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壊れたイヤホンの片方だけ、あなたの声が聞こえる——「捨てられない」と言ったら、幼馴染が泣いた

作者: uta
掲載日:2026/05/23

「片方しか聞こえないイヤホンなんて、意味ないでしょ」


莉子がまた言う。何度目だろう、この台詞。


わかってる。わかってるよ、そんなこと。


私は曖昧に笑って、左耳に刺さったイヤホンを外さなかった。右側から音は出ない。三年前の夏に壊れて、それきり。


新しいのを買えばいい。千円も出せばそれなりのものが手に入る時代だ。なのに私は、この壊れたイヤホンをずっと使い続けている。


——馬鹿みたいだって、自分が一番わかってる。


「ゆづき、聞いてる?」


「うん、聞いてる」


「絶対聞いてない。左耳ふさいでるじゃん」


「だって右からは何も聞こえないし」


「いや、だから買い替えなって!」


莉子は呆れたように肩をすくめる。彼女の耳には最新のワイヤレスイヤホン。ノイズキャンセリング機能付き。流行りの淡いピンク色で、彼女の茶髪のボブによく似合っている。


私のは、コードが絡まる古いタイプ。


白いコードは少し黄ばんでいて、何度も絡まった跡がある。


右側は死んでる。


でも、左側はまだ生きてる。


それでいいじゃん、って——思ってしまう自分がいる。


「三年だよ?」


莉子が指を三本立てる。


「三年同じこと言ってる。いい加減、前に進みなよ」


前に進む。


その言葉が、胸の奥でちくりと刺さる。


「……うん」


私は曖昧に頷いた。それ以上は、何も言えなかった。



高校一年の夏。


あの日、私は隣にいた幼馴染と同じ音楽を聴いていた。


『これ、いい曲だろ』


蒼真が得意げに笑う。彼がハマっているバンドの新曲。私はあまり詳しくなかったけど、彼が好きなものは何でも聴いてみたかった。


『うん。……ねえ蒼真、右と左どっちがいい?』


『じゃあ右』


私は左のイヤホンを耳に入れて、彼は右を取った。


同じ曲を、半分ずつ。


白いコードが、私たちを繋いでいた。


それが当たり前だった。幼稚園からずっと一緒で、小学校も中学校も同じクラスで。恋とか、そういうのじゃない——そう思い込んでた。


だって蒼真は蒼真で、私にとっては空気みたいな存在で。


いなくなるなんて、考えたこともなかった。


『ゆづき』


あの日、曲が終わった後。


彼は妙に真剣な顔をしていた。いつもの飄々とした表情が消えて、どこか思い詰めたような。


『俺、転校する。来週には引っ越し』


——は?


頭が真っ白になった。


声が出なかった。何か言わなきゃと思ったのに、口が動かない。


嘘でしょ。


来週って、あと何日?


なんで今まで言わなかったの?


