表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
惑星ジェミニ物語  作者: 森山 銀杏
番外編 『過ぎ去りし』
146/775

【外伝】 パースト・ゴシップ・ライター(前編)

その日は運のいい日であったのか。それとも悪い日であったのか。


後になっていろいろと考えるのだが、結論が私の中で出た事は無い。


三流記者を自負していた私が彼女のような人物に話を聞けたのは運がよかったのは間違いない。さらにスクープネタを聞かせてもらえたのも運が良かったと言えば良かったのだろう。


そのネタが、どうにも怪しげで、事実だとするなら国家機密級だったのが問題だった。


私は原稿を書き終えたとき、震えていた。死を覚悟していた。


闇に葬られる覚悟をしていた。


私の覚悟を支えていたのは陳腐であるが、記者としての正義感だった。


入稿が終わり、私の渾身の記事は雑誌に載った。


今思えばあんなゴシップネタが乗ったのが三流雑誌が三流雑誌たる所以だ。


しかし結局、私の命は脅かされる事も無く、なんの変化も無く、ただ日常が繰り返される結果となった。


それは運が良かった結果であるのか、はたまた運が悪かった結果であるのか。


私は真実を明かした英雄になるでもなく、恐れを知らぬ愚か者と断罪される事も無く、ただただ日常と言う時間の中で印象にも残らず消えて行った。


結局私は、私の蛮勇に意味が合ったのかすら……結論を出す事の出来ないままでいる。


◇■◇■◇■◇■


その日、私が取材対象と待ち合わせた場所は「コーンビーフ」という名前の寂れた喫茶店だった。


店の外観は薄汚れていて、看板として昔のクラシカル映画に出てくるようなネオンのような物が瞬くように光っている。こんな骨董品を維持するのにもお金が掛かるはずで、多分店長の趣味なのだろう。


おっかなびっくり、ドアを開くとからんころーんと、間の抜けたベルの音が響いた。


内装もこれまたクラシカルで、空気も淀んでいるかのように感じられた。


ちらりと、腕に巻いている端末を確認すると、大気汚染の警告は出ていなかった。つまり店の空気は清潔で、古びた店の内観に誤解しただけらしい。


「いらっしゃい」

店の中はカウンター席の奥には、枯れ木のような老人の姿が合った。ワイシャツの上に黒い簡素なエプロンを身に着けており、どこか寂しげな店内にあつらえたように似合っていた。


「どうぞお好きな席へ」


マスターであろう老人にそう言われて、私は少し唇を湿らせてから口を開いた。


「すいません。待ち合わせをしてるんです」


そう言って私は店内を見渡した。


カウンター席は八個、四人がけのテーブル席が二つと小さなものだ。店の中には、ほかの客は居なかった。


「すいません。奥のテーブル席を使わせてもらっても良いですか」


私のその問いかけに、マスターは「構いませんよ。待ち合わせとは嬉しい使われ方ですな」と皺をさらに濃くして笑みを作った。


確かに今のご時世、待ち合わせとは古風かもしれない。だがその使われ方が古い装いのこの店には似合っている気がした。私は愛想笑いを浮かべながら、奥の席のテーブル席に腰掛ける。


古びたテーブルの上にも埃は無く、清潔に保たれていたことに私は内心ホッとしていた。


店の一番奥の席に腰掛けると、そこからは店全体が見渡せる。

改めて店内を見ても、古びて居るのに手入れのされた店の中はやはりどこか奇妙で、まるで映画の世界に入り込んだようだった。


良い店なのか、そうでないかは私には判断がつかない。

それでもコンセプトにあくまでも準じている事を考えれば、この店はいい店なのだろうと私は思った。


とにかく注文をしなくてはならないと私はテーブルに置かれたメニューを手にとった。電子媒体では無かった。その辺もこの店の雰囲気を壊さないようにするための物なのだろう。


