「字を教えるなど誰にでもできる」と捨てられた令嬢——三月後、王太子は即位演説を一字も読めなかった
春分の鐘が、王宮の塔から鳴り始めていた。
即位式典の控え室。
樫の長机の上に、薄い羊皮紙の束が置かれている。
新王の演説草稿だった。
三日かけて式部官が清書した、王家の伝統に則った一葉である。
グラーフェン王家では、即位演説は春分の鐘とともに初読する慣わしだ。
新王が事前に声へ出して通すことは、古来、忌まれてきた。
その紙面を、新王レオンハルトはじっと見ていた。
見ている、というよりは、見ようとして見られない、という顔だった。
冒頭の一文。
文字の輪郭は読める。だが、文字の意味が、どこにも入ってこない。
頭の中を、湿った霧が通り抜けるような感覚だった。
「ヴァルター。これを、読んでくれ」
補佐官筆頭ヴァルターは、一礼して紙面を覗き込んだ。
息を吸う。吐く。もう一度、吸う。
彼の唇が、何か言おうとして、形にならなかった。
草稿の冒頭の一節を、彼の唇は三度なぞり、いずれも音にならぬまま閉じた。
ヴァルターは、ゆっくり、机に手をついた。
「……お、私は……これを、読めません」
「読めない、とは、どういう意味だ」
「読めないのです、殿下。文字の形はわかります。けれど、それが何の言葉なのか、私の中で像を結ばないのです」
控え室の空気が、急に薄くなった。
第二王子フリードリヒ、末姫アンナ、書記官筆頭エルンスト、式部官三名——
六人が順に呼ばれ、順に草稿を覗き込み、順に、同じ言葉を返した。
誰一人として、その紙の上の文字を声にできなかった。
窓の外で、春分の鐘がまだ鳴っていた。
新王レオンハルトの手の中で、羊皮紙が小刻みに揺れた。
彼はその揺れを止めようとして、左手を右手に重ねた。
二つの手は、揃って強張っていた。
「……これを書いたのは、誰だ」
誰も、答えなかった。
三月前の、初冬。
王宮の第三書斎には、雪混じりの風が窓の隙間から入り込んでいた。
樫の机の向かい合わせに、二脚の椅子。
一方の椅子に、公爵令嬢エリーゼ・フォン・アシュフォードは、いつものように腰を下ろしていた。
膝の上に、ペン皿。
手元に、王太子が朝のうちに起草したという勅令の草稿。
その紙面には、稚拙な綴り字と整わぬ受動態が、十六世紀風の古典引用に不器用に混じり合っていた。
エリーゼは、紙の縁を、指でゆっくりと辿った。
長年の癖だった。
扉が開く音。
王太子レオンハルトが入ってきた。
ここ半年、彼が第三書斎に姿を見せる頻度は、月に一度を切っていた。
「エリーゼ」
「殿下」
「婚約は、破棄する」
彼はそう言って、机の上に勅令の写しを一枚、置いた。
文体はやはり整っていなかった。
エリーゼは、その写しを一瞥して、なぜか、まず先にそちらが気になった。
「『〜であらせらるる』は古典過剰でございます。次稿で削るほうが」と、口元まで言葉が出かかった。
でも、それは飲み込んだ。
いまここで、それを言ってはいけない。
「承知いたしました」
彼女はそれだけを返した。
声は、自分でも驚くほど静かだった。
レオンハルトの目に、軽い驚きが走ったように見えた。
彼はおそらく、もっと別の反応を予期していた。
涙か、抗議か、あるいは——婚約破棄を翻意させようとする駆け引きか。
そのどれでもないものを差し出されて、彼は少しだけ、戸惑った顔をした。
「お前の授業など、子守りの替わりだった」
その言葉を、彼は付け加えた。
付け加える必要のなかった言葉だった。
エリーゼは、ペンを置いた。
十五年、彼女と王太子の間に積み上げられてきた帳面。
その一冊を、静かに閉じた。
膝の上の手は、気づかぬうちにペン皿の縁を強く握っていた。
爪の先が、白く沈むのが見えた。
