壊れたイヤホンの片方だけ、あなたの声が聞こえる——「捨てられない」と言ったら、幼馴染が泣いた
「片方しか聞こえないイヤホンなんて、意味ないでしょ」
莉子がまた言う。何度目だろう、この台詞。
わかってる。わかってるよ、そんなこと。
私は曖昧に笑って、左耳に刺さったイヤホンを外さなかった。右側から音は出ない。三年前の夏に壊れて、それきり。
新しいのを買えばいい。千円も出せばそれなりのものが手に入る時代だ。なのに私は、この壊れたイヤホンをずっと使い続けている。
——馬鹿みたいだって、自分が一番わかってる。
「ゆづき、聞いてる?」
「うん、聞いてる」
「絶対聞いてない。左耳ふさいでるじゃん」
「だって右からは何も聞こえないし」
「いや、だから買い替えなって!」
莉子は呆れたように肩をすくめる。彼女の耳には最新のワイヤレスイヤホン。ノイズキャンセリング機能付き。流行りの淡いピンク色で、彼女の茶髪のボブによく似合っている。
私のは、コードが絡まる古いタイプ。
白いコードは少し黄ばんでいて、何度も絡まった跡がある。
右側は死んでる。
でも、左側はまだ生きてる。
それでいいじゃん、って——思ってしまう自分がいる。
「三年だよ?」
莉子が指を三本立てる。
「三年同じこと言ってる。いい加減、前に進みなよ」
前に進む。
その言葉が、胸の奥でちくりと刺さる。
「……うん」
私は曖昧に頷いた。それ以上は、何も言えなかった。
◇
高校一年の夏。
あの日、私は隣にいた幼馴染と同じ音楽を聴いていた。
『これ、いい曲だろ』
蒼真が得意げに笑う。彼がハマっているバンドの新曲。私はあまり詳しくなかったけど、彼が好きなものは何でも聴いてみたかった。
『うん。……ねえ蒼真、右と左どっちがいい?』
『じゃあ右』
私は左のイヤホンを耳に入れて、彼は右を取った。
同じ曲を、半分ずつ。
白いコードが、私たちを繋いでいた。
それが当たり前だった。幼稚園からずっと一緒で、小学校も中学校も同じクラスで。恋とか、そういうのじゃない——そう思い込んでた。
だって蒼真は蒼真で、私にとっては空気みたいな存在で。
いなくなるなんて、考えたこともなかった。
『ゆづき』
あの日、曲が終わった後。
彼は妙に真剣な顔をしていた。いつもの飄々とした表情が消えて、どこか思い詰めたような。
『俺、転校する。来週には引っ越し』
——は?
頭が真っ白になった。
声が出なかった。何か言わなきゃと思ったのに、口が動かない。
嘘でしょ。
来週って、あと何日?
なんで今まで言わなかったの?
なんで——
『親父の転勤で。……悪い、俺も昨日知って』
蒼真の声は震えていた。今思えば、彼だって辛かったんだと思う。でもあの時の私には、そんなこと考える余裕がなかった。
気づいたら、彼は行ってしまっていた。
右側のイヤホンは、彼の耳に入ったまま。
翌日、学校の下駄箱に小さな紙袋が入っていた。中には右側のイヤホンと、走り書きのメモ。
『返す。ごめん』
たった五文字。
そして——戻ってきた右耳用イヤホンは、もう音が出なくなっていた。
◇
偶然だって、わかってる。
イヤホンが壊れたのと、彼がいなくなったのは、たぶん関係ない。断線とか、接触不良とか、そういう物理的な原因があったんだと思う。
でも私の中では、繋がってしまった。
右側が死んだ日。
蒼真がいなくなった日。
同じ日。
三年間、私は左耳だけで音楽を聴いてきた。
片方だけの世界。
欠けた世界。
それでも手放せなかったのは——捨てたら、本当に終わる気がしたから。
何が終わるのかなんて、考えないようにしてた。考えたら、認めなきゃいけなくなる。
蒼真のことが好きだったって。
ただの幼馴染じゃなかったって。
◇
大学の入学式。
四月の風は少し冷たくて、でも桜は満開で。
新しい場所、新しい出会い。
私は人混みの中を歩きながら、左耳にイヤホンを刺していた。流れてくるのは三年前と同じ曲。蒼真が好きだったバンドの、あの曲。
変えられない。変えたくない。
『新しい出会いの場でイヤホンとか、出会う気ないでしょ』
さっき莉子に言われた言葉が頭をよぎる。彼女は別の学部だから、今は一人。心細いような、ほっとするような。
——ああ、また莉子に怒られるな。
そう思った瞬間。
目が、合った。
人混みの向こう。
見覚えのある黒髪。少し伸びた背。大人びた輪郭。でも、変わらない目元。涼しげで、でもどこか優しくて。
嘘、でしょ。
心臓が跳ねた。
止まった。
また跳ねた。
周りの音が消える。桜の花びらがスローモーションで舞う。まるで映画みたいだって、どこか他人事のように思った。
彼が、こっちに歩いてくる。
人混みをかき分けて、まっすぐに。
「——久しぶり」
蒼真は、少しだけ困ったように笑っていた。
三年ぶりの声。
三年ぶりの笑顔。
私の左耳では、あの日と同じ曲が流れ続けている。
——ねえ、聞こえてる?
