ゆきのひ
気がついたら、もこもこなミトン型の手袋とマフラーを編んでいた。
というか、たったいま編み終えた。
記憶が正しけれ一日中ずっと編んでた気がする。きっと昨日迸ったパトスが自分をそうさせたのだろう。
――あれ?
そういえばなんのために編んでたんだっけ?
日向は首をひねった。眼前のテーブルには黄緑色をしたもこもこの結晶がふたつ。はてさて、これらはなんのために?
えーとえーと……あっ!
――あーあ……
昨日の記憶である。すこし頭を働かせれば、すぐに思いだす。
そして思いだすべきではなかったことも思いだす。
どうしよう、このもこもこ――
毛糸で編まれた手袋とマフラーはとにかく『もこもこ』という表現が似合っていた。厚ぼったそうでいて、しかしどこか軽そうで。一目見ただけで、「あ、この手袋とマフラーは自分を寒さから守ってくれそうだな」と直感させるような貌形をしている。自身もそう自己評価するほどである。
しかし目的を思いだしてしまったいま――これらを捨ててしまう案も頭に浮かんでいた。
ただ、それはさすがにもったいない。
どうしようか――と煩悶すること数分、けっきょく彼女はそれらを身につけることにした。そうだ、自分の作ったものがどの程度の温かさなのかを知る権利がある。
大義名分がそろったところで、彼女は準備をはじめた。手袋をはめる。マフラーを首に巻く。
――刹那、日向は太陽に抱かれたかのような暖かさを感じた。
さんさんと輝く夏の太陽ではない。春を小粋に演出するぽかぽかの太陽を、だ。
全身がやさしい温かさにつつまれる。私って編み物の天才なんじゃないのか、とは思った。お店開けちゃうんじゃないか、と考えて、いやそれはないな、と自制した。ただ気持ちが高ぶっているだけであろう。
玄関の前に立つと、さすがのもこもこ重装備のも寒さを感じた。今日はやけに寒いな。異変かなにかか? と心のうちで茶化してみる。がらがらと立てつけの悪い戸を開け放つ。すると――
日向のからだが凍ったように固まった。しばし、眼下の光景が彼女から言葉を奪い去る。地面が雪でまっ白であった。どうやら気がつかないあいだに雪が降っていたらしい。きらきらと太陽の光を反射するそれらは宝石よりきれいだと思った。
まあ、宝石なんていう高価なものあまり近くで眺めたことなどないんだが。
硬直していたからだも、くしゃみをしたところでにわかに解けた。
――別に今日じゃなくてもいいんだけど、しかし早めのほうが気も冷めないし。
用意していた大義名分は、積もった雪に埋もれたらしく、頭のなかには本当の外出の理由しかなかった。
あたり一面の真っ白な景色にに足を踏み入れるのは、さながら聖域に土足であがるような後ろめたさがあったが、日向は覚悟を決めて一歩を踏みだした。
雪音に手袋とマフラーをわたしに行くために――
◆ ◆ ◆
白々とした雪は砂糖みたいで、まるで自分がおかしの上を歩いているような気持ちになる。歩くこと自体が楽しくてたのしくてしょうがない。
でもそれだけで満足できる日向ではなかった。
たまらず歩をとめて足もとの雪を拾う。手袋がミトン型のため、にぎるようにしか持てなかった。
手のひらの雪をうれしそうに眺め、日向はゆるりとそれを口に含んだ。
「……冷たい」
当たり前のことである。たとえ見た目が砂糖でも、味はなく、ただ冷たいだけであろう。
しかし彼女はそれが和三盆だったかのように、とても幸せそうな顔をした。もうひと口食べてから、ふたたび歩きだした。
このまま地面に寝転んでしまおうか。それはさすがに寒すぎるか。だけど久しぶりの雪である。存分に楽しまなくちゃ
――そういえば、最近めっきりと外で駆け回ることがなくなったな。
雪に意識をむけながらも、なんとはなしに歩いていると開けた場所についた。見覚えがあるなと思えば、昔よく遊び場にしていた空き地だった。
と、人のすがたが視界に映った。日向は足をとめる。
雪音であった。
彼女もまた楽しそうで、地面の上で雪のかたまりをころころと転がしていた。
人の頭ぐらいになったそのかたまりを、もっと大きな雪のかたまりの上にのせた。どうやら雪だるまをつくっているらしい。
うれしそうにガッツポーズをしている彼女を眺めて、さっきの自分を思い返す。
――私たちには雪を見るとはしゃぎたくなるような因子が遺伝子に含まれているんだろうか。
なんて馬鹿なことを考えながら声をかけようと口を開き――
言葉は喉もとで留まった。
雪音はすでにミトン型の手袋とマフラーをつけていた。オレンジと白のストライプである。耳当てもつけているが、いまはどうでもいい。彼女に手袋とマフラーをわたすのが目的なのに、すでに身につけていたら意味ないじゃないか……!
