Closed Room
Closed Room
私は双子の妹が土砂に飲み込まれる瞬間を目の当たりにし、悲鳴をあげた。悲鳴が周りに聞こえたのか、それとも学校の帰り際に降り出した雨に掻き消されたのかは分からない。脳内は目の前の光景とは対照的に真っ白になっていた。立つことさえ忘れかけたその体で、私はがむしゃらに助けを求めた。
どこか仄暗い病院の一室。立方体に刳り貫かれたその部屋の隅には、見慣れない医療装置が規則的な電子音を響かせ静かに光っていた。その明かりに照らされた白いベッドに妹は横たわっている。私は小さなパイプ椅子に座り、妹の顔を覗き込んだ。傷を覆うガーゼは、冷たく無表情の妹を隠しきれていなかった。
何も動くものがない病室に、白衣を着た黒ひげの医者が重い扉を開けて入ってきた。医者は、漠然と妹を眺める私を何度か気遣い、同じように彼はパイプ椅子に座った。しばらくの沈黙の後、医者は話し始めた。
「単刀直入にいいますと、妹さんが目を覚まし、喋り、歩くことは難しいでしょう」
私は絶望した。歯を食いしばる私に、医者は素早くある提案を持ち出した。
「ただ彼女の頭の中に、彼女の世界を作りだすことはできます」
私は医者が何を言っているのか全く理解できなかった。すると彼は間もなく説明し始めた。
「妹さんの脳は完全に死んだ訳ではなく、体を動かす能力と、外部の情報を受け取る能力が失われただけなのです。そこで、我々が開発したシミュレータ装置で、彼女の脳内に架空の世界を送り込むのです」
架空の世界という単語に、どこか悪寒を感じた。説明の詳細な部分は理解できなかったが、私にはそれが良からぬことだと疑いをかけた。
「つまるところ、我々が生きる世界をシミュレートし、妹さんの脳内に直接電気信号を送るのです。彼女にはシミュレートした世界が実際に見えるし、音も聞こえるし、匂いもある。彼女の行動も、彼女自身から送られてくる電気信号で現実そのものにシミュレートされていきます」
私は、そのような偽りの世界を妹に見せるつもりはないと反論した。しかし、医者は淡々と話し続けた。
「人間が見る世界というのは、脳内に入ってくる電気信号が全てなのです。あなたが見ている世界だって、脳内に送られた電気信号なのです。外部から電気信号を与えてやると、人はその世界に生きることができるのです。あなたの妹さんは、妹さん自身の世界で再び生きることができるのです。もちろん、このシミュレーションでは彼女を土砂崩れから回避させることができます」
私は再度妹の顔を覗き込んだ。動かぬ身体。閉ざされた目。世界を感じ取れない彼女は、今何を見て何を考えているのだろうか。何もない黒の世界。いや、黒さえ感じ取れない孤独の中に居るのだろうか。
私から見る妹は、もう私が居る世界では動けない。しかし、医者が言う装置から送られる電気信号が彼女の真の世界となり、そこで幸せに生きることができるのであれば……。
「その方が妹さんにとって幸せなのではないでしょうか」
医者は私の心を読んだように囁いた。
それから暫く、何度も考え込んだが、私はもう一度妹に世界を見て欲しいと、医者に装置の使用をお願いした。
医者は私に優しい笑顔を見せた。
「あなたは妹さんが見る世界を、このディスプレイから見ることができます。もちろん妹さんのプライバシーを気遣いディスプレイの電源を切ってもかまいません」
無数のコードが互いに接続されている三台の装置が病室の片隅を支配した。私の親指ほどあるコードは、妹の頭に取り付けられた帽子型の装置と、私の目の前におかれたブラウン管のディスプレイに繋がっている。
「ただし、こちらの本体の電源は一度切ってしまうと、彼女は精神的ショックにより死に至ります。逆に言うと、もしあなたが架空の世界で彼女を生かすより、安らかに眠ってほしいのであれば電源を切れば良いのです」
私にはもう装置を使う以外の選択肢は考えられなかった。妹が孤独の世界で死んでいくのは耐えられない。ましてや、途中で装置の電源を切り、精神的ショックで死ぬことが安らかな眠りとは思えなかった。
医者は私に最終的な了承を得て、装置を起動させた。静かに装置のファンが回り始め、数分後、短い電子音の後にディスプレイに映像が映し出された。ここは教室だ。黒板に向かいペンを走らせる学生の背中と、甲高い声の数学教師の姿がそこにあった。どうやら妹の視点が映し出されているらしい。映像は数式が書かれた黒板と、手元のノートを交互に映し出した。机に転がっている青色のペンは間違いなく妹の物だった。妹は青色が好きだ。あの時さしていた傘も青色だった。
ふとあの時のことを思い出し、私は我に返った。ディスプレイに釘付けだったためか、目が乾燥して痛い。医者が部屋から退出したことにもようやく気づき、私の現実は立方体に刳り貫かれた病室と、動かない妹だけとなった。ベッドに横たわる妹は、ディスプレイのスピーカーから聞こえてくる明るい妹の声とは裏腹に、相変わらず無表情で何も喋らない。突然、どうしようもない虚しさに胸が締め付けられた。今、妹は新しい世界で幸せに生きているはずなのに、私の現実は違う。耐えきれなくなり、私はディスプレイの電源を切った。元々薄暗い病室が、さらに暗くなった。
