表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「字を教えるなど誰にでもできる」と捨てられた令嬢——三月後、王太子は即位演説を一字も読めなかった

作者: 歩人
掲載日:2026/06/08

 春分の鐘が、王宮の塔から鳴り始めていた。


 即位式典の控え室。

 樫の長机の上に、薄い羊皮紙の束が置かれている。

 新王の演説草稿だった。


 三日かけて式部官が清書した、王家の伝統に則った一葉である。

 グラーフェン王家では、即位演説は春分の鐘とともに初読する慣わしだ。

 新王が事前に声へ出して通すことは、古来、忌まれてきた。


 その紙面を、新王レオンハルトはじっと見ていた。

 見ている、というよりは、見ようとして見られない、という顔だった。


 冒頭の一文。

 文字の輪郭は読める。だが、文字の意味が、どこにも入ってこない。

 頭の中を、湿った霧が通り抜けるような感覚だった。


 「ヴァルター。これを、読んでくれ」


 補佐官筆頭ヴァルターは、一礼して紙面を覗き込んだ。

 息を吸う。吐く。もう一度、吸う。


 彼の唇が、何か言おうとして、形にならなかった。

 草稿の冒頭の一節を、彼の唇は三度なぞり、いずれも音にならぬまま閉じた。

 ヴァルターは、ゆっくり、机に手をついた。


 「……お、私は……これを、読めません」


 「読めない、とは、どういう意味だ」


 「読めないのです、殿下。文字の形はわかります。けれど、それが何の言葉なのか、私の中で像を結ばないのです」


 控え室の空気が、急に薄くなった。


 第二王子フリードリヒ、末姫アンナ、書記官筆頭エルンスト、式部官三名——

 六人が順に呼ばれ、順に草稿を覗き込み、順に、同じ言葉を返した。

 誰一人として、その紙の上の文字を声にできなかった。


 窓の外で、春分の鐘がまだ鳴っていた。


 新王レオンハルトの手の中で、羊皮紙が小刻みに揺れた。

 彼はその揺れを止めようとして、左手を右手に重ねた。

 二つの手は、揃って強張っていた。


 「……これを書いたのは、誰だ」


 誰も、答えなかった。




 三月前の、初冬。


 王宮の第三書斎には、雪混じりの風が窓の隙間から入り込んでいた。

 樫の机の向かい合わせに、二脚の椅子。

 一方の椅子に、公爵令嬢エリーゼ・フォン・アシュフォードは、いつものように腰を下ろしていた。


 膝の上に、ペン皿。

 手元に、王太子が朝のうちに起草したという勅令の草稿。

 その紙面には、稚拙な綴り字と整わぬ受動態が、十六世紀風の古典引用に不器用に混じり合っていた。


 エリーゼは、紙の縁を、指でゆっくりと辿った。

 長年の癖だった。


 扉が開く音。

 王太子レオンハルトが入ってきた。

 ここ半年、彼が第三書斎に姿を見せる頻度は、月に一度を切っていた。


 「エリーゼ」


 「殿下」


 「婚約は、破棄する」


 彼はそう言って、机の上に勅令の写しを一枚、置いた。

 文体はやはり整っていなかった。

 エリーゼは、その写しを一瞥して、なぜか、まず先にそちらが気になった。

 「『〜であらせらるる』は古典過剰でございます。次稿で削るほうが」と、口元まで言葉が出かかった。


 でも、それは飲み込んだ。

 いまここで、それを言ってはいけない。


 「承知いたしました」


 彼女はそれだけを返した。

 声は、自分でも驚くほど静かだった。


 レオンハルトの目に、軽い驚きが走ったように見えた。

 彼はおそらく、もっと別の反応を予期していた。


 涙か、抗議か、あるいは——婚約破棄を翻意させようとする駆け引きか。

 そのどれでもないものを差し出されて、彼は少しだけ、戸惑った顔をした。


 「お前の授業など、子守りの替わりだった」


 その言葉を、彼は付け加えた。

 付け加える必要のなかった言葉だった。


 エリーゼは、ペンを置いた。

 十五年、彼女と王太子の間に積み上げられてきた帳面。

 その一冊を、静かに閉じた。


 膝の上の手は、気づかぬうちにペン皿の縁を強く握っていた。

