測定の日
一章
大抵の女子は、専門店などの店頭で、恥を忍んで胸のサイズを測ってもらった経験があるだろう。
──かくいう私、富山詩織もそうだ。
初めて測ってもらったのは高校二年生の春休み、十七歳の頃だったと思う。母に「そろそろちゃんとしたものを」と促され、駅ビルに入っている有名ブランドの下着専門店を訪れた。ピンク色の柔らかな照明に包まれた店内は、まるで大人の女性だけが入ることを許された秘密の場所のようで、私は入口で立ち尽くしてしまった。
「いらっしゃいませ」
三十代くらいの、化粧の濃い店員が近づいてきた。彼女の胸元は豊かで、白いブラウスの上からでもそのボリュームが分かった。私は無意識にそこから目を逸らし、足元のタイルを見つめた。
「あの、測定、お願いしたいんですけど……」
声が震えた。店員は慣れた様子で微笑み、私を試着室へと案内した。
薄いカーテン一枚隔てた向こうには、他の客の話し声が聞こえる。私は言われるがままに上半身の服を脱ぎ、メジャーを当てられるのを待った。冷たい空気が肌に触れ、鳥肌が立った。
小さい胸の私はAカップ、良くてもBカップやそこらだと思っていた。体育の授業で着替える時、周りの女子と比べて明らかに平坦な自分の胸を、私はいつも恥じていた。
だが、店員は測定を終えると、意外なことを言った。
「お客様、Dカップですね」
嘘だろう?
私は思わず自分の胸を見下ろした。そこにあるのは相変わらず、目立たない二つの膨らみだけだ。Dカップなんて、クラスで一番胸の大きい佐々木さんみたいな人のサイズじゃないのか。
「え、でも……」
「トップとアンダーの差でカップは決まりますから。お客様は華奢な体型なので、実はしっかりDカップなんですよ」
店員は自信たっぷりに、頑なにDだと言い張った。測定のプロがそう言うのだから、私の目の錯覚なのだろう。私も自分の胸はDなのだと、堂々と思えるようになった。
その店は全国展開している有名ブランドの下着店で、そこの店員が言うのだから間違いないと思った。むしろ、自分の身体のことを分かっていなかった自分が恥ずかしくなった。
その日は、店員が選んでくれた淡いピンクのレースがあしらわれたDサイズのブラジャーを購入して帰路に着いた。一万円近くもする、それまでの人生で一番高価な下着だった。
帰りの電車の中で、私は紙袋を抱きしめた。Dカップ。その言葉が頭の中で何度も反響した。私の胸は、Dカップ。そう思うと、少しだけ自信が湧いてきた。もしかしたら、私が思っているほど、私の身体は貧相じゃないのかもしれない。
二章
だが、数年後。大学を卒業し、社会人になった春のことだった。
都内の雑貨店で働き始めて三ヶ月が過ぎた頃、給料日のご褒美に新しい下着を買おうと思い立った。会社帰りに立ち寄ったのは、若い女性向けのカジュアルな下着店だった。高校生の時に行った店とは雰囲気が違う、もっとポップで明るい店だ。
色とりどりのブラジャーが壁一面に並んでいる。私は何気なく商品を見ていたが、種類が多すぎてどれを選べばいいか分からなくなった。
「何かお探しですか?」
二十代前半くらいの、ポニーテールの店員が声をかけてきた。彼女の隣には、同じくらいの年齢の別の店員がいた。二人とも私より少し年下に見える。
「あ、はい。ブラを探していて……」
「サイズはお分かりですか?」
「Dです」
私は迷わず答えた。高校生の時から、ずっとDカップのブラを着けてきた。少しゆったりしているような気もしたが、それは体型に合った正しいサイズだからなのだろうと思っていた。
ポニーテールの店員は、私の胸元をちらりと見た。そして、隣の店員と目を合わせた。
「えっと……」
店員は言いにくそうに口ごもった。私の心臓が嫌な予感で高鳴り始めた。
「いや、そんなには……ねぇ?」
ポニーテールの店員は、隣の店員に同意を求めた。
別の店員も私の胸を見て、小さく頷いた。
「うん……」
その瞬間、世界が止まった。
店内の明るい照明が、急に眩しく感じた。流れているポップな音楽が、耳障りな雑音に変わった。二人の店員の視線が、まるで針のように私の胸に突き刺さった。
ショックだった。
言葉が出なかった。何か反論しようとしたが、喉が詰まって声にならなかった。
「あ、いえ、測定されます? 正確なサイズをお測りしますけど……」
店員が慌てて付け加えたが、もう私には何も聞こえなかった。
泣きたい気持ちで、私はその店を後にした。その日は、何も買わなかった。
帰りの電車の中で、私は窓に映る自分の姿を見た。地味なベージュのブラウス。その下には、相変わらず平坦な胸。
そんなには……ねぇ?