大丈夫ではないことくらい分かっていた。
けれど、それを声に出す権利が自分にあるのか、分からなかった。
十五年——その時間が、いま、たった一言で「子守り」と言われた。
わたくしは、どう応じればいいのだろう。
「ご退出を、お許しくださいませ」
彼女は、頭を下げた。
帳面を一冊、胸に抱えた。
残り三十四冊は机の上に置いたまま、書斎を出た。
扉を閉める音は、できる限り小さくした。
彼の耳に、未練の音を残したくなかった。
馬車の中で、エリーゼは一度だけ、瞼を強く閉じた。
車輪が凍てついた轍を踏み、車体が小さく揺れた。
胸の奥が、冷たい鉄の棒を呑み込んだように軋んだ。
「では、わたくしの十五年は——何だったのでしょう」
声には出さなかった。出すと、何かが、決定的に終わってしまう気がした。
屋敷に戻り、自室の机に帳面を置いた。
まだ、引き継ぎ書を書かねばならない。
誰のために、ではなく——自分の十五年を、まだ自分の手で締めるために。
羽根ペンを取った。
最初の頁の冒頭に、彼女は三行だけ書いた。
「侍読の業務、整理。
以下、わたくしの預かりし三つの事項を、ここに記す。
いずれも、十五年、誰にも引き継がれぬまま続いていた」
一つ目は、政務文書の文体校閲だった。
王太子が起草する勅令は、文体が砕けすぎていて諸侯に届かない。
十年来の問題だった。
「貴族の格式に届かぬ言葉では、勅令は勅令にならぬ」と、宰相は何度も警告していた。
だが、王太子は文体を変えなかった。変えられなかった。
その役目を、彼女が黙って引き受けてきた。
昼の正餐のあと、王太子の私室に運ばれてくる勅令草稿。
差出人は侍従。宛名は「侍読殿」。
彼女はそれを毎日受け取った。
敬語の階梯を整え、受動態と能動態の選択を直す。
十六世紀風の古典引用は「諸侯がそれと気づく程度」に薄めた。
返却は、その夜のうち。
翌朝、王太子はそれを清書して、自分の名で勅令として発した。
諸侯は「殿下は近頃、文章が落ち着いてきた」と評していた。
二つ目は、隣国アルテンベルク公国との親書のやり取りだった。
アルテンベルクの公文書は、古典的な公国語で書かれる。
単語は王国語と似ている。
だが語順は逆で、敬称の段が三層ある。
誤訳すれば外交問題になった。
王太子はこれを読めない。
彼女が訳し、要点を抜き、返書の草案を書いた。
清書だけは王太子自身の手で行われた。
印璽もまた彼の手で捺された。
だから王宮の侍従や式部官の目には、書状の筆跡は王太子のものとして映っていた。
過去三年、アルテンベルクから届いた親書は十一通。
そのすべての返書の文体が、同じ手で整えられていた。
差出人欄に、エリーゼの名は、一度も書かれなかった。
三つ目は、即位演説の草稿だった。
春分に予定された即位式に向け、彼女は半年前から九稿を磨き上げていた。
古典引用は二か所だけ。
冒頭の一文は、新王が国民へ読み上げる最初の言葉になる。
だから敬語の階梯を慎重に降ろした。
王太子は「お前のは堅すぎる」と一度、目を通して突き返した。
それから二度と読まなかった。
彼女は、十稿目を昨夜のうちに整え、机の上に置いてきていた。
帳面の余白に、彼女は付記した。
「演説草稿の冒頭一文、結句に余白を二音節分残しております。
その間を、新王自身の呼吸で埋めていただくよう、お伝えくださいませ。
間が埋められぬ場合、その演説は、国民に届きませぬ」
書き終えて、彼女は羽根ペンの先を布で丁寧に拭った。
インクの匂いが、袖口にいつもより強く染みていた。
思い返せば、最も骨を折ったのは三年前の冬の親書だった。
アルテンベルクから届いた問い合わせ文の末尾に、定型句ではない一行が混じっていた。
古典詩集の第七編、第十二節の引用だった。