なんで——


『親父の転勤で。……悪い、俺も昨日知って』


蒼真の声は震えていた。今思えば、彼だって辛かったんだと思う。でもあの時の私には、そんなこと考える余裕がなかった。


気づいたら、彼は行ってしまっていた。


右側のイヤホンは、彼の耳に入ったまま。


翌日、学校の下駄箱に小さな紙袋が入っていた。中には右側のイヤホンと、走り書きのメモ。


『返す。ごめん』


たった五文字。


そして——戻ってきた右耳用イヤホンは、もう音が出なくなっていた。



偶然だって、わかってる。


イヤホンが壊れたのと、彼がいなくなったのは、たぶん関係ない。断線とか、接触不良とか、そういう物理的な原因があったんだと思う。


でも私の中では、繋がってしまった。


右側が死んだ日。


蒼真がいなくなった日。


同じ日。


三年間、私は左耳だけで音楽を聴いてきた。


片方だけの世界。


欠けた世界。


それでも手放せなかったのは——捨てたら、本当に終わる気がしたから。


何が終わるのかなんて、考えないようにしてた。考えたら、認めなきゃいけなくなる。


蒼真のことが好きだったって。


ただの幼馴染じゃなかったって。



大学の入学式。


四月の風は少し冷たくて、でも桜は満開で。


新しい場所、新しい出会い。


私は人混みの中を歩きながら、左耳にイヤホンを刺していた。流れてくるのは三年前と同じ曲。蒼真が好きだったバンドの、あの曲。


変えられない。変えたくない。


『新しい出会いの場でイヤホンとか、出会う気ないでしょ』


さっき莉子に言われた言葉が頭をよぎる。彼女は別の学部だから、今は一人。心細いような、ほっとするような。


——ああ、また莉子に怒られるな。


そう思った瞬間。


目が、合った。


人混みの向こう。


見覚えのある黒髪。少し伸びた背。大人びた輪郭。でも、変わらない目元。涼しげで、でもどこか優しくて。


嘘、でしょ。


心臓が跳ねた。


止まった。


また跳ねた。


周りの音が消える。桜の花びらがスローモーションで舞う。まるで映画みたいだって、どこか他人事のように思った。


彼が、こっちに歩いてくる。


人混みをかき分けて、まっすぐに。


「——久しぶり」


蒼真は、少しだけ困ったように笑っていた。


三年ぶりの声。


三年ぶりの笑顔。


私の左耳では、あの日と同じ曲が流れ続けている。


——ねえ、聞こえてる?


私の右側は、まだ壊れたままだよ。



「元気そうだな」


蒼真の声は、少し低くなっていた。当たり前だ。三年も経てば、人は変わる。


背も伸びた。顎のラインがシャープになった。でも、笑うと目尻が下がる癖は変わってない。


「うん。……蒼真こそ」


私の声は震えていなかっただろうか。平静を装おうとして、たぶん失敗してる。


人混みの中、私たちは立ち尽くしていた。周りの新入生たちは賑やかに談笑しながら通り過ぎていく。誰も私たちのことなんか見ていない。


でも、私には蒼真しか見えなかった。


「大学、ここだったんだ」


「うん。蒼真は?」


「俺も……まあ、偶然」


偶然。


そう、偶然だよね。三年間連絡もなかったんだから。


LINEは残ってた。ブロックなんてしてない。でも、メッセージを送る勇気がなかった。既読がつかなかったら。返信がなかったら。忘れられてたら——そう思うと、指が動かなかった。


連絡しなかったのは私も同じ。


責める資格なんてない。


「変わんないな、ゆづき」


「そう? 蒼真は背、伸びたね」


「そっちは相変わらずちっこい」


「うるさい」


何気ない会話。昔みたいに。


でも、全然昔みたいじゃない。


目が泳ぐ。話したいことはたくさんあるのに、何も言葉にならない。三年分の空白が、見えない壁になって私たちの間に立ちはだかっている。


——何してたの、この三年間。


——元気だった?


——私のこと、覚えてた?


聞きたい。聞けない。


聞いたら、きっと傷つく。



「あ」


蒼真の視線が、私から逸れた。


何だろう、と思って——気づいた。


彼の目が、私のカバンから覗くイヤホンのコードに止まっている。


白いコード。三年間使い続けた、くたびれたコード。何度も絡まって、何度もほどいて。右側は壊れたまま、でも捨てられなくて。


「——それ」


空気が、凍った。


蒼真の声が掠れる。表情が強張る。


「まだ、持ってたんだ」


——やめて。


私は咄嗟にカバンの口を閉じようとした。でも遅かった。蒼真はもう見てしまった。三年前と同じイヤホン。右側が壊れたままの、古いイヤホン。


「……壊れてるけど、捨てられなくて」


言い訳みたいに、そう言った。


自分でも驚くほど、声が震えていた。


三年間、誰にも言わなかった。莉子にも、親にも。なんでこのイヤホンを使い続けてるのか、本当の理由は言えなかった。


『新しいの買いなよ』


『片方しか聞こえないなんて不便でしょ』


そう言われるたびに、曖昧に笑ってごまかしてきた。


でも蒼真には——ごまかせない。


彼は知っているから。このイヤホンが壊れた日のことを。あの日、一緒に音楽を聴いていたことを。右側を彼の耳に入れていたことを。



蒼真の表情が、歪んだ。


見たことない顔だった。苦しそうで、悔しそうで、でもどこか——安堵しているような。


「俺さ」


声が低い。震えている。


「ずっと後悔してた。あの日、何も言わずに行って」


——私も。


言いたかった。でも声が出ない。


「転校決まったの、本当に急で。親父に言われたのが前の日の夜で、頭真っ白になって。お前に何て言えばいいかわかんなくて……結局、何も言えなかった」


蒼真が俯く。前髪が目にかかる。


「引っ越してからも、連絡しようと思った。何度も。でも——」


「……でも?」


「怖かった」


蒼真が顔を上げる。その目が、揺れている。


「俺のこと、忘れたと思ってた」


蒼真が笑う。でもその笑顔は、全然笑ってない。


「新しいイヤホン買って、俺のことなんか——」


その瞬間。


彼の目から、涙がこぼれた。



——え。


私は固まった。


蒼真が、泣いている。


人混みの真ん中で。人目も気にせず。涙を流している。


嘘でしょ。


蒼真は泣かない人だった。小学校のとき転んで膝から血を流しても泣かなかった。「痛くねーし」って強がって、でも顔真っ青だった。中学で部活の試合に負けても泣かなかった。悔しそうに唇を噛んで、でも涙は絶対に見せなかった。