メニューを眺め、差し障りの無いものを選ぶ。


「日替わりコーヒーを一つ。ホットで」


「かしこまりました」


マスターの声を聞いて、一息吐き出した私はようやく店にBGMが流れている事に気がついた。おそらく楽器一つ。歌手が一人しか居ない、これまた古い曲だった。


歌詞を聞けば、どうやら歌っている彼は彼女に振られてしまったばかりらしい。


壁に貼られているポスターに年号が書かれていた。


1960年。今から932年位前だ。


今は2892年……遥か過去のポスターではセクシーなポーズを取った女性が投げキッスを私に送っている。私や、私の祖母が産まれるずっと前から彼女はポスターの中で932年も誰かに向かって投げキッスを送り続けているのだ。そう考えると、それは途方も無いような事に思える。


私が時間に関してよくわからない畏怖と、敬意のような物を感じていると、入り口のベルが再び気の抜けた音を発した。顔を向けるとクリーム色のコートを着た金髪の女性が扉を開けて入ってくる。


すらっと背が高く、鼻筋の通った美人。


彼女はビーコンキャンベル博士。若くして次元力学の権威だ。


彼女の名前が世に知られたのはやはり先のタイムマシーン作成計画だろう。彼女はタイムマシーン製造計画——通称T計画の技術責任者であり、計画の中核を担う一人だった。


彼女が居なければ、T計画の実行は後百年は遅れていたと言われているほどの才女だ。


そんな彼女はマスターに向かって「待ち合わせだ」と告げる。


そうした後、店の中を見渡し、私の姿に気づくと博士は軽く手を挙げた。


「どうも、貴方が雑誌の人かな?」


私は椅子から立ち上がり、頭を下げた。


「はい。今日は取材を受けてくださって、ありがとうございます」


「気にしなくていい。私にも含みがある」


そう言って彼女――ビーコンキャンベル博士は着ていたコートを脱いで畳むと、カウンターに居るマスターに向かって希代の才女は慣れた様子で注文を口にする。


「マスター。エスプレッソと、アメリカンドーナッツを八分割で」


「かしこまりました」


マスターの返事を聞いて、博士はテーブル席に腰を下ろして私を見る。


「君は注文したのか?」


「ええ、日替わりコーヒーを」


「無難だな。まあ、始めての店なら無難な方がいい。お勧めはアメリカンドーナッツだが」


「聞いたことがありません。食べ物なんですか?」


返事を返しながら立ち上がっていた私も博士の向かいの席に座った。私の質問に博士は笑いながら答えてくれる。


「いやいや、知らなくて当然だ。アメリカとメキシコの禁じられたお菓子だからな」


嬉々として話す博士の言っている言葉はおかしかった。才女の代名詞とも呼べる彼女のその発言に私は興味を引かれてしまう。


「禁じられているんですか?」


「そうだとも。もっとも今は合法だが。実際二十一世紀の途中から二十六世紀の間には法で規制されていた。健康に害があると言う理由でな。無論、毒物は入ってない。だが法律で規制でもしなければ止められない人間が居たということだ」


「へえ……そんなに美味しいんですか」


「……美味しいかどうかで言われると厳しいが、チープでね。この店でしか食べられない。物がくれば、一口進呈しよう」


「ぜひ、お願いします。ここは博士の行きつけなのですか?」


「たまにな。私の父が二十世紀から二十一世紀くらいのクラシカル映画のファンでね。父から教えてもらって、たまにドーナッツを食べにくる。煮詰まった時が多いな」


なるほどと私は内心、納得していた。この店を指定してきたのは博士の方からだった

が、私の印象としてはこの店と才女である博士との接点がイマイチ見出せていなかったのだ。


しかし、父親がそのつなぎとなっていれば何となく判らないではない。


些細な疑問を解消出来た事が少し嬉しい。


「それではここは博士のリフレッシュの場でもあるわけですね」


「そうだな。贔屓にさせてもらっている」


ビーコンキャンベル博士はそう言った後で、「ではまあ、本題だ」と口を開いた。


「前置きはこれくらいで。取材を受けようじゃないか」


軽い口調の彼女に私は苦笑いを浮かべながら同意する。


「台詞を取られてしまいましたね。改めて、取材を受けてくださって、ありがとうございます」


「いいさ。口を滑らせてしまうかもしれないがね」


「私としてはそうしていただけると助かります。ですが人類夢のタイムマシーンの裏話だけでも記事には十分すぎるほどです」


私はそう言って笑い、博士もそれに答えるように笑ってくれた。


「そうか。貴方の記事は何度か読んだ。誠実な記事を書く人だ、信用しよう」


キャンベル博士はそう口にしたが、リップサービスだろう。私の勤める雑誌は二流とも言えない三流雑誌だ。内容も実に雑多とした物で、この取材自体受け付けてもらえるとは思っていなかった。


