:002―(2)
「何をしてるんだ、お前は」
凶爪は行く手を阻まれ、鈍い音を立てて折れた。
「げ、お前、こいつグリズリーじゃねえか」
振り返れば、少しだけ嫌そうな顔をしたクロード兄様の姿があった。
「ったく、派手に散らかしやがって……だから森に怒られるぞって言っただろう?」
「兄様が、もっとちゃんと説明してくださっていれば、こんなことになっておりませんよ!」
「こんな時まで減らない口だなぁ、おい?」
呆れたように肩を竦めつつも、その瞳は油断なくグリズリーと呼ばれた大熊を捉えている。
クロード兄様の登場で、グリズリーの動きにも慎重さが増した。低く唸りながらも、先ほどのような猪突猛進な動きを見せなくなった。
その隙に私も立ち上がり、クロード兄様と並ぶ。
「ところで兄様、先ほどの一撃をどうやって防いだのです?」
「ああ? お前も知ってるだろ、『断』の魔術で遮断しただけだ」
「障壁何枚で受け止めたのですか?」
「ん、あれって多重展開できるのか?」
まさかの返しに、嫌でも技量の差を感じさせられて絶句する。五枚展開して、ようやく止めることができた一撃を、兄様は一枚で受けきったのだから。
「……それで防ぎきれなかったんですけれども」
「それは、お前がまだまだってことだ」
別に俺は特別強くねぇし――そんなことを、さらりと言ってしまう。そんなことはないと思うのだけれど、ただ比較対照であるラインハルト兄様が異常なだけだ。
「ほら、穏やかに談笑とはいかねえぞ」
クロード兄様は警戒を解かずに、じっと一点を見つめる。その先にグリズリーと呼ばれた大熊が、未だ唸り続けていた。
とは言え、まだ身体からダメージは抜けきっていなかった。小細工を重ねなければ、逃げ切ることも難しいだろう。風の魔術に頼るべく、魔力を練り上げる。それを表に放出することなく、四肢へと流し込んだ。
「風で組んだのか、弱気だな?」
そんな私の気配を察して、クロード兄様は鼻で笑う。風での強化――エアロブーストは主に機動力を底上げする魔術だ。当たらないことを前提にして、立ち回る必要性を感じたからこその選択だったのだけれど、兄様は違うらしい。
「へぇ、なら兄様はきっと強気なところを見せてくれるのでしょうね?」
「おう」
煽るつもりが、真っ直ぐな返事で応じられ、逆に私が絶句する。
「お前は下がってろ」
「で、でも――」
「大丈夫だ、負けるつもりはねえよ」
首の骨をパキパキと鳴らす兄様は、土の力を纏う。
「えっと、まさか正面から?」
「ああ」
俺はそれ以外を知らないからな――揺るがぬ決意。それは一歩一歩確実に踏み固めて進んできたクロード兄様の生き様なのだろう。先を迷いなく進んでしまうクロード兄様の背中は、あまりにも大きかった。
悠然と進むクロード兄様に対し、グリズリーのうなり声も大きくなる。
「何を言ってるのか分からねえし、殴り合うしかねえんだろ? おら、かかってこいや」
一歩を躊躇いなく踏み込むクロード兄様に対し、ついにグリズリーが一歩退いた。
「おいおい、身内をこんだけ可愛がってくれたんだ。ちょっとは歓迎されていけや?」
踏み込んだ左足と同時に、伸ばされた左腕がグリズリーへと迫る。
それを待っていたと言わんばかりに、グリズリーの右腕が大きく弧を描き、兄様の腕ごと巻き込んで迫る――かと思いきや。
「ふんッ!」
伸ばした左腕をたたみ、手の甲でグリズリーの右腕を受け止める。いや、受け止めるどころではない、叩き返した。
叩き返された右腕に引っ張られる形で、グリズリーの上半身が泳ぐ。あの豪腕を打ち返して、更に体勢まで崩すとか、どれほど恐ろしい力が今のクロード兄様に宿っているのか。戦慄が身体を貫く。
たたんだ左腕の勢いを、そのままにクロード兄様は続いて右腕を振るう。踏み込んだ左足に加重し、腰を返す。体重を乗せた右手の一撃が簡単にグリズリーの胴体に叩き込まれた。
「――っらぁッ!」
たんたん、と。右腕に続いて――まさに右腕を追うようにして放たれていた右足によるハイキック、とは言え、グリズリーの脇腹にしか届いていないものの、右ストレートからの右ハイキックコンビは酷い音を周囲にまき散らした。肉同士のぶつかる音で、こんな音が鳴ってしまうのかと、少し怖くなった。
ご、が、と小さく呻きながら涎を垂らすグリズリー。それでも、その巨躯は崩れなかった。明らかに戦闘不能になりえるダメージを受けているとは思うのだけれど。ぎょろりと血走った目でクロード兄様を睨みつけるだけで、身動きが取れていない。
「タフなやつだな」
クロード兄様は数歩下がって距離を取るも、未だ構えは崩さない。その身に宿す魔力は、トドメの一撃だろう。馴染みのある魔力がクロード兄様に集う。
「に、兄様っ、ダメですっ!」
「何を言ってるんだ? やらなきゃ、やられるだろ?」
「ちが、違うのですっ。むしろ、その方法だったら、最初から私が倒してたのですっ!」
その結果はグリズリーの絶命を伴って。『断』の魔術で斬り捨てれば、私だって不要な傷を負うことはなかった。ただ、このグリズリーが、もしもあの子の親だったら――殺せない、私にはできない。だから私は、不器用ながらも使い慣れない魔術で応戦したのだ。