強がりで、意地っ張りで、弱いところを絶対に見せない——そういう人だった。


その蒼真が。


「ごめん」


彼は袖で乱暴に目元を拭いながら、絞り出すように言った。


「ごめん、ゆづき。俺——」


「忘れるわけ、ないじゃん」


気づいたら、私も泣いていた。


涙が頬を伝う。止まらない。三年分の感情が、一気に溢れ出してくる。


「ばか。忘れるわけないでしょ」


声がぐちゃぐちゃになる。でも構わない。


「だから連絡しなかったの。声聞いたら、会いたくなるから。会えないのに会いたくなったら、辛いから——」


私は無意識にカバンの中のイヤホンを握りしめていた。三年間、ずっと握りしめてきた。心の中で。


「だから関わらなかった。連絡したら、声聞いたら、会いたくなるから」


蒼真も同じことを言っていた。


同じ言葉。同じ理由。


私たちは、同じだった。


三年間、お互いのことを想いながら、怖くて連絡できなかった。忘れられてるんじゃないかって怯えながら、自分から確かめる勇気がなかった。


馬鹿みたいだ。


本当に、馬鹿みたい。


「俺、ずっと後悔してた」


蒼真が言う。涙で濡れた顔のまま。


「あの日、ちゃんと言えばよかった。『待ってて』って。『絶対また会いに来る』って。でも何も言えなくて、イヤホンだけ返して——最低だった」


「私も……」


私も、何も言えなかった。


引き止めることも、「寂しい」と言うことも、「好き」だと伝えることも。


全部、怖くてできなかった。


「俺さ、向こうでもずっとあの曲聴いてた」


「……え?」


「お前と最後に聴いた曲。何百回聴いたかわかんない。聴くたびにお前のこと思い出して、会いたくなって、でも連絡する勇気がなくて——」


蒼真が笑う。自嘲するように。


「情けないよな。三年も経って、まだこんな」


「情けなくなんかない」


私は首を横に振った。


「私だって同じだもん。三年間、ずっとこのイヤホン使ってた。右側壊れてるのに。片方しか聞こえないのに。でも捨てられなかった」


「……なんで」


「捨てたら、本当に終わる気がしたから」


何が終わるのか。


ずっと考えないようにしてきたけど、今ならわかる。


「蒼真との繋がりが、切れる気がしたから」


蒼真の目が見開かれる。


そして——また、涙がこぼれた。


「ずるい」


掠れた声。


「そんなこと言われたら——」


「泣いてるの、蒼真でしょ」


「お前も泣いてんだろ」


「……そうだけど」


私たちは人混みの中で、泣きながら笑っていた。


きっと周りから見たら変な二人だ。入学式の日に、大学の構内で、泣きながら笑ってる男女。


でも、そんなことどうでもいい。


三年ぶりに、同じ場所にいる。同じ空気を吸っている。同じ空の下で、笑っている。



「……新しいの、一緒に買いに行かない?」


蒼真が目を拭いながら言った。まだ声は震えているけど、さっきより少しだけ明るい。


「今度は、ちゃんと両方聞こえるやつ」


私は手の中のイヤホンを見下ろした。


白いコード。右側は壊れたまま。三年間、私の左耳にだけ音楽を届けてくれた。


これを手放す日が来るとは思わなかった。


でも——


「捨てないよ」


私は首を横に振った。


「このイヤホンは捨てない。使わなくなっても、ずっと持ってる」


蒼真が目を丸くする。


「だって、これがあったから——」


三年間、繋がっていられた。


片方だけの世界でも、あなたのことを忘れずにいられた。


「私たちの空白の三年間を、繋いでくれたから」


蒼真の目がまた潤む。でも今度は、笑いながら。


「……ずるいな、そういうの」


「蒼真が先に泣いたくせに」


「うるさい。忘れろ」


「無理。一生覚えてる」


「やめろって」


蒼真が照れたように顔を背ける。耳が赤い。昔からそうだった。照れると耳が真っ赤になる。


変わってない。


三年経っても、蒼真は蒼真のままだ。



「俺もさ」


蒼真がポケットに手を入れる。


「持ってたもんがあるんだけど」


何かを取り出す。


——白いコード。