「ご期待に添えるよう頑張ります」


「頼むよ。ただ計画自体は終わっていない。結果が出るのは早くて三百年後だ。遠い星の、遥か先から宇宙船が返ってこなければ始まる物も始まらない」


「いえいえ、だからこそ良いのですよ。未来に私たちが残す投資なのですから」


私の言葉に博士はわずかに目を丸くした。驚いたらしい。

それから実に楽しそうに笑った。


「未来への投資か。良いフレーズだな」


船の打ち上げ時のキャッチフレーズだったのだが……気を良くしている博士を前にして私はそれを言う事は出来なかった。取材対象の機嫌を損なうのは私としても本意ではない。


「タイムマシーンは人類の夢ですから」


私がそう言うと博士は「そうだな」と同意するように頷いた。


「そうだな。T計画におけるタイムマシーンはワームホールを持ちいたものだ。理論はそこのポスターより前に発表された古いものだ」


そう言って博士が指差したのは私が先ほど眺めていた投げキッスをしている女性のポスターだった。


私も下調べは行っている。次元と次元を繋いだワームホールを利用したタイムワープ理論は二十世紀半ばには既に発表されていた。また、その他にも時間移動に関する理論は多い。だがこれまで過去へ行く実証実験は行われなかった。


無論、基礎分野での実験は行われたが、過去への時間移動を目標とした実験は行われてこなかった。あの日、2890年の4月21日までは。


ワームホールが実現したのは二年前。開発したのは目の前のビーコンキャンベル博士だった。


次元の穴を意図的に開ける技術。入り口と出口が対となったそれは制御できれば、時間と道のりの長さを無視しての移動を可能にする。


アメリカエリアからロシアエリアまで立った一歩。


いや、月から地球までを一歩で繋げてしまう新しい技術だ。


人も、物も、物資でさえも。


一瞬でやり取りが出来るようになる……かもしれない。実際はまだワームホールを物質が通過できる技術は確立されていない。電波等が微弱にワームホールを通過できるだけだと言う。


そんな夢のワームホールはもう一つの可能性を抱えている。


それこそが”タイムマシーン”だ。人間は過去から現在、そして未来へと万人が共通で進んでいる。その常識を打ち破れる可能性があるのだ。


2890年4月21日は人類がついに時間にさえも牙をむいた記念すべき日である。


「博士は計画の最初期から参加されていますね」


「そうだな。ワームホールの実験から引き続き参加している。古参と言えば古参だな」


「その当時は時間逆行まで想定しておられたんですか?」


「していなかったと言えば噓になる。まあ、ワームホールと亜光速宇宙船の組み合わせがタイムホールの作成方法だから、ワームホールが出来てしまえば完成したも同然ではあるのだが」


「ウラシマ効果と言う奴ですね」


「そうだな。さっきも言ったが理論自体は古い。当時は亜光速を出せる宇宙船も、ワームホールももちろん無かった。卓上の空論だった。今はようやく駒が揃った段階と言うわけだ」