私の右側は、まだ壊れたままだよ。
◇
「元気そうだな」
蒼真の声は、少し低くなっていた。当たり前だ。三年も経てば、人は変わる。
背も伸びた。顎のラインがシャープになった。でも、笑うと目尻が下がる癖は変わってない。
「うん。……蒼真こそ」
私の声は震えていなかっただろうか。平静を装おうとして、たぶん失敗してる。
人混みの中、私たちは立ち尽くしていた。周りの新入生たちは賑やかに談笑しながら通り過ぎていく。誰も私たちのことなんか見ていない。
でも、私には蒼真しか見えなかった。
「大学、ここだったんだ」
「うん。蒼真は?」
「俺も……まあ、偶然」
偶然。
そう、偶然だよね。三年間連絡もなかったんだから。
LINEは残ってた。ブロックなんてしてない。でも、メッセージを送る勇気がなかった。既読がつかなかったら。返信がなかったら。忘れられてたら——そう思うと、指が動かなかった。
連絡しなかったのは私も同じ。
責める資格なんてない。
「変わんないな、ゆづき」
「そう? 蒼真は背、伸びたね」
「そっちは相変わらずちっこい」
「うるさい」
何気ない会話。昔みたいに。
でも、全然昔みたいじゃない。
目が泳ぐ。話したいことはたくさんあるのに、何も言葉にならない。三年分の空白が、見えない壁になって私たちの間に立ちはだかっている。
——何してたの、この三年間。
——元気だった?
——私のこと、覚えてた?
聞きたい。聞けない。
聞いたら、きっと傷つく。
◇
「あ」
蒼真の視線が、私から逸れた。
何だろう、と思って——気づいた。
彼の目が、私のカバンから覗くイヤホンのコードに止まっている。
白いコード。三年間使い続けた、くたびれたコード。何度も絡まって、何度もほどいて。右側は壊れたまま、でも捨てられなくて。
「——それ」
空気が、凍った。
蒼真の声が掠れる。表情が強張る。
「まだ、持ってたんだ」
——やめて。
私は咄嗟にカバンの口を閉じようとした。でも遅かった。蒼真はもう見てしまった。三年前と同じイヤホン。右側が壊れたままの、古いイヤホン。
「……壊れてるけど、捨てられなくて」
言い訳みたいに、そう言った。
自分でも驚くほど、声が震えていた。
三年間、誰にも言わなかった。莉子にも、親にも。なんでこのイヤホンを使い続けてるのか、本当の理由は言えなかった。
『新しいの買いなよ』
『片方しか聞こえないなんて不便でしょ』
そう言われるたびに、曖昧に笑ってごまかしてきた。
でも蒼真には——ごまかせない。
彼は知っているから。このイヤホンが壊れた日のことを。あの日、一緒に音楽を聴いていたことを。右側を彼の耳に入れていたことを。
◇
蒼真の表情が、歪んだ。
見たことない顔だった。苦しそうで、悔しそうで、でもどこか——安堵しているような。
「俺さ」
声が低い。震えている。
「ずっと後悔してた。あの日、何も言わずに行って」
——私も。
言いたかった。でも声が出ない。
「転校決まったの、本当に急で。親父に言われたのが前の日の夜で、頭真っ白になって。お前に何て言えばいいかわかんなくて……結局、何も言えなかった」
蒼真が俯く。前髪が目にかかる。
「引っ越してからも、連絡しようと思った。何度も。でも——」
「……でも?」
「怖かった」
蒼真が顔を上げる。その目が、揺れている。
「俺のこと、忘れたと思ってた」
蒼真が笑う。でもその笑顔は、全然笑ってない。
「新しいイヤホン買って、俺のことなんか——」
その瞬間。
彼の目から、涙がこぼれた。
◇
——え。
私は固まった。
蒼真が、泣いている。
人混みの真ん中で。人目も気にせず。涙を流している。
嘘でしょ。
蒼真は泣かない人だった。小学校のとき転んで膝から血を流しても泣かなかった。「痛くねーし」って強がって、でも顔真っ青だった。中学で部活の試合に負けても泣かなかった。悔しそうに唇を噛んで、でも涙は絶対に見せなかった。