あの言葉が、何度も何度も頭の中でリピートされた。
あの店員たちは、私の胸を見て笑っていたのだろうか。試着室の裏で、「あの客、Dって言ってたよ」「ありえないよね」と言い合っていたのだろうか。
アパートに帰り着くと、私は鏡の前で服を脱いだ。そこには、やはり小さな胸があった。高校生の時と何も変わっていない。いや、もしかしたらもっと小さくなったのかもしれない。
私は引き出しから、高校生の時に買ったDカップのブラジャーを取り出した。レースは少し色褪せていたが、まだ使える。これを着けると、確かにカップの中に隙間ができる。でも、それは正しいつけ方じゃないからだと思っていた。
それとも……最初から、全部嘘だったのだろうか。
三章
それから私はブラを買わなくなった。
ブラを買うことが怖くなった。
専門店に行くことも、店員に声をかけられることも、全てが恐怖だった。あの時の二人の店員の表情が、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
代わりに私が頼るようになったのは、駅前にある某チェーン店の服屋だった。そこには、カップ付きのキャミソールやタンクトップが、千円程度で売られている。測定も必要ない。店員に話しかけられることもない。ただ棚から取って、レジに持っていくだけ。
私はいつもSサイズを買った。
実はそれでもブカブカである。
カップの部分が浮いて、隙間ができる。でも、それでいい。誰にも見られない。誰にも笑われない。
SSサイズなんてものはない。Sが一番小さいサイズだ。それでも大きいということは、私の胸は規格外に小さいということだ。
きっと、最初の店員が測り間違えたのだ。
あの人は、私を励まそうとして嘘をついたのかもしれない。「あなたの胸は小さくないですよ」と言いたかったのかもしれない。でもその優しい嘘が、数年後に残酷な真実として私を傷つけた。
恐らく私の胸はAくらいだろう。いや、それ以下かもしれない。AAとか、AAAとか、そういう表記があるのかどうかも知らない。
もう一度、測ってもらう勇気が出ないまま、数年が過ぎた。もう、胸のことは考えたくなかった。
四章
だが、考えないようにすればするほど、意識は胸に向かった。
特に、友人の美咲と会う時は辛かった。
美咲は大学時代からの親友で、今も月に一度は食事に行く仲だ。彼女は背が高く、スタイルも良い。そして、豊満な胸を持っている。
カフェで向かい合って座ると、どうしても目がそこに行ってしまう。ニットの上からでも分かる、ふっくらとした膨らみ。彼女が笑うたびに、それが揺れる。
私が男だったら立派なセクハラである。
でも、目が離せない。羨ましさと、嫉妬と、そして諦めが入り混じった複雑な感情で、私は友人の胸を見てしまう。
どのくらいのサイズなのだろう。
そして私の本当の胸のサイズは何なのだろう。
考えまいとしていた思考が頭をもたげる。
もう胸のことを考えるのはやめようと誓ったのに。
あの日、店員二人に「そんなには……」と言われた記憶が蘇り、コンプレックスに苛まれるだけだ。胸が締め付けられるような、息苦しさを感じる。
「詩織、聞いてる?」
美咲の声で、私ははっと我に返った。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「疲れてる? 最近、残業多いんでしょ」
「うん、まあ……」
私は曖昧に笑った。本当のことは言えない。あなたの胸を見ていて、自分の惨めさに打ちのめされていました、なんて。
五章
こんな屈辱を、私のような人間はどうやって乗り越えてきたのだろう。
夜、布団の中で、私はよくそんなことを考えた。
知り合いで、私より胸の小さい人間がいないので分からない。
大学時代のサークルにも、会社にも、私より胸の小さい女性はいないように見えた。みんな、それなりに膨らみがある。それなりに、女性らしい体つきをしている。
もしいたとしても、こんな失礼な質問は間違ったってできやしない。
「ねえ、胸のサイズいくつ? 私、すごく小さくてコンプレックスなんだけど」
そんなこと、親しい友人にだって聞けない。聞かれたって話したくないだろう。デリカシーのない質問だ。
私くらいの胸のサイズの人間がもしいたとして──世界中探せばどこかにはいるはずだ──私のような屈辱的な経験をやはりしてきたのだろうか。
胸が小さいというだけで、私はどれだけの屈辱を味わってきただろう。
高校の体育の時間、更衣室で着替える時の周りの目。
温泉旅行で、脱衣所で裸になった時の気まずさ。
そして、あの下着店での出来事。
もう考えまい。考えまい。
自分が惨めになるだけだ。
泣きたくなるだけだ。
でも、涙は出なかった。ただ、胸の奥に重い石が沈んでいくような感覚があった。
六章
それなのに時々、考えてしまう。