王国にはその詩集の写本が三部しか存在しない。
王宮の図書庫の一部は鍵がかかっていた。
彼女は侍従に頼んで夜の鍵を借りた。
燭台の灯りで、該当の節を探し当てた。
返書には、同じ詩集の第九編から、対応する一行を引用した。
古典の対話だった。
王太子の名で送り返したその親書を、アルテンベルクの宰相補佐は三年、棚に並べて待っていた。
そのことを、彼女は知らなかった。
ペン先のインクが、紙の上で、ゆっくり乾いていった。
帳面に三行を書き終えると、エリーゼは羽根ペンを置いた。
窓の外、雪が音もなく落ちていた。
わたくしは、子守りをしていたのですか。
彼女は、自分に問うた。
答えは、出なかった。
答えを出してはいけないような気がした。
三日後、隣国の刻印を捺した書状が、アシュフォード公爵邸に届いた。
差出人。
ヴィルヘルム・フォン・アルテンベルク。
アルテンベルク公国宰相補佐、文書庫長兼。
彼女は、その名を知らなかった。
封を切ると、丁寧だが詰めの効いた古典語で、長い手紙が綴られていた。
〈アシュフォード家ご令嬢殿。
三年前の冬、我が公国に届いた一通の親書を、私は文書庫の机で開きました。
差出人は王太子レオンハルト殿下、署名も同様。
しかし文体は、署名と一致していなかった。
古典引用の節度、敬語の階梯の降ろし方、結句に置かれた一語の余白——
私はその瞬間、これは詩だ、と呟きました。
以来三年、同じ手の十一通を、私は文書庫の専用棚に並べてまいりました。
差出人の名は、どこにも書かれていなかった。
貴女の名に辿り着いたのは、つい先月のことです〉
手紙の続きには、招聘の意向が書かれていた。
アルテンベルク公国は、王立女子学院を設立する。
初代学長を、貴女に。
給金は王国の侍読の五倍。専用の書斎と、十二人の生徒をお約束する。
エリーゼは、手紙を二度、読み返した。
二度目を読み終えたとき、彼女は手紙を膝の上に置いた。
そして長い時間、何もしなかった。
自分の十五年は、誰にも読まれずに消えるはずだった。
ところが——読んでいた人が、ひとり、いた。
それも、隣国に。
差出人の名のない文書を三年、棚に並べて待っていてくれた人が、いた。
胸の奥が、今度は鉄ではなく、温い湯のような何かで満たされた。
彼女は初めて、声に出して、ひとり、笑った。
短く、低い、ほとんど吐息のような笑いだった。
夜、父アシュフォード公爵に、招聘の話を切り出した。
父は眉を寄せた。
「公爵家の娘が、一介の学院の長になるなど」
「父上、その机の上の勅令、文体が落ち着いておりますね」
父は、自分の手元の草稿に視線を落とした。
王宮から戻された最新の勅令の写しだった。
諸侯への通達である。
「これは、わたくしが書いたものでございます」
父の指が、紙の縁で止まった。
「……過去十年の勅令、すべてか」
「すべて、ではございません。砕けすぎていたものだけ。年に二百通ほどでしょうか」
父は長い間、何も言わなかった。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、応接間に落ちた。
やがて、父は短く頷いた。
「行きなさい」とだけ言った。
婚約破棄の正式な手続きは、その夜のうちに父の名で進められた。
王の裁可は三日後に降り、男系の同意も整った。
形式の上では、何の瑕疵もない破棄だった。
その夜、エリーゼは自分の机から、十五年分の引き継ぎ書をまとめた。
全冊を十稿目の即位演説草稿に挟んで、王宮の第三書斎の机に置いてくるつもりだった。
誰かが十五年の余韻をたどってくれるなら、そこから始められる。
たどってくれなくとも、それはそれで構わない。
帳面の表紙を撫でた指先に、まだ小さな痛みが残っていた。爪を立てた跡だった。