 爪の先が、白く沈むのが見えた。


 大丈夫ではないことくらい分かっていた。

 けれど、それを声に出す権利が自分にあるのか、分からなかった。

 十五年——その時間が、いま、たった一言で「子守り」と言われた。

 わたくしは、どう応じればいいのだろう。


 「ご退出を、お許しくださいませ」


 彼女は、頭を下げた。

 帳面を一冊、胸に抱えた。

 残り三十四冊は机の上に置いたまま、書斎を出た。


 扉を閉める音は、できる限り小さくした。

 彼の耳に、未練の音を残したくなかった。




 馬車の中で、エリーゼは一度だけ、瞼を強く閉じた。

 車輪が凍てついた轍を踏み、車体が小さく揺れた。

 胸の奥が、冷たい鉄の棒を呑み込んだように軋んだ。


 「では、わたくしの十五年は——何だったのでしょう」

 声には出さなかった。出すと、何かが、決定的に終わってしまう気がした。


 屋敷に戻り、自室の机に帳面を置いた。

 まだ、引き継ぎ書を書かねばならない。

 誰のために、ではなく——自分の十五年を、まだ自分の手で締めるために。


 羽根ペンを取った。

 最初の頁の冒頭に、彼女は三行だけ書いた。


 「侍読の業務、整理。

  以下、わたくしの預かりし三つの事項を、ここに記す。

  いずれも、十五年、誰にも引き継がれぬまま続いていた」




 一つ目は、政務文書の文体校閲だった。

 王太子が起草する勅令は、文体が砕けすぎていて諸侯に届かない。

 十年来の問題だった。


 「貴族の格式に届かぬ言葉では、勅令は勅令にならぬ」と、宰相は何度も警告していた。

 だが、王太子は文体を変えなかった。変えられなかった。

 その役目を、彼女が黙って引き受けてきた。


 昼の正餐のあと、王太子の私室に運ばれてくる勅令草稿。

 差出人は侍従。宛名は「侍読殿」。


 彼女はそれを毎日受け取った。

 敬語の階梯を整え、受動態と能動態の選択を直す。

 十六世紀風の古典引用は「諸侯がそれと気づく程度」に薄めた。


 返却は、その夜のうち。

 翌朝、王太子はそれを清書して、自分の名で勅令として発した。

 諸侯は「殿下は近頃、文章が落ち着いてきた」と評していた。


 二つ目は、隣国アルテンベルク公国との親書のやり取りだった。

 アルテンベルクの公文書は、古典的な公国語で書かれる。


 単語は王国語と似ている。

 だが語順は逆で、敬称の段が三層ある。

 誤訳すれば外交問題になった。


 王太子はこれを読めない。

 彼女が訳し、要点を抜き、返書の草案を書いた。

 清書だけは王太子自身の手で行われた。

 印璽もまた彼の手で捺された。


 だから王宮の侍従や式部官の目には、書状の筆跡は王太子のものとして映っていた。

 過去三年、アルテンベルクから届いた親書は十一通。

 そのすべての返書の文体が、同じ手で整えられていた。

 差出人欄に、エリーゼの名は、一度も書かれなかった。


 三つ目は、即位演説の草稿だった。

 春分に予定された即位式に向け、彼女は半年前から九稿を磨き上げていた。

 古典引用は二か所だけ。


 冒頭の一文は、新王が国民へ読み上げる最初の言葉になる。

 だから敬語の階梯を慎重に降ろした。


 王太子は「お前のは堅すぎる」と一度、目を通して突き返した。

 それから二度と読まなかった。

 彼女は、十稿目を昨夜のうちに整え、机の上に置いてきていた。


 帳面の余白に、彼女は付記した。

 「演説草稿の冒頭一文、結句に余白を二音節分残しております。

  そのを、新王自身の呼吸で埋めていただくよう、お伝えくださいませ。

  間が埋められぬ場合、その演説は、国民に届きませぬ」


 書き終えて、彼女は羽根ペンの先を布で丁寧に拭った。

 インクの匂いが、袖口にいつもより強く染みていた。


 思い返せば、最も骨を折ったのは三年前の冬の親書だった。

 アルテンベルクから届いた問い合わせ文の末尾に、定型句ではない一行が混じっていた。

 古典詩集の第七編、第十二節の引用だった。


 王国にはその詩集の写本が三部しか存在しない。

 王宮の図書庫の一部は鍵がかかっていた。

