は知っている――だから私は続けざまに、右足刀で蹴りを放つ。狙うは急所。容赦などしない。否、この人に容赦などいらない。だって足刀は空を切ったから――
「狙いがえぐいよ、アリサ」
ラインハルト兄様は、いつの間にか安全な距離まで避難していた。でも、そこも――
「アリサ、魔術は無しだ」
振り上げたままだった右足で地面を叩き、魔力をぶちかます。火と土の混じり合った拳が、ラインハルト兄様の顎を叩くかと思いきや、今度は手のひらで止められた。もちろん手は抜いていない。最大出力だ。
「そんなセコいこと言わないでくださいよ。兄様なら、私の全力ぐらい受け止めきれるでしょ?」
「いやぁ熱いしさ、これ」
「なら冷たいのなら、どうです?」
放つのは水弾――ウォータバレットだ。威力は低いものの、手軽に使えて多重展開が容易であるため、連射が可能になる。
それをラインハルト兄様は跳躍で躱す。残影をそのままに、一瞬で回避に成功した兄様の向かう先は木々の上。ざわと葉が揺れた。どこから来る?
「それなら僕は武器を使わせてもらおう」
すとんと目の前に重みを感じさせない動作で降り立ったラインハルト兄様。その手には木の枝が握られている。腰を僅かに落とし、枝を剣に見立てて構えたのだろう。
刹那、背筋を悪寒が這い回る。迫る死の感覚。『断』の障壁を瞬時にできる最大数を展開し、更にジェルをまとい、更に土の腕を生みだし、それを攻勢ではなく、守勢に使う始末だ。
それでも生きた心地がしなかった。吹き出した汗がだくだくと頬を流れてゆく。
「視界を塞ぐのは良くない」
薄れる意識の中、穏やかな声が私に告げる。ほんの少し首筋を触れられたような感触と、その言葉だけを残して、私の感覚は闇の底へと沈んでいった。
「アリサ」
呼ぶ声に、私の意識が浮かび上がる。意識を手放す前の記憶に辿り着き、「やられた」と呟かずにはいられなかった。
剣聖の名は伊達ではなかった。ただ構えられただけで、あそこまで違うものかと思い知る。今まで幾度となく手合わせをしたものだけれど、ラインハルト兄様が構えたのは、これが初めてだったのだ。
――こんな人に、いつかは追いつけるのだろうか?
そんな疑問が脳裏を過ぎる。クロード兄様なら「無理だ無理、絶対無理」とか言い出しそうだ。だって私も正直無理だと思うし。
「大丈夫かい?」
身を起こした後、黙り込んだままの私を心配したのか、ラインハルト兄様が顔を覗き込んでくる。底まで見透かせそうな澄んだ海の色に覗かれると、何故だか心がむず痒くなってきた。
「ええ、大丈夫です」
正直に言うと、私はラインハルト兄様が少し苦手だ。苦手と言うよりは、まだあまり親しめていないと言うべきなのだろう。
クロード兄様とは過ごした時間のおかげで、割と遠慮も無い。ただラインハルト兄様は昔から学園や騎士団に引っ張りだこで、あまり家に帰ってこれなかった。そのため私がラインハルト兄様に容赦なく接することができるのは、先ほどのような手合わせぐらいだった。何度かの手合わせで悟った圧倒的力量さを信頼していると言ったら、少し変な気もするけれども。
「立てるかい?」
私と同じ目線を保ちながら、ラインハルト兄様は問う。それに頷きながら、私は先に立ち上がった。ふわりと地面を踏むような感覚に少々焦る。まだ四肢の感覚が少し遠かった。
「わわっと?」
そんな私を一瞬で抱き上げ、そのままゆったりと歩き出すラインハルト兄様。顔が近く、澄んだ碧眼がじっと私を見つめているためか、心が落ち着かない。
「に、兄様、大丈夫ですってば」
「まだフラついている、大丈夫じゃあないだろう」
身体の重心を掴まれているのか、まったく抵抗ができない。なされるがままに運ばれてしまい、そのまま椅子にそっと下ろされる。何だか最近はこんなことばっかりだなぁ。
「すみません、兄様」
「気にすることはない。むしろ謝るのは僕の方だ」
悲嘆の色を滲ませる表情すら、儚さを覚えて絵になる。まったく、これが兄なのだから大変なのだろうなぁ、と今は学園に大人しく通っているクロード兄様に思いを馳せた。
「強くなったアリサだから大丈夫だと安易に考えてしまった僕が悪い。本当にすまない、もう少し手加減をするべきだったよ」
「……それはそれで少しむかつきます」
「むか?」
「いえ、何でもないです」
あまり成長できてなかった自身に落胆と、さらっと手加減とか言っちゃうラインハルト兄様に少し苛立ちを覚えつつも、それをぐっと飲み込む。結局のところ私が成長できてなかったのが悪いのだから。
「もう大丈夫かい?」