その痛みを確かめてから、彼女はゆっくりと呼吸を整えた。
わたくしの仕事は、もう、わたくしの中で完結している。
国境の駅に、ヴィルヘルムが迎えに来ていた。
黒髪、灰がかった青の瞳。背の高い、痩せた男だった。
文官服は地味な紺で、装飾は襟元の銀のピン一つだけ。
彼はエリーゼを見ると、深く一礼して、それから——少しだけ目を細めた。
「お会いするのは、初めてです」と、彼は言った。
「ですが、貴女の手は、三年、私の手元におりました」
彼の馬車は質素だった。
車内に、書物が三冊だけ置いてあった。
うち一冊は、アルテンベルク古典詩集。
彼女が王宮で校閲のために何度も参照してきた版だった。
もう一冊は、王国とアルテンベルクの外交書簡集。
最後の一冊は、ぱっと見では分からなかった。
表紙を開くと、彼が三年かけて綴じた、彼女の文書十一通の写しだった。
「……これは」
「私の、宝でございます」
彼は静かに、それだけを言った。
馬車が走り出してしばらくして、ヴィルヘルムは膝の上の写しを開いた。
三年前の、最初の一通。
彼の指が、結句の一語の上で止まった。
「ここ、でございますね」と、彼は言った。
「結句のあと、二音節分の余白を残しておられた。
私は、その余白を、三晩、眺めました。
四晩目に、ようやく気づいたのです。
ここは、読み手の呼吸を入れる場所だ、と」
エリーゼは、窓の外の雪を見ていた。
返事の言葉を選びかねていた。
十五年、その「呼吸の余白」を見抜いてくれた人は、いなかった。
いまここに、いる。
わたくしの仕事を、最後の一語の沈黙まで読んでくれた人が、いる。
「……ありがとうございます」
彼女は、小さく、それだけを返した。
声が、ほんの少し揺れた。
ヴィルヘルムは、それを聞いて、写しを静かに閉じた。
残りの道中、彼は書物を一冊も開かなかった。
ただ彼女の隣で、馬車の小窓から見える桃花木の蕾を数えていた。
その蕾は、まだ硬く閉じていた。
即位式の朝、王城の控え室。
ヴァルターは、机に手をついたまま、しばらく動けなかった。
手のひらの下、長机の木目が、いつもより冷たかった。
彼は今年で五十二だった。
五人の補佐官のうち、最年長。
彼が読み書きを身につけたのは、十五年前の冬だった。
第三書斎の隣の、給仕用の小部屋。
そこの壁が、わずかに薄かった。
扉越しに、若い令嬢の声がした。
「これは『あ』でございますね。線が二本、横に流れます」
「これは『い』。縦に二本、寄り添うのです」
ヴァルターは、その声を毎日、半年、聞いた。
補佐官の見習いだった彼は、本当は文字が読めなかった。
誰にも言えなかった。
貴族の家の三男坊として、それを認めるわけにはいかなかった。
扉越しの声だけが、彼の独学の師だった。
令嬢の声は王子に教えるためのものだったが、ヴァルターの耳にも、同じだけ届いた。
彼が読み書きを覚えたのは、彼女が来てから半年後だった。
彼はその事実を、二十年近く誰にも告げなかった。
令嬢に直接、お礼の一言を申し上げる機会はあった。
あったときに、彼は選ばなかった。
「補佐官たる者が、令嬢に教えを乞うていたなど、口にできるものか」と思った。
その小さな矜持が、いま、彼の手の下で白く震えていた。
彼が、紙面の冒頭の文字を、指の先でなぞる。
形は、見える。
だが、その文字がいま何の言葉なのか、ヴァルターの中で像を結ばない。
令嬢が去って三月。
扉越しに覚えた文字は、扉の向こうの声が消えたあと、輪郭から崩れた。
彼は、床に膝をついた。
「殿下」
彼は、新王を見上げた。
「私は、もう、彼女に、もう一度教えてくれと、申し上げる、資格を、失いました」
末姫アンナが、控え室の隅で、姉のように振る舞っていた女官の手を強く握った。