日向は悲しくなった。私のこの手袋とマフラーは……。ぎゅっと唇を噛みしめる。
「――あっ。日向じゃない! 久しぶり」
雪音が日向に気づいた。右手をぶんぶんと振っている。
「こっちにいらっしゃいよ」
と呼ばれ、どうしようかと逡巡した。
だがすぐに「早くはやく」とせかされたので渋々ながら行くことにした。
近づくにつれて悲しさはどんどん増えていく。相手の手袋とマフラーがどんどん間近に迫ってくるからだ。ベンチに腰かけている雪音の正面に立ってみると、それらふたつは自分が編んだよりももこもこであることがわかった。
受けとってくれる確率ゼロパーセント。もう帰ろうか。
日向の視線に気づいたらしく、「あ、これ」と言って雪音は誇らしげに笑った。
「この手袋もマフラーも私が編んだの」
「お前が?」
「ええ。器用でしょ」
ミトン型の手袋を開いたり閉じたりする。たしかに上手い。白とオレンジがしっかりストライプになっている。
それに比べてこっちは黄緑一色。日向はくしゃりと表情をゆがめた。
「どうしたの?」
雪音が心配そうに問いかけてくる。
「なんでもない」
と返し目もとの涙を袖でぬぐった。
もう帰ろうと思い、後ろを向こうとした瞬間――
両方のほっぺたに冷たさを感じた。ぐいっと顔が意図せずに正面をむき、鼻を頭を赤くした雪音と目があった。彼女はベンチに座っているため、すこし見おろす形になっているが。
そこでようやく、自分の両頬が両手で押さえられていることに気がついた。
相手の顔が近い。さっきまで寒かったはずなのに、顔中が熱くなっていくのがわかる。
「は、離せよ」
「いやよ。あなたが泣いてた理由を話すまで話さない」
「泣いてない」
「泣いてたわ。ぴーぴーとお腹をすかせた赤ちゃんみたいに泣いてたわ」
「そ、そんなには泣いてないぞ」
「ホントに引っかかる人がいるのね、こんな鎌のかけ方でも」
むしろ誇れるんじゃないかしら――とつづけた雪音は意地悪そうに笑んでいた。その言葉を聞いて、日向は自分が笑っちゃうような鎌をかけられたことに気づく。
顔の近さに冷静さを欠きすぎた。こんな古典的なもの、最近の子どもでも騙されないんじゃないだろうか。
「さて、泣いてた理由を聞こうかしら?」
「……」
日向はむすっとして視線を斜め上にむける。理由はバツの悪さを感じたのと、相手の顔を真正面で見るのが照れくさいからである。
もちろんこのまま彼女の手を振り払うことだって可能だ。
はたまた黙秘権を行使しつづけることだってできる。
いまの日向を拘束しているのは、両頬を押さえつける雪音の両腕だけなのだから。
だけど――
逃げることができない。
彼女のもろ手は冷たくて、それがほてった頬に心地よくて、それでいてとても真剣な顔で見つめてくるから。
自分かってな理由で腹を立てたのに、それさえも受け入れてくれそうな真摯な態度は日向をどんなものよりもかたくなに拘束していた。
理由を言うまで手を離さないという意思が、雪音のそらさぬ視線から伝わってくる。
その意思はなんて残酷で――なんてやさしいのだろう。
「……手袋とマフラーを編んだんだ」
無言の時間はほんの数分であっただあろう。しかし日向には、地面の雪がすべて溶けきってしまうほどの長い時間に思えた。
しゃべると白い息がふわりと舞った。
雪音がなにもリアクションを起こさないから、自分の言葉がすべて白い息になってしまって相手に届いていないのかと心配になった。