 彼女は侍従に頼んで夜の鍵を借りた。

 燭台の灯りで、該当の節を探し当てた。


 返書には、同じ詩集の第九編から、対応する一行を引用した。

 古典の対話だった。

 王太子の名で送り返したその親書を、アルテンベルクの宰相補佐は三年、棚に並べて待っていた。

 そのことを、彼女は知らなかった。


 ペン先のインクが、紙の上で、ゆっくり乾いていった。


 帳面に三行を書き終えると、エリーゼは羽根ペンを置いた。

 窓の外、雪が音もなく落ちていた。


 わたくしは、子守りをしていたのですか。

 彼女は、自分に問うた。

 答えは、出なかった。

 答えを出してはいけないような気がした。




 三日後、隣国の刻印を捺した書状が、アシュフォード公爵邸に届いた。


 差出人。

 ヴィルヘルム・フォン・アルテンベルク。

 アルテンベルク公国宰相補佐、文書庫長兼。


 彼女は、その名を知らなかった。

 封を切ると、丁寧だが詰めの効いた古典語で、長い手紙が綴られていた。


 〈アシュフォード家ご令嬢殿。

  三年前の冬、我が公国に届いた一通の親書を、私は文書庫の机で開きました。

  差出人は王太子レオンハルト殿下、署名も同様。

  しかし文体は、署名と一致していなかった。

  古典引用の節度、敬語の階梯の降ろし方、結句に置かれた一語の余白——

  私はその瞬間、これは詩だ、と呟きました。

  以来三年、同じ手の十一通を、私は文書庫の専用棚に並べてまいりました。

  差出人の名は、どこにも書かれていなかった。

  貴女の名に辿り着いたのは、つい先月のことです〉


 手紙の続きには、招聘の意向が書かれていた。

 アルテンベルク公国は、王立女子学院を設立する。

 初代学長を、貴女に。


 給金は王国の侍読の五倍。専用の書斎と、十二人の生徒をお約束する。


 エリーゼは、手紙を二度、読み返した。

 二度目を読み終えたとき、彼女は手紙を膝の上に置いた。

 そして長い時間、何もしなかった。


 自分の十五年は、誰にも読まれずに消えるはずだった。

 ところが——読んでいた人が、ひとり、いた。

 それも、隣国に。

 差出人の名のない文書を三年、棚に並べて待っていてくれた人が、いた。


 胸の奥が、今度は鉄ではなく、温い湯のような何かで満たされた。

 彼女は初めて、声に出して、ひとり、笑った。

 短く、低い、ほとんど吐息のような笑いだった。




 夜、父アシュフォード公爵に、招聘の話を切り出した。

 父は眉を寄せた。


 「公爵家の娘が、一介の学院の長になるなど」


 「父上、その机の上の勅令、文体が落ち着いておりますね」


 父は、自分の手元の草稿に視線を落とした。

 王宮から戻された最新の勅令の写しだった。

 諸侯への通達である。


 「これは、わたくしが書いたものでございます」


 父の指が、紙の縁で止まった。


 「……過去十年の勅令、すべてか」


 「すべて、ではございません。砕けすぎていたものだけ。年に二百通ほどでしょうか」


 父は長い間、何も言わなかった。

 暖炉の薪が爆ぜる音だけが、応接間に落ちた。

 やがて、父は短く頷いた。

 「行きなさい」とだけ言った。


 婚約破棄の正式な手続きは、その夜のうちに父の名で進められた。

 王の裁可は三日後に降り、男系の同意も整った。

 形式の上では、何の瑕疵もない破棄だった。


 その夜、エリーゼは自分の机から、十五年分の引き継ぎ書をまとめた。

 全冊を十稿目の即位演説草稿に挟んで、王宮の第三書斎の机に置いてくるつもりだった。


 誰かが十五年の余韻をたどってくれるなら、そこから始められる。

 たどってくれなくとも、それはそれで構わない。


 帳面の表紙を撫でた指先に、まだ小さな痛みが残っていた。爪を立てた跡だった。

 その痛みを確かめてから、彼女はゆっくりと呼吸を整えた。

 わたくしの仕事は、もう、わたくしの中で完結している。




 国境の駅に、ヴィルヘルムが迎えに来ていた。


 黒髪、灰がかった青の瞳。背の高い、痩せた男だった。