「亜光速宇宙船が開発されたのは二十六世紀ですからね」


「さきほど、未来への投資と言っていたが、いわば我々は過去からの融資を受けて、計画を実行できた」


「過去からの融資ですか? 良いフレーズです。頂いても?」

「ぜひ記事に使ってくれ」


博士は上機嫌でそう言って、笑った。


機嫌が良さそうだと判断した私はもう少し踏み込んだ質問をしてみる。


「博士は時間の逆行に可能性に関しては未だに意見が割れています。その事に関してはどう思われますか?」


責任者に問いかけるにはやや不適切な問いであったかもしれない。実験そのものの否定と受け取られる可能性もあったからだ。だが博士は私の問いかけにあっさりと頷いた。


むしろ同意さえしている様子で口を開く。


「当然と言えば当然だ。時間逆行をした者は居ないからな」


その言葉に私は言葉を重ねて見る。


「過去へ移動したと言う人間が居る事に関しては?」


私の問いの意味が分かりにくかったのか、博士は首を傾げた私は慌てて言葉を補足する。


「いわゆるオカルトの部類です」


その私の言葉に博士は合点が言った様子で苦笑い混じりに頷いてくれた。


「神隠しや、宇宙人、偶然出来た次元の狭間とかそんな部類の話ならノーコメントとさせていただこう」


「博士はあまりこういったお話が好きではありませんか?」


「嫌いではないが、進んで調べるほどでもないな」


「やはり、現実的ではないからでしょうか?」


「まあ、そうだな。もっとも、宇宙人に関しては否定も出来ないが」


「宇宙人ですか。意外ですね」


私がそう言うと、博士は肩をすくめる。


「そうかね? いや、宇宙は広い。人類が把握できているのはせいぜい数光年先までだ。宇宙には浪漫がある」


「浪漫ですか?」


「不思議かね? だが、科学者ほどロマンチストは居ないさ。慈善家は医者に、野心家は政治に、夢想家は科学者になるものだ」


博士はそう言って笑い、私も笑って返す。


「ほかの星は地球とはまるで違う進化を遂げるはずだ。なにせ、進化の歴史が丸ごと違うのだから。出来れば、私の生きているうちに宇宙人を見てみたいものだ」


「既に地球に居ると言う可能性は?」


私の言葉に、博士は目をしばたかせた後で、くつくつと笑いをこらえるように口元を手で押さえる。


「そうだな。いやもうしわけない。宇宙人が地球人を裏から操ってると言う話は……」


笑っていた博士が、言葉尻を小さくして、少し考え込むような表情を浮かべた。


「どうしました?」


「いや……まあ、いい。私はそう言う話を信じてない。これで良いかね?」


「え、ええ。大丈夫です。何か宇宙人に関してあったんですか?」


「いや、考えても無い可能性だったのでね」


博士はそう言って首を横に振った。そして不意に真面目な顔をして私にこう尋ねる。


「そうした記事の方がやはり、評判がいいのかね?」


私はこれになんと答えて良いものか返事に窮した。事実、そうした記事は評判が良い。


雑誌の購入層が欲しいのは娯楽で、必ずしも事実ではないのだ。そう言う雑誌だ。


「事実を究明する学者さんにおっしゃるに恥ずかしい話ですが、その通りで」


私のその言葉に一瞬だけ、ほんの少しだけ博士の目つきが変わったように私は感じた。


それは何か……ちょっとした覚悟を決めたような、そんな印象が合った。


「ではスクープを話そう。記事にしてくれて良い」


「ほう、なんでしょうか?」


私は飯の種の匂いにほいほいとそう相づちを打った。


「時間の逆行だがね。あれは可能だ」


ポンと博士はそう言った。実に短く、聞き取りやすい声のトーンで。


だが私は「そうなんですね!」と頷く事は出来なかった。


出来ます。と言われても出来るかどうかはやってみないと分からないと今、話したばかりだからだ。


学者の中には出来るわけが無いと言う一派も居た。出来ると言う一派も居た。


そもそも仮説通り六千年後から三百年後に移動できるかも議論の対象である。ワームホールを物質が通過した記録は無く、ごくまれに電波がその特異点を突破する事で両者が繋がっていると判断されているのみだからだ。


だが計画の責任者の一人に名を連ねている博士が否定的な立場でものを話すわけが無い。


「博士は時間移動は可能だと認識しておられると?」


私がそう訪ね返したとき、博士は首を静かに横に振った。


「もっと踏み込んだ話だ」


博士のその言い回しに私は首を傾げた。


「断言しよう。可能だ」


私は驚いた。時間逆行の可能性に関しては名言化できないのが通説だ。おおよそ出来る、出来ないは学術的根拠の違いこそあれ、おおむね『実際はやってみないと分からない』が正解だからだ。