強がりで、意地っ張りで、弱いところを絶対に見せない——そういう人だった。
その蒼真が。
「ごめん」
彼は袖で乱暴に目元を拭いながら、絞り出すように言った。
「ごめん、ゆづき。俺——」
「忘れるわけ、ないじゃん」
気づいたら、私も泣いていた。
涙が頬を伝う。止まらない。三年分の感情が、一気に溢れ出してくる。
「ばか。忘れるわけないでしょ」
声がぐちゃぐちゃになる。でも構わない。
「だから連絡しなかったの。声聞いたら、会いたくなるから。会えないのに会いたくなったら、辛いから——」
私は無意識にカバンの中のイヤホンを握りしめていた。三年間、ずっと握りしめてきた。心の中で。
「だから関わらなかった。連絡したら、声聞いたら、会いたくなるから」
蒼真も同じことを言っていた。
同じ言葉。同じ理由。
私たちは、同じだった。
三年間、お互いのことを想いながら、怖くて連絡できなかった。忘れられてるんじゃないかって怯えながら、自分から確かめる勇気がなかった。
馬鹿みたいだ。
本当に、馬鹿みたい。
「俺、ずっと後悔してた」
蒼真が言う。涙で濡れた顔のまま。
「あの日、ちゃんと言えばよかった。『待ってて』って。『絶対また会いに来る』って。でも何も言えなくて、イヤホンだけ返して——最低だった」
「私も……」
私も、何も言えなかった。
引き止めることも、「寂しい」と言うことも、「好き」だと伝えることも。
全部、怖くてできなかった。
「俺さ、向こうでもずっとあの曲聴いてた」
「……え?」
「お前と最後に聴いた曲。何百回聴いたかわかんない。聴くたびにお前のこと思い出して、会いたくなって、でも連絡する勇気がなくて——」
蒼真が笑う。自嘲するように。
「情けないよな。三年も経って、まだこんな」
「情けなくなんかない」
私は首を横に振った。
「私だって同じだもん。三年間、ずっとこのイヤホン使ってた。右側壊れてるのに。片方しか聞こえないのに。でも捨てられなかった」
「……なんで」
「捨てたら、本当に終わる気がしたから」
何が終わるのか。
ずっと考えないようにしてきたけど、今ならわかる。
「蒼真との繋がりが、切れる気がしたから」
蒼真の目が見開かれる。
そして——また、涙がこぼれた。
「ずるい」
掠れた声。
「そんなこと言われたら——」
「泣いてるの、蒼真でしょ」
「お前も泣いてんだろ」
「……そうだけど」
私たちは人混みの中で、泣きながら笑っていた。
きっと周りから見たら変な二人だ。入学式の日に、大学の構内で、泣きながら笑ってる男女。
でも、そんなことどうでもいい。
三年ぶりに、同じ場所にいる。同じ空気を吸っている。同じ空の下で、笑っている。
◇
「……新しいの、一緒に買いに行かない?」
蒼真が目を拭いながら言った。まだ声は震えているけど、さっきより少しだけ明るい。
「今度は、ちゃんと両方聞こえるやつ」
私は手の中のイヤホンを見下ろした。
白いコード。右側は壊れたまま。三年間、私の左耳にだけ音楽を届けてくれた。
これを手放す日が来るとは思わなかった。
でも——
「捨てないよ」
私は首を横に振った。
「このイヤホンは捨てない。使わなくなっても、ずっと持ってる」
蒼真が目を丸くする。
「だって、これがあったから——」
三年間、繋がっていられた。
片方だけの世界でも、あなたのことを忘れずにいられた。
「私たちの空白の三年間を、繋いでくれたから」
蒼真の目がまた潤む。でも今度は、笑いながら。
「……ずるいな、そういうの」
「蒼真が先に泣いたくせに」
「うるさい。忘れろ」
「無理。一生覚えてる」
「やめろって」
蒼真が照れたように顔を背ける。耳が赤い。昔からそうだった。照れると耳が真っ赤になる。
変わってない。
三年経っても、蒼真は蒼真のままだ。
◇