横目で顔をうかがう。ときおり瞬きはするものの、雪音は視線を絶対にそらさなかった。
耳当てもオレンジと白のストライプなんだな――。どうでもいいことに気づいたのはこのときである。
日向はふたたび斜め上に目をやり、言葉をつづけた。
「三日前、お前と一緒に帰っただろ?そのとき、お前はひどく寒そうにしてて――首を縮めて指さきを赤くしてるさまを見てたらさ、なんだかマフラーと手袋をプレゼントしたくなって。休日を使ってがんばって編んだんだけど――どうやらもういらないみたいだな。自分で編んだみたいだし」
プレゼントなのになんで自分がつけているのか、と訊かれないことを祈る。当の本人だって理由を覚えていないのだ。
またしてもリアクションはない。ちらりと横目で見ても、相手は最初と同じ表情をしている。
日向は乾いた笑いをあげる。この手袋とマフラーは私物化しよう。そう思ったとき
「あなた、好きな色は何色かしら?」
と、雪音の問いかけが聞こえた。驚いて正面を見ると同時に、ほっぺたから彼女の手が離れた。かわりに冷たい風が頬をなでた。寒い。
「何色が好き?」
と、もう一度訊かれいっそう困惑した。
「色?」
「ええ」
「まあ、黄緑とか――」
「オレンジ」
「えっ?」
「オレンジ色、好きでしょ?」
「な、なに言って――」
「しかもオレンジと白のストライプには目がないのでしょ?」
強い口調であった。脅迫というのはこういう声色で行うのだろうと思った。
閉口していると、雪音がふふっと誇らしげに笑った。
「運がいいことに私はいま、そのガラの手袋とマフラーを所持しているわ。
まくし立てるように言う。日向は気後れしていると、
「だから、あげるわ」
と雪音が手袋をはずした。そしてずいと押しつけるように差しだしてくる。
日向は目を丸くした。
「いいのか?」
「いいわ。そのかわり、あなたの手袋とマフラーをもらうわ」
――その言葉を聞いて、彼女の意図を理解した。
強引で、やさしい奴なのを私は知っている。
こんなとき、なんて言い返せばいいのだろう。いい台詞が浮かばない。
そもそも受けとっていいのかだって――
「早く。手が寒いわ」
雪のように白い息を吐きながらせかされた。
外堀が埋められている。時間があまりないようだ。
「……いいのか?」
だけど、これだけは訊いておきたかった。
「たぶん、私のよりもお前のやつのほうがあったかいぞ」
「いいえ」
即答であった。雪音はにっこりと笑う。
「誰かにつくってもらったものが、自分でつくったものより劣るなんてことはありえないわ」
「……眉唾だな」
憎まれ口をたたきながらも日向も笑う。人はやさしい言葉を聞いたとき、笑うようにできているのだ。
手袋とマフラーをはずして手わたす。照れながらも「ありがとう」とちいさな声で言ったが、雪音はにこにこのまま答えなかった。
次に雪音から手袋とマフラーを受けとる。さっそく手につけ、首に巻いた。
もこもこの生地のうちには、雪音が身にまとうことでつくられた温かさが、たしかにあった。当然ながら、自分のものよりもぬくい。
――こいつには、かなわないな。
前を向くと同じくもこもこ装備をした雪音がいた。
「へっへっへー」
鼻を赤くしたまま笑いかけてくる。両手は耳の横にあり、こちらにむけて開いたり閉じたりくり返していた。
照れくさくなりぷいと顔をそらす。
「気味悪い笑い方するな」
「思ったとおり。私のより断然温かいわ」