 文官服は地味な紺で、装飾は襟元の銀のピン一つだけ。

 彼はエリーゼを見ると、深く一礼して、それから——少しだけ目を細めた。


 「お会いするのは、初めてです」と、彼は言った。

 「ですが、貴女の手は、三年、私の手元におりました」


 彼の馬車は質素だった。

 車内に、書物が三冊だけ置いてあった。


 うち一冊は、アルテンベルク古典詩集。

 彼女が王宮で校閲のために何度も参照してきた版だった。

 もう一冊は、王国とアルテンベルクの外交書簡集。


 最後の一冊は、ぱっと見では分からなかった。

 表紙を開くと、彼が三年かけて綴じた、彼女の文書十一通の写しだった。


 「……これは」


 「私の、宝でございます」


 彼は静かに、それだけを言った。


 馬車が走り出してしばらくして、ヴィルヘルムは膝の上の写しを開いた。

 三年前の、最初の一通。

 彼の指が、結句の一語の上で止まった。


 「ここ、でございますね」と、彼は言った。

 「結句のあと、二音節分の余白を残しておられた。

  私は、その余白を、三晩、眺めました。

  四晩目に、ようやく気づいたのです。

  ここは、読み手の呼吸を入れる場所だ、と」


 エリーゼは、窓の外の雪を見ていた。

 返事の言葉を選びかねていた。


 十五年、その「呼吸の余白」を見抜いてくれた人は、いなかった。

 いまここに、いる。

 わたくしの仕事を、最後の一語の沈黙まで読んでくれた人が、いる。


 「……ありがとうございます」


 彼女は、小さく、それだけを返した。

 声が、ほんの少し揺れた。


 ヴィルヘルムは、それを聞いて、写しを静かに閉じた。

 残りの道中、彼は書物を一冊も開かなかった。

 ただ彼女の隣で、馬車の小窓から見える桃花木の蕾を数えていた。

 その蕾は、まだ硬く閉じていた。




 即位式の朝、王城の控え室。




 ヴァルターは、机に手をついたまま、しばらく動けなかった。

 手のひらの下、長机の木目が、いつもより冷たかった。

 彼は今年で五十二だった。

 五人の補佐官のうち、最年長。


 彼が読み書きを身につけたのは、十五年前の冬だった。

 第三書斎の隣の、給仕用の小部屋。

 そこの壁が、わずかに薄かった。


 扉越しに、若い令嬢の声がした。

 「これは『あ』でございますね。線が二本、横に流れます」

 「これは『い』。縦に二本、寄り添うのです」


 ヴァルターは、その声を毎日、半年、聞いた。

 補佐官の見習いだった彼は、本当は文字が読めなかった。

 誰にも言えなかった。

 貴族の家の三男坊として、それを認めるわけにはいかなかった。


 扉越しの声だけが、彼の独学の師だった。

 令嬢の声は王子に教えるためのものだったが、ヴァルターの耳にも、同じだけ届いた。


 彼が読み書きを覚えたのは、彼女が来てから半年後だった。

 彼はその事実を、二十年近く誰にも告げなかった。


 令嬢に直接、お礼の一言を申し上げる機会はあった。

 あったときに、彼は選ばなかった。

 「補佐官たる者が、令嬢に教えを乞うていたなど、口にできるものか」と思った。

 その小さな矜持が、いま、彼の手の下で白く震えていた。


 彼が、紙面の冒頭の文字を、指の先でなぞる。

 形は、見える。

 だが、その文字がいま何の言葉なのか、ヴァルターの中で像を結ばない。


 令嬢が去って三月。

 扉越しに覚えた文字は、扉の向こうの声が消えたあと、輪郭から崩れた。

 彼は、床に膝をついた。


 「殿下」


 彼は、新王を見上げた。


 「私は、もう、彼女に、もう一度教えてくれと、申し上げる、資格を、失いました」




 末姫アンナが、控え室の隅で、姉のように振る舞っていた女官の手を強く握った。

 彼女は十二歳だった。

 草稿の冒頭を覗き込んでいた。


 「お兄様、これは『朕』という字よね?」


 兄フリードリヒは、十八歳だった。

 彼は、妹の問いを聞いて、息を呑んだ。

 「……いや、ちがう」

 「ちがう?」

 「朕、ではない。何か、もっと、長い言葉だ。だけど、私には、思い出せない」


 フリードリヒは、自分の手を握り直した。