彼女は十二歳だった。
草稿の冒頭を覗き込んでいた。
「お兄様、これは『朕』という字よね?」
兄フリードリヒは、十八歳だった。
彼は、妹の問いを聞いて、息を呑んだ。
「……いや、ちがう」
「ちがう?」
「朕、ではない。何か、もっと、長い言葉だ。だけど、私には、思い出せない」
フリードリヒは、自分の手を握り直した。
手のひらは、汗で湿っていた。
昨夜、彼は妹の入学願書を書いていた。
王家の慣例で、末姫は十二歳で神学校に籍を置くことになっていた。
形式的な、しかし王女の名で残る最初の書類だった。
名前の欄で、彼の筆は止まった。
「アンナ・ヴィオレッタ・グラーフェン」
ヴィオレッタの『ッ』の筆順が、頭の中で像を結ばなかった。
彼は何度か空に指で書こうとして、最後にその小さな促音を、不自然な角度で止めた。
その夜、彼は自分の書斎で、ひとり、長い間、何もせずに座っていた。
幼い頃、エリーゼが「ヴィオレッタの『ッ』は、走りすぎぬよう、少しだけ留めるのですよ」と教えてくれた。
彼はその声を確かに覚えていた。
覚えていたが、その声の通りに、いまの彼の指は、もう動かなかった。
彼ら兄妹は、同じ部屋で、同じ机で、同じ筆順をエリーゼに教わってきた。
フリードリヒは八歳から、アンナは六歳から。
二人とも、令嬢のことを「先生」と呼んだ唯一の人間だった。
ただし、その呼び名は王宮の他の誰の耳にも届いていなかった。
兄妹だけの、内輪の呼び方だった。
アンナの目に、涙が浮かんだ。
彼女は震える声で、控え室の中央に立つ兄王太子に向かった。
そして初めて公の場で、その呼び名を口にした。
「お兄様、先生は、いま、どこにいらっしゃるの」
控え室の十数名が、一斉に新王を見た。
新王レオンハルトは——
その「先生」が誰のことか、即座には思い当たらなかった。
彼の頭の中で、いくつかの顔が浮かんでは消えた。
家庭教師。神学の侍祭。剣術の指南役。
その誰でもないことに気づくまでに、二呼吸あった。
二呼吸目の終わりに、彼は漠然と——「ああ、エリーゼか」と思い当たった。
思い当たった瞬間、彼の指は、無意識に枕の方角へ伸びていた。
控え室には、もちろん枕はなかった。
それでも彼の指は、夜ごとの感触を覚えていた。
寝台脇の引き出しに何かを仕舞い、その日のぶんだけを枕の下へ滑り込ませる感触を。
毎晩、寝る前に、彼は何かを枕の下に滑り込ませる癖があった。
その「何か」が何だったのか、彼は今日まで考えたことがなかった。
即位式は、十二日、延期された。
その報せは、その日の昼までに王都中に広まった。
市場の魚売りが手を止め、隣の青物売りに問うた。
「王の即位が、延期になったのか」
「ああ。何でも、新王がお言葉を読み上げられなかったそうだ」
「読み上げられなかった、とは」
「文字が、出てこなかったらしい」
二人は顔を見合わせ、それから声を低くして黙った。
王が自分の口で語れぬ国に、これから何が起きるのか。
二人とも、はっきりした言葉ではそれを言わなかった。
代読役を、グラーフェン王家は急ぎ王国中から募った。
学識ある修道院長、神学校の校長、王立図書館の主席司書、東部の大商家の専属書記。
十二名が王宮に呼ばれた。
全員が、十稿目の演説草稿の冒頭一文を声に出した。
しかし、誰一人として、「あの手」の文体を声に出して読めなかった。
古典引用の節度。
敬語の階梯。
結句に置かれた一語の余白。
その三点の織りは、十五年、ひとりの手で磨かれていた。
他の誰の喉も、その織りを音にする訓練を受けていなかった。
十二名のうち、最後に呼ばれた東部の書記が、頁を閉じてから、こう言った。
「これは——朗読の文体ではございません。