見覚えのある形。


「嘘」


私は息を呑んだ。


蒼真の手の中にあったのは、イヤホンの右側だった。


あの日、彼の耳に入ったまま持っていかれた——右側。


「返したつもりだったんだけどさ」


蒼真が苦笑する。


「間違えて、自分の方を袋に入れてた。お前のイヤホンの右側、俺がずっと持ってた」


「……は?」


「気づいたの引っ越しの後で。返しに行こうにも、もう会えないし。捨てようと思ったんだけど——」


「捨てられなかった?」


「……ああ」


蒼真が頷く。


「壊れてるけどな。でも捨てられなかった」


——ああ、そうか。


私は泣きながら笑った。


私たちは最初から、繋がっていたんだ。


右と、左。


壊れたイヤホンの、片方ずつを持って——三年間、お互いを想い続けていた。


「ばか」


「お前もな」


蒼真が笑う。泣きながら。


私も笑う。泣きながら。


桜の花びらが舞っている。四月の風は少し冷たくて、でも今は温かい。


「……行こう」


私は蒼真に向かって、手を差し出した。


「新しいイヤホン、一緒に選んで」


蒼真は一瞬驚いたように目を瞬かせて——それから、私の手を取った。


温かい。


三年前と同じ温度。大きくなった手のひら。でも、握る力の加減は変わってない。強すぎず、弱すぎず。ちょうどいい。


「今度は」


蒼真が言う。


「ワイヤレスにしような。コード絡まるの面倒だし」


「え、でも——」


「でも、何」


「コードがないと、繋がってる感じしなくない?」


蒼真が呆れたように笑う。


「お前、そういうとこあるよな」


「どういうとこ」


「変なとこで頑固」


「うるさい」


「じゃあ、コード付きでいいよ。お前と繋がってたいし」


「——っ」


不意打ちだった。


顔が熱くなる。心臓がうるさい。


「な、何言って——」


「本当のことだろ」


蒼真がまっすぐに私を見る。


涙の跡が残った顔。でも、目は真剣で。


「俺、三年間ずっと後悔してた。だから今度は言う」


「……なに」


「好きだ。ずっと前から」


——ああ。


やっと、聞けた。


三年間、聞きたかった言葉。


「私も」


声が震える。でも、はっきり言う。


「私も、好き。ずっと」


蒼真の顔が、ぱっと明るくなる。


子どもみたいな笑顔。三年前と変わらない。


「じゃあ、付き合って」


「……うん」


繋いだ手に、力がこもる。


左耳だけの世界は、今日で終わる。


これからは、隣で同じ音楽を聴ける。


両方の耳で、あなたの声が聞こえる。



ポケットの中で、スマホが震えた。


莉子からのメッセージだろう。『入学式どうだった?』とか、そんな内容に違いない。


返信は後でいい。


今は——この手を、離したくないから。


「なあ、ゆづき」


「なに」


「あの曲、まだ聴いてる?」


「……うん。ずっと」


「じゃあ今度、一緒に聴こう。新しいイヤホンで」


「うん」


私たちは手を繋いだまま歩き出す。


桜並木の下を、ゆっくりと。


新しいイヤホンを買いに。


今度こそ、一緒に音楽を聴くために。



帰り道、蒼真が言った。


「なあ、このイヤホン」


彼の手の中には、壊れた右側のイヤホン。私のカバンには、壊れた左側。


「繋げてみていいか」


「……壊れてるのに?」


「いいじゃん。記念に」


蒼真が私のイヤホンを受け取って、右側と左側を繋げる。


白いコードが、一本に戻る。


音は出ない。両方とも壊れてるから。


でも——


「やっと、元通りだな」


蒼真が笑う。


私も笑った。


壊れたままでも、一緒にいられるなら。


それでいい。


私たちは、もう片方だけじゃない。


——これが、私たちの新しい始まり。


左耳だけで聴いてきた三年間の歌が、今日から両耳で聴こえるようになる。


あなたの声が、右からも左からも聞こえる。


それが、こんなにも嬉しいなんて——知らなかった。

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