 手のひらは、汗で湿っていた。

 昨夜、彼は妹の入学願書を書いていた。


 王家の慣例で、末姫は十二歳で神学校に籍を置くことになっていた。

 形式的な、しかし王女の名で残る最初の書類だった。

 名前の欄で、彼の筆は止まった。

 「アンナ・ヴィオレッタ・グラーフェン」


 ヴィオレッタの『ッ』の筆順が、頭の中で像を結ばなかった。

 彼は何度か空に指で書こうとして、最後にその小さな促音を、不自然な角度で止めた。


 その夜、彼は自分の書斎で、ひとり、長い間、何もせずに座っていた。


 幼い頃、エリーゼが「ヴィオレッタの『ッ』は、走りすぎぬよう、少しだけ留めるのですよ」と教えてくれた。

 彼はその声を確かに覚えていた。

 覚えていたが、その声の通りに、いまの彼の指は、もう動かなかった。


 彼ら兄妹は、同じ部屋で、同じ机で、同じ筆順をエリーゼに教わってきた。

 フリードリヒは八歳から、アンナは六歳から。


 二人とも、令嬢のことを「先生」と呼んだ唯一の人間だった。

 ただし、その呼び名は王宮の他の誰の耳にも届いていなかった。

 兄妹だけの、内輪の呼び方だった。


 アンナの目に、涙が浮かんだ。

 彼女は震える声で、控え室の中央に立つ兄王太子に向かった。

 そして初めて公の場で、その呼び名を口にした。

 「お兄様、先生は、いま、どこにいらっしゃるの」


 控え室の十数名が、一斉に新王を見た。

 新王レオンハルトは——

 その「先生」が誰のことか、即座には思い当たらなかった。


 彼の頭の中で、いくつかの顔が浮かんでは消えた。

 家庭教師。神学の侍祭。剣術の指南役。

 その誰でもないことに気づくまでに、二呼吸あった。

 二呼吸目の終わりに、彼は漠然と——「ああ、エリーゼか」と思い当たった。


 思い当たった瞬間、彼の指は、無意識に枕の方角へ伸びていた。

 控え室には、もちろん枕はなかった。

 それでも彼の指は、夜ごとの感触を覚えていた。

 寝台脇の引き出しに何かを仕舞い、その日のぶんだけを枕の下へ滑り込ませる感触を。


 毎晩、寝る前に、彼は何かを枕の下に滑り込ませる癖があった。

 その「何か」が何だったのか、彼は今日まで考えたことがなかった。




 即位式は、十二日、延期された。


 その報せは、その日の昼までに王都中に広まった。

 市場の魚売りが手を止め、隣の青物売りに問うた。

 「王の即位が、延期になったのか」

 「ああ。何でも、新王がお言葉を読み上げられなかったそうだ」

 「読み上げられなかった、とは」

 「文字が、出てこなかったらしい」


 二人は顔を見合わせ、それから声を低くして黙った。

 王が自分の口で語れぬ国に、これから何が起きるのか。

 二人とも、はっきりした言葉ではそれを言わなかった。


 代読役を、グラーフェン王家は急ぎ王国中から募った。

 学識ある修道院長、神学校の校長、王立図書館の主席司書、東部の大商家の専属書記。

 十二名が王宮に呼ばれた。

 全員が、十稿目の演説草稿の冒頭一文を声に出した。


 しかし、誰一人として、「あの手」の文体を声に出して読めなかった。


 古典引用の節度。

 敬語の階梯。

 結句に置かれた一語の余白。


 その三点の織りは、十五年、ひとりの手で磨かれていた。

 他の誰の喉も、その織りを音にする訓練を受けていなかった。


 十二名のうち、最後に呼ばれた東部の書記が、頁を閉じてから、こう言った。

 「これは——朗読の文体ではございません。

  書き手と読み手の、二人で初めて完成する文体でございます。

  書き手が、読み手の呼吸を、知っていなければなりませぬ。

  知らぬ者が読めば、ただの紙の上の墨でございます」


 その書記は深く一礼して、王宮を辞した。

 彼は王宮の門を出るとき、もう一度振り返り、自分の足元の石畳を長く見つめた。


 ヴァルターは、その夜、王太子の私室で、王太子と二人だけになった。

 彼は王太子の寝台脇の引き出しの底から、十五年分の学習帳を引き出した。

 三十三冊あった。最後の一冊だけが、枕の下に滑り込ませてあった。