「俺もさ」
蒼真がポケットに手を入れる。
「持ってたもんがあるんだけど」
何かを取り出す。
——白いコード。
見覚えのある形。
「嘘」
私は息を呑んだ。
蒼真の手の中にあったのは、イヤホンの右側だった。
あの日、彼の耳に入ったまま持っていかれた——右側。
「返したつもりだったんだけどさ」
蒼真が苦笑する。
「間違えて、自分の方を袋に入れてた。お前のイヤホンの右側、俺がずっと持ってた」
「……は?」
「気づいたの引っ越しの後で。返しに行こうにも、もう会えないし。捨てようと思ったんだけど——」
「捨てられなかった?」
「……ああ」
蒼真が頷く。
「壊れてるけどな。でも捨てられなかった」
——ああ、そうか。
私は泣きながら笑った。
私たちは最初から、繋がっていたんだ。
右と、左。
壊れたイヤホンの、片方ずつを持って——三年間、お互いを想い続けていた。
「ばか」
「お前もな」
蒼真が笑う。泣きながら。
私も笑う。泣きながら。
桜の花びらが舞っている。四月の風は少し冷たくて、でも今は温かい。
「……行こう」
私は蒼真に向かって、手を差し出した。
「新しいイヤホン、一緒に選んで」
蒼真は一瞬驚いたように目を瞬かせて——それから、私の手を取った。
温かい。
三年前と同じ温度。大きくなった手のひら。でも、握る力の加減は変わってない。強すぎず、弱すぎず。ちょうどいい。
「今度は」
蒼真が言う。
「ワイヤレスにしような。コード絡まるの面倒だし」
「え、でも——」
「でも、何」
「コードがないと、繋がってる感じしなくない?」
蒼真が呆れたように笑う。
「お前、そういうとこあるよな」
「どういうとこ」
「変なとこで頑固」
「うるさい」
「じゃあ、コード付きでいいよ。お前と繋がってたいし」
「——っ」
不意打ちだった。
顔が熱くなる。心臓がうるさい。
「な、何言って——」
「本当のことだろ」
蒼真がまっすぐに私を見る。
涙の跡が残った顔。でも、目は真剣で。
「俺、三年間ずっと後悔してた。だから今度は言う」
「……なに」
「好きだ。ずっと前から」
——ああ。
やっと、聞けた。
三年間、聞きたかった言葉。
「私も」
声が震える。でも、はっきり言う。
「私も、好き。ずっと」
蒼真の顔が、ぱっと明るくなる。
子どもみたいな笑顔。三年前と変わらない。
「じゃあ、付き合って」
「……うん」
繋いだ手に、力がこもる。
左耳だけの世界は、今日で終わる。
これからは、隣で同じ音楽を聴ける。
両方の耳で、あなたの声が聞こえる。
◇
ポケットの中で、スマホが震えた。
莉子からのメッセージだろう。『入学式どうだった?』とか、そんな内容に違いない。
返信は後でいい。
今は——この手を、離したくないから。
「なあ、ゆづき」
「なに」
「あの曲、まだ聴いてる?」
「……うん。ずっと」
「じゃあ今度、一緒に聴こう。新しいイヤホンで」
「うん」
私たちは手を繋いだまま歩き出す。
桜並木の下を、ゆっくりと。
新しいイヤホンを買いに。
今度こそ、一緒に音楽を聴くために。
◇
帰り道、蒼真が言った。
「なあ、このイヤホン」
彼の手の中には、壊れた右側のイヤホン。私のカバンには、壊れた左側。
「繋げてみていいか」
「……壊れてるのに?」
「いいじゃん。記念に」
蒼真が私のイヤホンを受け取って、右側と左側を繋げる。
白いコードが、一本に戻る。
音は出ない。両方とも壊れてるから。
でも——
「やっと、元通りだな」
蒼真が笑う。
私も笑った。
壊れたままでも、一緒にいられるなら。
それでいい。
私たちは、もう片方だけじゃない。
——これが、私たちの新しい始まり。
左耳だけで聴いてきた三年間の歌が、今日から両耳で聴こえるようになる。
あなたの声が、右からも左からも聞こえる。
それが、こんなにも嬉しいなんて——知らなかった。