そう。妹は青色が好きだ。あの時さしていた傘も青色だった。学校の帰り。私たちは偶然学校の正門で会い、一緒に帰ることになった。朝の天気予報通り、帰り際に雨が降り出したので傘をさした。私は赤色の傘。妹は青色の傘。
家が近づくと雨風はより強くなった。時折、両手で持っておかないと傘が飛ばされそうな程の突風が吹いた。そして私が覚えている最後の突風。青い傘が前方に飛ばされ、妹があわてて走り出した。その瞬間、土砂が妹と傘を飲み込んだ。私たち双子の姉妹の違いは、色の好みと、学校のクラスぐらいだと思っていた。しかしその時は違った。ほんの数メートルの違いが運命を大きく変えてしまった。こんなことになるのであれば、いっそのこと私も土砂に飲み込まれていれば……。
土砂が迫る。足が掴まれた。冷たい。その冷たさは一気に腰へ、胸へ、そして顔を覆う。それは全身を容赦なく圧迫する。苦しい。途端に電源が切れたかのように目の前が真っ暗になった。何もない。何もない虚無に、落ちていく。落ちていく。落ちていく。落ちていく。落ちて……。
私は落ちていく感覚に驚き、目を覚ました。全身を冷たい汗が覆っている。汗が頬から流れ落ちたところで、ようやく荒い息を整えることができた。どうやら夢を見ていたようだ。薄暗い病室に取り残された動かない妹と、不気味に光る装置のランプが私を現実に引き戻した。どれくらい眠っていたかは分からない。部屋に時計など無かった。
ふと妹が今何をしているのか気になり、ディスプレイの電源を入れた。映し出されたのは赤い傘をさした私だった。学校の帰り。私たちは偶然学校の正門で会い、一緒に帰ることになった。帰り際に雨が降り出したので傘をさしていた。妹は青色の傘。私は赤色の傘。
私は違和感を覚えた。映像を映し出すだけのディスプレイから、妙な現実感が私を包み込む。視点は違えど、それは明らかにあの日の光景であった。
家が近づくと雨風はより強くなっていく。時折、両手で持っておかないと傘が飛ばされそうな程の突風が吹く。
このまま進むと同じ事になってしまう。
いや、しかし、医者は確かに妹が土砂崩れから回避できると言った。これは妹にとっての世界だが、医者が用意した装置が作り出す世界でもあるのだ。今私が居る世界とは違う。妹は助かるのだ。
ディスプレイの中の世界に、あの時と同じように突風が吹いた。赤い傘が前方に飛ばされ、私はあわてて走り出した。その瞬間、土砂が私と傘を飲み込んだ。
妹は悲鳴をあげた。悲鳴が周りに聞こえたのか、それとも学校の帰り際に降り出した雨に掻き消されたのかは分からない。立つことさえ忘れかけたその体で、妹はがむしゃらに助けを求めていた。
妹は助かった。私の現実とは違う世界。しかし、土砂に飲み込まれたのは、私。
どこか仄暗い病院の一室。立方体に刳り貫かれたその部屋の隅には、どこかで見たことのある医療装置が規則的な電子音を響かせ静かに光っていた。その明かりに照らされた白いベッドに私は横たわっている。妹は小さなパイプ椅子に座り、私の顔を覗き込んだ。
確かに私が居る世界とは違い、土砂に飲み込まれたのは私だ。しかし今ディスプレイに映し出されている映像は、私が居る世界と何も変わらない。
私は病室の扉に振り返った。医者は居ない。扉は重く閉ざされている。得体の知れない恐怖が、この病室を支配した。病室を出て医者を呼び出そうと考えたが、震える体をパイプ椅子から切り離す前に、扉が開く音がディスプレイから聞こえてきた。そこにはあの白衣を着た黒ひげの医者が居た。漠然と動かない私を眺める妹を何度か気遣い、同じようにパイプ椅子に座った。しばらくの沈黙の後、医者は話し始めた。
「単刀直入にいいますと、お姉さんが目を覚まし、喋り、歩くことは難しいでしょう」
歯を食いしばる妹に、医者は素早くあの提案を持ち出した。
「ただ彼女の頭の中に、彼女の世界を作りだすことはできます」
同じだ。そこに倒れているのが私であるという点を除き、医者の説明の内容も状況も全て同じだ。動かない私に、医者が言う装置から電気信号を送り、現実同様の世界を作り出す。
今私が見ている世界は現実なのだろうか。今動かない妹が見ている世界は現実なのだろうか。どこに現実があるのだろうか。
ふと装置の電源を見た。この電源を切れば、装置が作り出す悲劇の連鎖を止める事ができる。しかし、妹は全ての現実を失い、死ぬ。
私は、このどこか仄暗い病室から動くことができなくなった。
「その方がお姉さんにとって幸せなのではないでしょうか」
医者は妹の心を読んだように囁いた。
それから暫く何度も考え込んだが、妹はもう一度私に世界を見て欲しいと、医者に装置の使用をお願いした。
医者は妹に優しい笑顔を見せた。