2.非現実味
目を閉じるたび、決まって同じ夢をみる。
「やめて! やめて! 痛い!」
頭に張り付いて離れない、甲高い悲鳴。
幼くも、生きようともがく妹の叫び。
しかし、四歳にも満たない幼児が、親の拳に抗えるはずもなかった。
やがて声はか細くなり、途切れる。
「ああ……ああ……」
自分は横たわったまま、それをただ見ていた。
六歳にして、兄としても人間としても失格だと悟らざるを得なかった。
武器になりそうな酒瓶はいくらでも床に転がっていたのに。
せめてあの時、もっと力を振り絞っていたなら__。
「……バキ君?」
どこか遠くで、椅子の脚が床を擦る音がした。
「ツバキ君」
「え?!」
二度の呼びかけで、ツバキはようやく現実から引き戻された。
視界がやけに白い。蛍光灯の光が刺さって、周囲の雑音が急激にクリアになる。
「あ……」
手のひらにはじっとり汗が滲み、心臓は激しく脈打っていた。
声の主はニコレスだった。黒いスーツに青い髪。
俯いていたツバキの顔を、心配そうな目が覗き込んでいる。
「大丈夫か? 急にぼーっとして。あまり眠れなかったか?」
「すみません。ちょっと寝不足で」
「11時から依頼なんだぞ。メトリアでの一人暮らしは、まだ慣れていないか」
ここは都市メトリア西側にあるギルドのオフィス。
掛け時計は9時半を指し、朝の職場らしく、社員たちからは微かな眠気の空気が漂っている。
「いえ……」
ツバキだけは、その音も匂いも、どこか遠くのもののように感じていた。
「それは慣れてます……明日からは大丈夫になるんで、任せてください」
「そうか……依頼の内容は言えるか」
「あ、はい! また防衛隊からの依頼なんですよね。今日は運んだコンテナの仮設置。ですか。……昨日に続いて、なんか急な依頼が多くないですか?」
「昨日の話を聞いたのだろう……全く、人使いの荒い」
ニコレスは、デスクに置かれた会社のPCモニターへ目をやりながら、ため息を吐いた。
やがて出発の時間になると、大した装備もいらないため支度はすぐに済んだ。
ツバキがバッグの紐を整えていると、若い男性社員が通りかかり、笑顔で声をかけてきた。
「おはようツバキ君」
「あ、エルリオさん。おはようございます!」
笑顔で挨拶を交わしたのは、先輩社員のエルリオ・レイダ。
茶髪に、いわゆるチャラいという言葉が似合うかどうかはともかく、とにかく明るい雰囲気の先輩だ。よく話しかけてくれる。
「昨日の依頼すごかったらしいじゃねーか。やっぱ魔法がなくても問題なさそうだな!」
「ありがとうございます!」
「思い出すなぁ、ツバキの入社試験の時。ムキムキのすごいのがいるって盛り上がったもんだよ。特にニコレスはすごい顔してたんだぞ。運命の出会いかってぐらい」
突然話題がニコレスに飛び、後ろで支度をしていた彼女はびくりと肩を跳ねさせた。
「お、おい」
「そうなんですか?」
「いや……驚いたのは事実だが、誇張がすぎるな」
「なんだよー。あんたバカほど忙しいだろ? なのに一人で研修受け持ってるってのが、何よりの証拠なんじゃないの?」
ニコレスと同年代と思われるエルリオのからかいに、彼女の目はさらに怪訝さを増した。
「エルリオ……君は少しでも立場を思い出すんだな。行こうツバキ君」
「は、はい」
この会社の細かい人間関係は、ツバキにはまだ掴みきれていない。
ただ、ニコレスとエルリオが親しい間柄であること、そしてどこか気を張った距離感もあることだけは分かる。
ツバキが会釈してその場を離れる時、エルリオの困ったような笑顔には、どこか神妙な気配が滲んでいた。
このオフィスの一階にはギルドの受付がある。
郵便局や銀行を思わせるカウンターが並び、朝から様々な相談や依頼が持ち込まれていた。
「おはようございます!」
「あらツバキ君じゃない。おはよう。依頼?」
「はい。また防衛隊の方に」
「へぇ〜そうなんだ」
通りかかった女性に、ツバキは元気よく挨拶する。
自分の親世代くらいの年齢__という、かなり曖昧な覚え方しかできておらず、まだ顔と名前がはっきり一致しているわけではない。
「ツバキ君もニコちゃんも頑張ってね。あと、ニコちゃん。シフト出すの遅れてごめんね? うちの息子が高校に入ってバタついてて」
「急がなくて大丈夫ですよ。まだ時間はあります」
まだ新生活が始まって間もない時期だ。
環境の変化に振り回されているのは、ツバキも同じだった。
笑い声の残るオフィスビルを出ると、メトリアの街が朝の光を浴びていた。
ガラス張りの塔が空に並び、車の音が途切れなく重なり合う。ビルの谷間を縫う風が春らしい生暖かさを運んでいた。
「どうだ? この街にも慣れてきた頃かな」
「どうでしょうね……俺、ずっと夢の中にいるみたいなんです。こうして動いて喋って、匂いもあって……」
ぶつぶつと呟いていると、ニコレスがふと自分の袖に鼻を近づけて匂いを嗅いでいた。
「ニコレスさんじゃないですよ。ただ、ちゃんと生きてるはずなのに、やっぱ馴染みきれないというか」
口に出してしまうと余計に分からなくなってきた。
この世界を現実として受け入れていいのか。それとも、どこかが違う紛い物なのか。
「……馴染みきれない。か。心当たりはあるのか」
「それは、今は秘密です」
人差し指を口に当て、にこやかに答える。
ここが異世界であること。元いた世界と酷似した風景でも、体がどこか納得していないこと。
そんな考察を、誰かに話したことはない。
それでもいつか戻ることを考えたなら。いつかの別れを考えたなら。誰かにこの非現実的な体験を語らなければならないのだろう、とも思う。
「私にだけ教えてくれたりは」
「もう着きますよ」
そんな会話を交わしているうちに、依頼先が見えてきた。
歩道の先に、防衛隊メトリア基地の外壁が立ちはだかっている。
軍事施設らしい無骨で毅然とした佇まい。
街の周囲をぐるりと囲う壁と相まって、都市部の賑やかさの中で、そこだけがぽっかりと浮き上がって見えた。
「どうも。ギルドから依頼を受けてやってき……あ」
通用ゲートの前には警備を担当する隊員が二人。
その脇で、仕事待ちなのか、少し手持ち無沙汰そうに立っている隊員が一人。
その顔には、覚えがあった。
「昨日ぶりじゃないですか。おはようございます」
「おうにいちゃん。また会ったね」
気さくなハンドサインを返してきたのは、昨日の現場でコンテナ車両の運転をしていた隊員だった。
「ニコレスさんも悪いねまた急で。世話になるよ」
「通常、遅くとも一週間前には連絡すべき依頼ですよ。いくら彼が優秀だからといって、酷使しないようにお願いします」
ニコレスはため息交じりに釘を刺す。
その横顔に、ツバキは小さく笑みを浮かべた。
「まあいいじゃないですか。来月には一人で動けますし、これくらい余裕ですよ」
「それはそうかもしれないがな……」
ニコレスはなお心配そうな目を向けてくる。
隊員はそんな二人を見て、苦笑しながら敷地内へと案内を始めた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
私たちの知っている世界とはどこか違う、不思議な感覚になるような世界観です。
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