書き手と読み手の、二人で初めて完成する文体でございます。
書き手が、読み手の呼吸を、知っていなければなりませぬ。
知らぬ者が読めば、ただの紙の上の墨でございます」
その書記は深く一礼して、王宮を辞した。
彼は王宮の門を出るとき、もう一度振り返り、自分の足元の石畳を長く見つめた。
ヴァルターは、その夜、王太子の私室で、王太子と二人だけになった。
彼は王太子の寝台脇の引き出しの底から、十五年分の学習帳を引き出した。
三十三冊あった。最後の一冊だけが、枕の下に滑り込ませてあった。
全冊、頁の余白に、幼い王太子自身の字で走り書きが残っていた。
〈きょうは、ありがとう〉
〈むずかしい〉
〈よめた〉
〈エリーゼせんせい、ぼくは、おうじゃ、になれるかな〉
幼い字は、頁を追うごとに、整っていった。
最後の一冊は、十三歳の春の頁で終わっていた。
その頁には、こうあった。
〈ぼくは、もう、ひとりで、よめる〉
その走り書きは、嘘だった。
ひとりで読めるようになったのではない。
隣に居る人の声を、もう聞かなくとも頭の中で再生できるようになっただけだった。
声の主が隣に居続ける限り、それは「ひとりで読める」のと同じだった。
声の主が居なくなった瞬間、頭の中の再生は止まった。
文字が、ほどけて散った。
レオンハルトは、最後の一冊を、両手で持っていた。
手は、震えていなかった。
もう、震える段階を、過ぎていた。
「ヴァルター」
「はい、殿下」
「私は、教わったことを、教わったと、知らなかった」
「左様にございます」
「もう、戻ってきてくれとは、言えぬな」
「言えませぬ」
ヴァルターは、頭を深く下げた。
そしてようやく、自分の二十年来の沈黙を、王の前で口にした。
「殿下。私もまた、彼女の声で文字を覚えた、補佐官の一人でございます。
扉越しに、半年。
その事実を、私は今日まで、口にできませんでした。
いま、彼女が去って三月、その文字は、私の頭の中でも、輪郭から崩れてまいりました。
私たちは、彼女の隣に居続ける限りにおいて、文字を持っていたのです」
その夜、レオンハルトは、初めて、自分の枕の下で泣いた。
涙は、頬を伝う前に、十五年分の頁に落ちた。
春の終わり、アルテンベルク公国、王立女子学院。
凍った湖の氷が、最初に割れた朝だった。
エリーゼは、自分の名を掲げた教室で、十二人の生徒を前に最初の授業をした。
生徒の年齢は、六歳から十四歳までだった。
商家の娘、騎士の娘、農村の村長の娘、そして雪解け前にひとりで国境を越えてきた孤児の少女。
全員の机に、新しい紙と新しい羽根ペンが置かれていた。
ペンは、エリーゼが自分の手で削った。
削りすぎず、削らなさすぎず、子供の指で持てる程度に整えた。
黒板に、白墨で、一文字を書いた。
「あ」、と。
線は二本。横に流れる。
「これは『あ』でございます」と、彼女は言った。
声は、十五年前、第三書斎で初めて七歳の少年に「あ」を教えた朝の声と、ほとんど同じだった。
ただし、わずかに低く、深かった。
生徒たちが、白墨の音を聞きながら、紙の上に自分の手で「あ」を書いた。
ひとり、ひとり、書けた瞬間に顔を上げた。
エリーゼは、その顔をひとりずつ見た。
「読めるようになりましたね」
彼女はそれを、十二回繰り返した。
十二回目を言い終えたとき、孤児の少女が、もう一度「あ」を書いて掲げてみせた。
声には出さなかった。
ただ紙を両手で、エリーゼに向かって見せた。
エリーゼは、その紙を見た。
十五年ぶりに、自分の頬を温いものが流れるのを感じた。
涙は、悲しみのものではなかった。
悔しさのものでも、なかった。
自分の名前で書かれた教室で、自分の名前で「先生」と呼ばれた。
自分の声が、ようやくひとりの少女の手の中に辿り着いた——その安堵だった。