会社で仕事をしている時も、電車に乗っている時も、スーパーで買い物をしている時も。
ふとした瞬間に、あの日、店員にクスクスと笑われた記憶が蘇る。
実際には笑われていないのかもしれない。でも、私の記憶の中では、二人の店員は確かに笑っていた。私の胸を見て、「Dですって」と目配せし合い、クスクスと笑っていた。
今でも私はブカブカのSサイズのカップ付きの下着を着ている。
もう、笑われたくない。
傷つきたくない。
測定してもらうのも恥ずかしい。
こんなに小さいのかと思われるのが恥ずかしい。あの店員たちに「やっぱりね」という顔をされるのが怖い。
七章
会社でも笑われた。
それは、入社して二年目の夏のことだった。
昼休み、給湯室でコーヒーを淹れていると、隣の部署の女性社員二人の会話が聞こえてきた。
「走ると揺れて痛いんだよね、本当に」
「分かる。私も朝、駅まで走った時とか、もう……」
「富山さんは、ねえ」
私の名前が出て、私は手を止めた。
「そんなことないだろうけどね」
クスクスとした笑い声と共に、そんな会話が聞こえてきた。
どうやら、私の胸が小さすぎて、走る度に揺れたり、重くて肩が凝ったりすることはないだろうという話をしている様子だった。
失礼である。
私はコーヒーカップを持ったまま、その場に立ち尽くした。反論しようかとも思った。でも、何と言えばいいのか分からなかった。
「あなたたちの会話、聞こえてますよ」とでも言うべきだろうか。でもそれは、自分が盗み聞きしていたことを認めることになる。
それに、彼女たちの言うことは事実だった。私の胸は走っても揺れない。重くて肩が凝ることもない。ブラジャーのサイズに悩むこともない。
私はそっと給湯室を出た。誰にも気づかれないように。
八章
きっと私はこの屈辱に一生耐えなければならない。
その夜、アパートの部屋で、私は鏡の前に立った。
逃れる術はない。
胸の大きさは、遺伝や体質で決まる。私にはどうすることもできない。
豊胸手術をする勇気もない。
お金もないし、そもそもメスを入れることが怖い。それに、手術をしたところで、本当の意味で自分を受け入れたことにはならない気がした。
私は、この身体と一生付き合っていかなければならない。
鏡の中の自分を見つめた。痩せた肩。平坦な胸。華奢な体つき。
これが、私だ。
九章
だが、私はむしろ最近、胸が小さくて良かった、と思い始めていた。
きっかけは、些細なことだった。
ある日曜日の朝、私はジョギングをしようと思い立った。運動不足解消のため、近所の公園を走ることにした。
カップ付きのスポーツブラを着て、Tシャツを羽織る。外に出ると、爽やかな風が頬を撫でた。
走り始めると、身体が軽かった。
そして気づいた。走る時に揺れたり、痛くなったりしない。重くて肩が凝るなんてこともない。邪魔にならない。
公園では、何人かの女性もジョギングをしていた。その中の一人、豊満な体型の女性が、胸を押さえるようにして走っていた。少し辛そうに見えた。
ああ、と私は思った。
胸が大きいということは、こういうことなのだ。確かに見栄えはいいかもしれない。羨ましがられるかもしれない。でも、不便なこともあるのだ。
ただ、サイズの合う下着がないことだけが悩みだ。
でも、それは解決できない問題じゃない。いつか、勇気を出して、もう一度測定してもらえばいい。本当のサイズを知って、ちゃんと合うものを探せばいい。
私は私の身体をようやく受け入れ始めていた。
終章
それから数ヶ月後の秋、私は意を決して、新しい下着店に入った。
今度は大手チェーンではなく、小さな個人経営の店だった。店主は五十代くらいの、優しそうな女性だった。
「測定、お願いできますか」
私は震える声で言った。
「もちろんです。どうぞこちらへ」
試着室で、店主は丁寧にメジャーを当ててくれた。
「Bカップですね。アンダーが細いから、華奢に見えるんでしょうけど、ちゃんと女性らしい身体つきですよ」
Bカップ。
DでもなくAでもなく、B。
「でも、前に別の店でDって言われて……」
私は正直に話した。店主は優しく微笑んだ。
「測り方や、お店の方針で、サイズの判断は変わることがあるんです。大事なのは、数字じゃなくて、ちゃんと身体に合っているかどうかですよ」
その日、私は初めて、本当に身体に合うブラジャーを買った。
帰り道、紙袋を抱きしめながら、私は思った。
私の身体は、私にはどうしようもなかったことだ。どうしようもないことで何か言われても、どうしようもない。
だから、もう誰から何を言われようとも、もう傷ついたりするものか。
私の尊厳は、私が守ってみせる。
空を見上げると、秋の高い空が広がっていた。風が心地よく頬を撫でた。
私は、少しだけ、自分のことが好きになれた気がした。
胸の大きさじゃない。数字じゃない。
大切なのは、この身体で生きている、私自身なのだから。
──完──