「はい、ありがとうござます」
椅子から立ち上がっても、もう問題は無かった。足の感覚も戻っており、その場で少し跳んでみせる。
「いやいや、気にすることはない……が、アリサはひとまず身体を洗ってきたら、どうだい?」
少し臭うよと言われ、先ほどまでコグマと戯れていたことを思い出す。服もかなり汚れており、このままだとお母様が帰ってきた時に、また怒られそうだ。臭うと言われたことに少々思わないこともないけれど、ひとまず言うとおりにしよう。
ラインハルト兄様には、たくさん尋ねたいことがあった。
どうすれば、そこまで強くなれるのか。
学園では、どんなことをしたのか。
騎士団は、どんなところなのか。
一番訊きたい強さのことは、まともな返しがあるとは思えず、苦笑を禁じ得ない。
あれは感覚の人だから――クロード兄様は苦い顔で、そう言っていた。
だとすれば学園や騎士団のことだろうか。私は将来騎士になろうと決めているわけではないのだけれど、やはり強さを求めてしまうと、行き着く先はそこになってしまう。
身体だけを拭き、髪も乾かさずにリビングへと戻ると、話声が聞こえてきた。この声はラインハルト兄様とお父様だ。
「心配ないよ、父さん。白龍は静かに過ごしてるから」
「……そういう契約だ、守ってもらわねば困る」
白龍――その名は幾度となく耳にしたことがあった。お父様の部屋にあった書籍でも見たことがある。
その昔、地上に魔が跋扈し、空に竜が舞っていたと言う。人の世も混沌で人外との戦いに備えなければならないにもかかわらず、身内同士での争いも絶えなかったそうだ。
その混沌とした世を、一人の英雄が治めて、竜の長と和平を成し、地上から魔を駆逐したと言う。
英雄の名はルーデル・ベオヴォルブ、竜の長は純白のその体躯から白龍と呼ばれるようになったらしい。
つまり、今の話はルーデルお父様と白龍の和平――その際に交わされた制約の一部なのだろう。
「しかしだ、最近は竜の目撃情報が多いし、その被害も増えてきていると報告書にもあったが」
そっと部屋を覗くと、鬼気迫るお父様の姿があった。ただ椅子に腰掛けて、物憂げに考え事をしているだけのようにも見えるのだけれど、それを見ているだけで、何かぞっとしない。
「父さん、抑えて。アリサが怖がってる」
「……すまん。アリサ、おいで」
お父様の手招きに応じる。二人の間に座り、次の話を待った。
「とにかく騎士団で対応できるから、父さんが心配することはないよ」
「……対応しきれてないから、被害が出ているのではないのか?」
「手は打ってあるし、もう後手に回らないから大丈夫だよ」
そうか、とお父様は乗り出していた身を背もたれに沈めた。
「もし魔術関連で困ることがあれば、いつでも言え」
「そうですね、その時は頼らせていただきます」
「あら、何か困ることでもあるのかしら、ラインハルト?」
第三者の冷たい声に、お父様とラインハルト兄様の表情が強張った。張りつめた空気に、第三者――お母様は容赦なく続ける。
「まったく、自力で何とか出来ないとは何事ですか? そんな温い育て方をした記憶は無いですよ?」
ラインハルト兄様は完全に言葉を失い、ただただ視線をさまよわせるばかりであった。
「剣聖の名に恥じぬ力を、貴方は持っているでしょうに」
「いや、でも母さん――」
「大体、私がいなければ、白龍に潰されて殺されていた、この人に何を頼ることなどあるのです?
炎は斬り裂き、豪腕は受け流し、飛んだら叩き落とすのです」
それが出来るのが剣聖です――堂々たる振る舞いで言い放つお母様は、いつになく凛々しい。そしてお父様は小さくなって、しょんぼりしていた。
「お、俺だって必死にサポートして、何か半狂乱になって戦ってたお前と白龍を止めて、和平までこぎ着けたのに……」
「それが甘いのです」
ぴしゃりと切り捨てられて、お父様の頬が濡れた。
そんなお父様に一瞥もくれず、お母様は険しい表情で続ける。
「ラインハルト、表に出なさい」
「え、でも――」
「出なさい」
真剣の如き鋭さをはらんだ瞳でお母様は告げる。『剣鬼』の娘にして、『剣姫』の名を与えられ、初代『剣聖』とも呼ばれたお母様――アリエラ・ベオヴォルブに連れられていく二代目『剣聖』かつ英雄のラインハルト・ベオヴォルブは「助けてくれ」と視線で訴えかけてきたけれど、私には、どうすることもできなかった。
「……私は剣の才が無くても、良いと思いますよ、お父様」
「ありがとう、アリサ」
しばらくして男性の悲鳴が遠くから聞こえてきたけれど、私とお父様は平和な日常を甘受し続けた。