彼女は、頬を拭わなかった。
拭くと、生徒たちが心配する。
心配されるのは、教師の側ではなかった。
彼女はただ、もう一度、白墨で「い」を書いた。
縦に二本、寄り添うように。
「次は、これでございます」
教室の向こう、図書館の扉の隙間から、ヴィルヘルムが覗いていた。
目が合うと、彼は小さく頷いた。
最近、彼女の隣で本を読む権利を、彼は手に入れていた。
何を読むかは問わない。
ただ頁をめくる音だけで充分だと、彼は言った。
窓の外、湖の氷の割れる音が、ゆっくりと響いた。
春が、来ていた。
遅い、北の、本物の春だった。
グラーフェン王城では、即位式の代読役が、いまだに見つからなかった。
新王レオンハルトは、枕の下の学習帳を捨てることが出来なかった。
それを開くたびに、自分が誰の隣に十五年座っていたのか、ようやく像が結ばれかけた。
でも、もう、遅かった。
即位式の延期は、十二日が二十日に、二十日がひと月に延びた。
新たに招かれた朗読官は三度替わったが、誰も「あの手」の文体を音にできなかった。
王宮の文書室では、勅令の草稿が積み上がるばかりで、夜半まで燭台の灯りが消えなかった。
レオンハルト自身も、王の私室に一人籠もる時間が増えた。
学習帳の余白に、彼は自分の字で何かを書こうとして、何度も羽根ペンを置いた。
幼い頃に綴った「ありがとう」の一語を、いま改めて、彼は同じ筆順では書けなくなっていた。
彼が、誰かに「先生」と呼ばれることは、二度と無かった。
彼が、誰かを「先生」と呼ぶ機会も、もう無かった。
その二つの「無い」が、彼の即位後の治世に、長く静かな空白をつくった。
エリーゼは、振り返らなかった。
湖の氷が割れる音と、子供たちが声に出して読み始める「あ」の音。
それが、彼女の新しい一日の最初の音だった。
胸の奥に、まだ十五年の余熱が、わずかに残っていた。
その余熱を抱えたまま、彼女は黒板に向き直り、白墨をもう一度握り直した。
彼女は、それだけで充分だった。
充分すぎるほどに、世界は整っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「機能停止型」の王道ストーリーです。彼女がいなくなって、組織が止まる——というのはベタですが、だからこそ気持ちいい。本作はその「止まり方」を、教育という最も静かな仕事に乗せて書きました。
教師という仕事は、不思議です。教えた行為は、教わった側の人生にしっかり残っているのに、「教わった」という事実そのものが、なぜか、教わった側の認識から脱落していく。「いつの間にか出来るようになっていた」と感じてしまう。それが、教師という仕事の最も静かで、最も致命的な構造です。
レオンハルトが「お前の授業など子守りの替わりだった」と言うとき、彼は嘘をついているのではありません。彼にとって、本当に、それは「子守り」程度の記憶でしかないのです。だからこそ、彼女が去った瞬間、彼が教わった内容ごと、頭の中の再生装置が止まる。「習った覚えがない」と言える者は、もう一度教われる資格すら失っている——という痛さを、書きたかった。
補佐官ヴァルターの「扉越しの独学」のくだりは、自分でも書いていて切なくなりました。十五年、礼の一言を選ばなかった人が、彼女が去って初めて、自分も同じ場所で文字を貰っていたと気づく。「もう、戻ってきてくれと言える資格は、私には無い」——この一言が、本作で一番好きな台詞かもしれません。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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