 全冊、頁の余白に、幼い王太子自身の字で走り書きが残っていた。


 〈きょうは、ありがとう〉

 〈むずかしい〉

 〈よめた〉

 〈エリーゼせんせい、ぼくは、おうじゃ、になれるかな〉


 幼い字は、頁を追うごとに、整っていった。

 最後の一冊は、十三歳の春の頁で終わっていた。

 その頁には、こうあった。

 〈ぼくは、もう、ひとりで、よめる〉


 その走り書きは、嘘だった。

 ひとりで読めるようになったのではない。

 隣に居る人の声を、もう聞かなくとも頭の中で再生できるようになっただけだった。


 声の主が隣に居続ける限り、それは「ひとりで読める」のと同じだった。

 声の主が居なくなった瞬間、頭の中の再生は止まった。

 文字が、ほどけて散った。


 レオンハルトは、最後の一冊を、両手で持っていた。

 手は、震えていなかった。

 もう、震える段階を、過ぎていた。


 「ヴァルター」


 「はい、殿下」


 「私は、教わったことを、教わったと、知らなかった」


 「左様にございます」


 「もう、戻ってきてくれとは、言えぬな」


 「言えませぬ」


 ヴァルターは、頭を深く下げた。

 そしてようやく、自分の二十年来の沈黙を、王の前で口にした。


 「殿下。私もまた、彼女の声で文字を覚えた、補佐官の一人でございます。

  扉越しに、半年。

  その事実を、私は今日まで、口にできませんでした。

  いま、彼女が去って三月、その文字は、私の頭の中でも、輪郭から崩れてまいりました。

  私たちは、彼女の隣に居続ける限りにおいて、文字を持っていたのです」


 その夜、レオンハルトは、初めて、自分の枕の下で泣いた。

 涙は、頬を伝う前に、十五年分の頁に落ちた。




 春の終わり、アルテンベルク公国、王立女子学院。


 凍った湖の氷が、最初に割れた朝だった。

 エリーゼは、自分の名を掲げた教室で、十二人の生徒を前に最初の授業をした。

 生徒の年齢は、六歳から十四歳までだった。

 商家の娘、騎士の娘、農村の村長の娘、そして雪解け前にひとりで国境を越えてきた孤児の少女。


 全員の机に、新しい紙と新しい羽根ペンが置かれていた。

 ペンは、エリーゼが自分の手で削った。

 削りすぎず、削らなさすぎず、子供の指で持てる程度に整えた。


 黒板に、白墨で、一文字を書いた。

 「あ」、と。

 線は二本。横に流れる。


 「これは『あ』でございます」と、彼女は言った。

 声は、十五年前、第三書斎で初めて七歳の少年に「あ」を教えた朝の声と、ほとんど同じだった。

 ただし、わずかに低く、深かった。


 生徒たちが、白墨の音を聞きながら、紙の上に自分の手で「あ」を書いた。

 ひとり、ひとり、書けた瞬間に顔を上げた。

 エリーゼは、その顔をひとりずつ見た。


 「読めるようになりましたね」


 彼女はそれを、十二回繰り返した。

 十二回目を言い終えたとき、孤児の少女が、もう一度「あ」を書いて掲げてみせた。

 声には出さなかった。

 ただ紙を両手で、エリーゼに向かって見せた。


 エリーゼは、その紙を見た。

 十五年ぶりに、自分の頬を温いものが流れるのを感じた。

 涙は、悲しみのものではなかった。

 悔しさのものでも、なかった。

 自分の名前で書かれた教室で、自分の名前で「先生」と呼ばれた。

 自分の声が、ようやくひとりの少女の手の中に辿り着いた——その安堵だった。


 彼女は、頬を拭わなかった。

 拭くと、生徒たちが心配する。

 心配されるのは、教師の側ではなかった。


 彼女はただ、もう一度、白墨で「い」を書いた。

 縦に二本、寄り添うように。

 「次は、これでございます」


 教室の向こう、図書館の扉の隙間から、ヴィルヘルムが覗いていた。

 目が合うと、彼は小さく頷いた。

 最近、彼女の隣で本を読む権利を、彼は手に入れていた。

 何を読むかは問わない。

 ただ頁をめくる音だけで充分だと、彼は言った。


 窓の外、湖の氷の割れる音が、ゆっくりと響いた。

 春が、来ていた。

 遅い、北の、本物の春だった。