だと言うのに博士は出来ると断言してみせた。


そんな私の表情を見て、博士はいたずらが成功した子供のように笑う。少女の可憐さは既に彼女には無いが、その笑顔は不思議と似合っていた。


「ええっと、冗談でしょうか?」


そんな博士の様子に私は咳払いをしてからそう訪ねる。だが博士は笑みを押さえて首を横に振った。


「いいや、冗談ではない。君は口が堅いかな?」


「……これでも記者です。口は軽い方だと思います」


「そうか。では君の正直さに私も賭けよう」


さらに続くよくわからな言い回しに私は首を傾げた。そこにフッと濃い香ばしい香りが漂ってきた。


「ご注文の日替わりコーヒーとエスプレッソになります」


私が注文したのが早かったはずなのに、同じタイミングでコーヒーを出してくれたのはマスターの気配りなのだろうか。そんな事を思いながら私は黒々としたコーヒーを眺める。香ばしいような香りが鼻腔をくすぐる。


「それとアメリカンドーナッツです」


大きさは手のひらほど。皿の上に置かれたドーナツは、なにやら茶色で上に白い粉がこれでもかと振りかけられており、何かシロップのような物も架かっていた。皿の上でそれは円形になっており、真ん中に穴が開いている。それが八等分に綺麗に切られており、その内の2つに小さなフォークがそれぞれ刺さっていた。


コーヒーの香りに負けない甘い香りが偏ってくる。ドーナッツはデザートであるらしい。


「さすがだな。フォークを二つ付けるとは」


博士がそうマスターに声をかける。それに対してマスターは笑ってみせた。


「お客様が一つ分けるとおっしゃられておりましたので」


「気配りだな」


「客商売ですからな。よけいな聞き耳は立てておりませんので、ごゆっくり」


マスターはそう言って笑みを浮かべるとさっさとカウンターの奥に戻ってしまう。


客同士の会話を邪魔しないと言うのもおそらく気配りの範疇なのだろう。


「さあ、とりあえず一つ差し上げよう。無理だと判断したら別に気にせず、食べきらなくても良い」


博士の行為に促されて、私はフォークの刺さったドーナッツを一切れ掴む。


「これは……揚げたパンですか?」


しげしげ眺めて私はそう訪ねた。断面から察するに揚げたパンと言うのが一番近いようであり、上に架かっている白い粉は砂糖のようだ。


「おおよそ、そんなものだ」


返ってくる返事を聞きながら私はそれを半分齧った。

ややふわっとする砂糖の感触、歯と歯が噛み合なければ噛み切れない生地の柔らかさ。


そして甘い。ただ甘い。ひたすら甘い。


甘いだろうなと予想して食べたと言うのに、それでも予想を覆すほどの甘さに私は思わずコーヒーを反射的に口に運んでいた。コーヒーには砂糖を入れる私だが、今日ばかりはブラックコーヒーで助かったと思う。それほどに甘かった。