あなたの温かさがつまっているものだから――
と、つづけるものだから、日向はふんと鼻を鳴らした。頬もいっそう赤らんだ。
「ありがとう」
と言われたが渋面のままなにも答えなかった。
――お礼を言うのはこちらのほうだというのに。
雪音にすすめられ、さんざん躊躇したあとに彼女の横に腰かけた日向は雪だるまを眺めた。
顔は木の枝で出来ており、バケツをかぶっている。
「……せっかくの雪だというのに、誰もつき合ってくれないの」
日向の視線のさきに気づいた雪音は唇をとがらせる。
「お母さんは仕事だし、弟は寒いのが嫌だって言うし……。だからひとりで雪だるまをつくっていたわ」
なんやかんやで彼女が一番子どもっぽいんだな、と思い小さく笑う。
――まあ自分も人のことを言えないのだが。
それからしばし沈黙が起きた。
重苦しさは雪に吸い込まれたのか、格別なかった。
雪音は雪だるまを、日向はもらった手袋を見つめていた。
オレンジと白のストライプも、悪くないな。
そう思ったとたん、雪音がくすりと笑った。自分の心のうちを見られたのかとすこし焦る。
「あら、日向。あなた耳が真っ赤よ」
理由を察してているくせにわざとらしく言う。あわてて返す。
「これは……寒いからだよ」
「ほんと?」
「ああ、ほんとだ」
なら――と雪音が耳当てをはずした。そして笑いながら言う。
「これをいっしょに使いましょう」
最初意味がわからなかった。なんせ耳当てはひとりで使うものだから。
心のうちを察したらしく、雪音がつづける。
「これね、とっても広がるのよ。だから私たちが頭をよせ合えばそれぞれ外側の耳に当てられるわ」
右耳に当てる部分と左耳にあてる部分をつかみ、左右に引っぱる。
するとたしかに二人分の頭がおさまりそうなほど広がった。しかしそうするには――
「お前と、わ、私が頭をくっつけなきゃいけないじゃないか!」
そんなの恥ずかしすぎる!
だが雪音は不敵に笑いながら、「あら、だって耳が寒いんでしょう?」
「やってくれないの?」
「やらないに決まってるだろ!」
「あら、なら貴方のお母様に相談しちゃおうかな?日向が最近冷たいんですって」うっ、と息がつまる。
雪音は私が母さんに弱いことを知られている、そのせいでちょくちょく彼女の名前を出していた。前はそれでおんぶをさせられたことがある。
どうしようかと考えあぐねていると、「どうするの?」
雪音が追撃した。もうこうなると答えは決まっている。
「わかったよ! やるよ!」
日向はやけになってオーケーを出すのである。雪音はうれしそうにガッツポーズをつくった。
「もうすこし頭近づけて」
日向と雪音が頭をくっつける。日向はもう顔が真っ赤である。
そして耳当てで、二人の頭をはさみ込んだ。
「へっへっへー」
「気味悪い笑い方すんなよ」
雪音は満足げに笑う。それがよけいに気に食わない。
「あなたのほっぺた、熱いわね」
「……うるさい」
こんなに近くて、はやる鼓動の音が聞こえはしないだろうか。それが一番気になった。
「このあとは雪だるまをつくって、そんで雪合戦もして……」
嬉々として今後の予定を語る雪音。日向はため息をついた。
「まあ、ほどほどにな」
「いやよ。今日は目いっぱい楽しまないと」
二度目のため息をつく。今日は大変な一日になりそうだな。
だけどこんな日があってもいいと思う。
雪をも溶かすほどもこもこで暖かい二人は、いつまでもいつまでも尽きぬ幸せを謳歌しつづけたのであった。