 グラーフェン王城では、即位式の代読役が、いまだに見つからなかった。

 新王レオンハルトは、枕の下の学習帳を捨てることが出来なかった。

 それを開くたびに、自分が誰の隣に十五年座っていたのか、ようやく像が結ばれかけた。

 でも、もう、遅かった。


 即位式の延期は、十二日が二十日に、二十日がひと月に延びた。

 新たに招かれた朗読官は三度替わったが、誰も「あの手」の文体を音にできなかった。

 王宮の文書室では、勅令の草稿が積み上がるばかりで、夜半まで燭台の灯りが消えなかった。


 レオンハルト自身も、王の私室に一人籠もる時間が増えた。

 学習帳の余白に、彼は自分の字で何かを書こうとして、何度も羽根ペンを置いた。

 幼い頃に綴った「ありがとう」の一語を、いま改めて、彼は同じ筆順では書けなくなっていた。


 彼が、誰かに「先生」と呼ばれることは、二度と無かった。

 彼が、誰かを「先生」と呼ぶ機会も、もう無かった。

 その二つの「無い」が、彼の即位後の治世に、長く静かな空白をつくった。


 エリーゼは、振り返らなかった。

 湖の氷が割れる音と、子供たちが声に出して読み始める「あ」の音。

 それが、彼女の新しい一日の最初の音だった。


 胸の奥に、まだ十五年の余熱が、わずかに残っていた。

 その余熱を抱えたまま、彼女は黒板に向き直り、白墨をもう一度握り直した。

 彼女は、それだけで充分だった。

 充分すぎるほどに、世界は整っていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。




 「機能停止型」の王道ストーリーです。彼女がいなくなって、組織が止まる——というのはベタですが、だからこそ気持ちいい。本作はその「止まり方」を、教育という最も静かな仕事に乗せて書きました。




 教師という仕事は、不思議です。教えた行為は、教わった側の人生にしっかり残っているのに、「教わった」という事実そのものが、なぜか、教わった側の認識から脱落していく。「いつの間にか出来るようになっていた」と感じてしまう。それが、教師という仕事の最も静かで、最も致命的な構造です。




 レオンハルトが「お前の授業など子守りの替わりだった」と言うとき、彼は嘘をついているのではありません。彼にとって、本当に、それは「子守り」程度の記憶でしかないのです。だからこそ、彼女が去った瞬間、彼が教わった内容ごと、頭の中の再生装置が止まる。「習った覚えがない」と言える者は、もう一度教われる資格すら失っている——という痛さを、書きたかった。




 補佐官ヴァルターの「扉越しの独学」のくだりは、自分でも書いていて切なくなりました。十五年、礼の一言を選ばなかった人が、彼女が去って初めて、自分も同じ場所で文字を貰っていたと気づく。「もう、戻ってきてくれと言える資格は、私には無い」——この一言が、本作で一番好きな台詞かもしれません。




◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇




婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。




▼ 公開中


百作以上の捨てられ令嬢たちが、それぞれの方法で逆転を遂げています。

作者ページから、お好みの一作を選んでみてください。




毎日19時、新作更新中!


☆評価・ブクマ・感想をいただけると次作の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ここまで来ると婚約破棄うんぬんよりも良く国として成り立っているなと不思議に思えてしまう。 誰一人またもに字を知る者がいない国何てあるのかと、思わず突っ込みたくなる世界観の作品で面白かったです。
作者様の癖なのだとは思うのですが、西洋風の世界観なのに教える文字が日本語なのに違和感を覚えてしまいます。 今回の「あ」と「い」は明らかに日本語を教えていますよね。 他作品でも、量を「匁」と記載したり…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