「ああ、何を言ってるんだ、お前は?」
「こどもがいるんです!」
「こども……?」
動くことのできないグリズリーをしばし見つめたクロード兄様。やがて構えを解かずに、そっと後ろに下がった。
「で、そのこどものために、こいつを見逃せと?」
「そうです」
「……ったく、お前は」
クロード兄様は何か言いたげに口を動かすも、最終は呆れたようにため息をついた。
距離を取ったことで、グリズリーもゆっくりと前足を地面についた。未だ苦しそうに呻いているけれど、襲いかかってくる気配はなかった。そのまま踵を返して去ってゆくグリズリーに、どこからか現れたコグマが付き添ってゆく。それが森の奥へと消え去ってしまうまで見送った。
「ふぅ……って、あれ?」
ため息と同時に崩れる足。張りつめていたものが切れて、膝がかくかくと笑っていた。
そんな私を見下ろすクロード兄様は言う。
「先に帰るぞ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよぉ」
両腕で地面を這い、クロード兄様の足下に寄る。そんな私を冷たい視線で見つめるも、やがて諦めたようにため息をついた。
「世話ばっかり焼かせやがって」
「ごめんなさい」
ほれ、と背中を見せてくるクロード兄様。その首に両腕を回し、背負ってもらう。よく見れば、もう家のすぐ近くまで逃げてきていたらしい。少し歩くと、すぐに家が見えてきた。
「ちなみに、この件は親父に報告するぞ」
「な、何故ですの?」
裏返る私の声に対し、兄様は淡々と続ける。
「バカヤロウ、グリズリーはこの森の守神だ。そんなのと手合わせしちまったんだし、どっちにしろ、この森の荒れ具合を見たらバレるわ」
「ぐ、ぬう」
今更だけれど、そんなスゴいのを相手していたのかと、冷や汗が吹き出してくる。いや、それだけではなく、お母様は間違いないけれど、お父様も今回ばっかりは本気で怒るかもしれない。
もうちょっと慎重になろうと、心に誓ったところで、ひとつ気になっていたことを尋ねる。
「兄様が使ってた土の魔術、あれはどういうものなのですか?」
「ん、そんなに難しいものじゃねえよ。ただ岩をイメージするだけだ」
「それだけですか?」
「そうだ、が真似はするなよ」
「何かリスクがあるんです?」
「リスク、と言うか……」
クロード兄様はしばし悩みつつも、結局は教えてくれた。
「こればっかりは向き不向きがある。俺の場合は土の魔術との親和性が高く、かなりの堅さになることができるからな」
考えてみろ、とクロード兄様は続ける。
「他の防護魔術――そうだな、例えばお前が使ってたプロテクトジェルより、遙かに使い勝手が良いだろ? こっちは攻撃にも応用できる。つまり攻守一体の魔術だ」
確かにそうだ。その魔術が汎用されない理由――それが親和性なのだろう。
「もし親和性など関係なく、皆が兄様のように魔術を使えたなら……プロテクトジェルなどは淘汰されてしまっている。そういうことですね」
正解だ、とクロード兄様は笑う。背負ってもらっているため、頭をわしわしっとされることはなかった。
「むぅ、私には何が合っているのでしょうか?」
「それは心配すんな。入学すれば、嫌でも適性検査を受けるからよ」
親和性の高い順に第一、第二ぐらいまで教えてくれる、とクロード兄様は言う。
その後も学園の話が続く。四大要素だけではなく、日常で使い勝手の良い魔術、戦闘向きの魔術、生き抜くための魔術、様々なことを教えてくれる場だ、と兄様は私を椅子に座らせながら語ってくれた。
「――さて、話はここまでだ。もう流石に立てるだろ?」
ぐいとひっぱり起こされて、私も反射的に立ってしまう。ここで上手いこと崩れておけば、もう少し話を聞けたかもしれないけれど、刹那でそこまで思考が回らなかった。
「ドロドロのボロボロだし、さっさと洗い流してこい」
ぱん、とお尻を叩かれ、今更だけれど自らの酷い有様に顔をしかめる。服は袖が無くなってるし、スカートも裂けてボロボロ、四肢は擦過傷で血だらけ、ずきずきと痛む肘や腰は打ち付けたところだろう。
……これは全身しみそうだなぁ。
そんな私の思考を読みとったように、兄様は笑う。
「どうせ明日になったら、全身が痛み出す。それが嫌なら、ちゃんと謝って、母さんに治療してもらえ」
今度こそ、わしわしっと頭を撫でられ、クロード兄様は去ってゆく。もっと尋ねたいことがあったけれど、今は先に浴室へと行こう。
ボロボロになった服は捨てて、新しい衣類を準備する。一人で使うには少し贅沢な広さを誇る浴室で、悲鳴を堪えながらシャワーを浴びた。
シャワーを浴び続けて、痛みにも慣れてきた頃、クロード兄様との差について考える。多少の知恵知識を持って生まれたとは言え、まだまだ魔術の知識量は兄様に届かない。
「学園、かぁ」
早く行ってみたい。もっともっと使える魔術を増やして、兄様たちのように強くなりたい。
「あと一年かぁ」
入学までの年月を呟き、少し憂鬱になる。森での練習は、これまでのように行うこともできないだろう。となると、どう過ごすべきか、そんなことを考えている内に、お母様が帰ってきてしまい、結局謝ることをすっかり忘れて、こっぴどく叱られることになるまで、あと少し。