やや舌が痛いのは熱いコーヒーを流し込んだせいか、それとも甘みで舌がやられたのか疑ってしまうほどに、彼女の頼んだドーナッツというものは甘かった。


「ふふふ、どうだね? 甘いだろう」


「そうですね……これは体に悪そうだ」


「だろう。カロリー数を聞けば常識を疑うレベルだ。だがこれを昔の人は朝から晩まで食べる人も居たらしい」


「それは……病気に成ったのでは?」


「そう成る者もいたが、成らなかった者は肥満になった。だがたまに食べるには悪くない。糖分が頭に回って回転が良くなる気がする」


博士はそう言って、ドーナッツを食べながら、濃いエスプレッソの入った小さなコーヒーカップを口に運ぶ。


「博士の頭の栄養と言うわけですか」


「……そうだな。知っているかな。異常に太りすぎて動けなくなる者も昔は居たそうだよ。人体の神秘だな」


「それは……大変ですね」


「自らを律する力が低いのか、自尊心が高すぎたのか。わからんが、アメリカ地方とメキシコ地方の三人に一人は肥満で、三百人の一人は動けなくなるまで太ったらしい」


「それは禁止されそうですね」


「まあ、現にそうなったわけだ。そうした人の禁欲の欠如が背景となって後々の機械政治と管理社会の構築に繋がると考えると、なんとも言えないな」


「しかし禁止されていたと言われると、背徳的ですね」


「うむ、法を遵守している私のような善人からすれば脱法と言う背徳の味を味わうには過去禁止されていた、現在合法であるものに思いを馳せつつ、手を伸ばすしかない」


「……詩的ですね」


「まあ、甘い物を私が好きだとそれだけだが」


私の言葉に博士は顔を赤くしながら、もう一つドーナッツを一切れ口に運びながら、そう言った。美しい才女がそうして照れている様子は同性の私からしても中々に魅力的だ。


「話をもどそう。ああ、時間逆行の話だったかな? それともT計画でもっと聞きたい事があるか?」


「出来れば時間逆行が可能と言う博士のお言葉に関して、もう少し深くお聞かせ願えればと」


私の言葉に、博士はエスプレッソを啜り、その蒸気を整った鼻で吸込んでいた。きっと彼女の鼻腔にはコーヒーの濃い香りを充満しているだろう。


それに合わせて私もコーヒーを啜る。けれど口の中身の苦みは次の博士の言葉で吹き飛んだ。


「結論から言えば、時間逆行の実験は既に終わっている」


言葉を紡ぐ事が出来なかった。何を言われているか分からない。


「どういう事でしょうか?」


吟味して私が出せた言葉はそんな面白くもない問いかけだけだった。


「時間逆行を実際に試した。結果は成功だ」


博士は私にそう分かりやすく言葉を直してくれた。


理解が追いつくまでしばらく、店内にBGMだけが鳴っていた。


時間逆行を実際に試した? そんな情報は世間に出ていない。大ニュースだ。

だからこそ、素直に頷く事は出来なかった。それは信じれば確かに大ニュースだが、故にそんなに軽々しく漏らしてもらえる話ではないからだ。


「隠匿された情報と言う事でしょうか?」


「良い言葉の選びだ。陰謀めいていて実に良い」


私が声を潜めて行ったと言うのに、博士はそう言って楽しそうに笑う。


やはり噓かと私が思ったのに合わせたように、博士は笑みを止めて真面目な表情を浮かべた。


「あいにくと証拠は無い。事実、私は――私たちは実験を行ったが、表に出せない」


「……」


「なにせ下手をすれば宇宙が崩壊していたかもしれない。時間矛盾によってね」


なんだそれは。と思った私の表情を察して、博士は困ったように笑いながら、こう言葉を続けた。


「まず、そうだな。今回のT計画に関して大きな問題点が二つある。それを順番に話そう」


「……問題点ですか? それは倫理的な?」


宇宙が崩壊してしまうような実験を行ったと言う博士に私はそう尋ねる。


「いいや。論理的な、問題だ」


「……聞かせてください」


私がそう促すと博士は嬉々とした様子で口を開いた。


「一つは三百年後に六千年後に行けるタイムマシーン……正しくはタイムホールと言うべきか。それを作る点だ」


「……もう一度聞きますが、倫理的な話でしょうか?」


「だから論理的な話だよ。まあ、聞きたまえ」


「お願いします」


「簡単な話だ。気づけば、算数が出来ない子供でもわかる」


博士はそう前置きして、一旦フォークを皿に置いた。


「別に三百年後に六千年後に行けるものなんて作らなくても良い」


……私は先ほどとは別の意味で言葉を失った。


博士は計画の上部に居た人間だ。必要ないと言う発言もどうかと思ったし、学術的な点に関して素人の私にとっても興味深い内容であろう事は間違いないからだ。

おそらくその瞬間、私に芽生えたのは落胆で、同時に怒りだった。


そんな私が口を開く寸前に博士は実に意地の悪い表情を浮かべて、さらに言葉を続ける。


「一年後に、明日へ行けるものを作ればそれで良いじゃないか。そうだろう?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