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閑話:下水迷宮のニュービィ(後編)

※このお話は「閑話:下水迷宮のニュービィ(前編)」の続きです。

 まだ前編をお読みでない方は、そちらからどうぞ。


 セレノス地下の下水道で、「迷子の仔犬」クエストに挑むコウイチたち。

 暴走気味な少女メリアに振り回されつつも、ジャイアントラットやキューブ・スライムを倒し、仔犬チロの救出に成功する。

 探索を続けるうちに、古びた子ども靴や遺品らしき品々を見つけた一行は、やがて――巨大な卵が置かれた、ひんやりとした空洞へとたどり着く。


 そして、静まり返ったその空間に――ぽちゃん、と水音が響いた。


* * *


「……何かいる! 急いで戻ろう!」

 コウイチが低い声で告げ、剣を構える。


「でも、生まれたばかりならチャンスじゃねーか?」

 アルゴが拳を握りしめたまま、脳筋じみたことを言う。


「そうだな、焼鳥にしちまおうぜ」

 ヤオキが口の端を吊り上げる。


 その軽口に、張りつめていた空気がほんの少しだけ緩んだ。


「鳥とは限らないわよ。それこそ蛇とか……」

 フレイアがぼそりと言いかけた、そのとき――


 彼らの背後で、小さな鳴き声が響いた。


 ――ピィィ……ピョ……。


 甲高いような、頼りないような、不思議な声。

 六人はゆっくりと背後を振り向いた。


 そこにいたのは――黄色い羽毛に包まれた、巨大なヒヨコだった。


 ふわふわの羽毛は、ところどころまだ濡れて固まっている。

 だがその背中からは、蝙蝠のような黒い翼が二枚伸び、ひゅう、と一度羽ばたくだけで宙にふわりと浮かび上がった。

 腰のあたりからは、鱗のきらめく小さなしっぽが生えていて、左右にちろちろと揺れてバランスを取っている。


「うわー、可愛い!」

 チコリが思わず一歩、前に出た。手が自然と伸びる。


「待て! チコリ、そいつは――」

 コウイチが咄嗟に制止の声を上げるが、遅かった。


 ヒヨコ――いや、その怪物の雛は、つぶらな黒い瞳でチコリをじっと見つめた。

 ぱちり、と一度まばたきをする。


「えっ!? なにこれ、動けない!?」

 チコリがその場で固まった。

 足元から冷たい違和感が駆け上がっていく。


 見ると、チコリの脚は膝のあたりまで、鈍い石の色に変わっていた。

 足首から太ももへ、石の模様がじわじわと広がっていく。


「みんな! 目を合わせるな、そいつは――コカトリスの雛だ!」

 コウイチが叫ぶ。


「コカトリスっていうより、ピヨトリスって感じなのに……一丁前に石化攻撃が使えるのかよ」

 ヤオキが苦笑しながら短剣を構えた、その瞬間。


 ひゅ、と視線が交差した。

 ピヨトリスが首をかしげ、黒い瞳がヤオキを見上げる。


「っと、やべ――」


 肩から先が、一気に重くなる。

 ヤオキの右腕が、肘のあたりから石のように変色していた。


「うおっ、マジかよ! 腕まで石に……!」


「フレイア、グループ・ゲートを頼む!」

 コウイチが振り返って叫ぶ。


 だが――


「…………」


 そこには、杖を構えた姿勢のまま、全身を石に変えられたフレイアが立っていた。

 口を半開きにしたまま、まるで時間を止められたように。


「うそだろ……もうやられてたのかよ……!」


「どうしよう? コウイチさん」

 ユウタが弓を構えたまま問いかける。

 視線は足もとから動かさないよう、必死にピヨトリスの位置だけを気配で探っていた。


「チコリは、ゲート行けそうか?」


「やってみる!」

 チコリは石化した脚を気にしながらも、上半身だけで杖を構えた。

 まだ、手と口は動く。


「グループゲート:ノース!」


 青い光柱がチコリの周囲に立ち上がる。

 ――が。


 プシュウゥゥ……と情けない音を立てて、光は途中でしぼんだ。


「ううっ、足が地面にくっついてるとダメみたい……」

 チコリが悔しそうに眉を寄せる。


「こうなったら、こいつを片付けようぜ!」

 アルゴが一歩前に出て、拳を構えた。

「ピヨピヨ言ってるヒヨコなんざ、さっさとノックアウトだ!」


 ピィィィー!


 ピヨトリスがびくっと身体を震わせ――あわてたように、黒い翼をばさばさと羽ばたかせる。

 ふわりと天井近くまで飛び上がった。


「ずり〜、届かねえ!」

 アルゴの拳は空を切る。


「僕が!」

 ユウタが身を沈め、弓に矢をつがえる。

 視線は敢えて外し、耳と勘だけで位置を測る。


「……そこ!」


 放たれた矢は、ピヨトリスのすぐ横をかすめ、岩壁に突き刺さった。

 怪物の雛は、ひよひよと情けない声を上げながら、天井近くをくるくると円を描く。


「くっ……高すぎて当たらない……!」


 額に汗がにじむ。

 そのとき、ユウタの手がぴくりと震えた。


「……あれ?」


 右手の指先から、じわじわと冷たい感触が這い上がってくる。

 さっき、矢を狙い直すときに、ほんの一瞬だけ視線が上がってしまったのだ。


「見ないで攻撃なんて、無理だよ……」

 ユウタが青ざめた声でつぶやく。

 右腕の肘あたりまでが、石の色に染まりつつあった。


「くっ、一体どうしたら……」

 コウイチが歯噛みする。


 動けないチコリと、石像と化したフレイア。

 半ば石になったヤオキとユウタ。

 ここで逃げることはできても、彼女たちを置いていくわけにはいかない。


 そんな彼らをよそに、ピヨトリスは天井近くをふよふよと飛び回っていた。

 黄色い羽毛をふくらませて、楽しそうに空をくるくると回る。

 そのたびに、黒い瞳がきょとんとこちらを見下ろす。

 ――まるで、遊び相手を探しているように。


* * *


 アルゴが舌打ちして、足もとの石をひとつ拾い上げた。


「くそ……こうなったら、投げてでも……!」


「待ってアルゴ、あんまり近寄らない方が――」


 ユウタの制止より早く、アルゴは肩をひねって石を投げつけた。

 石はうなりを上げて飛び、ピヨトリスめがけて一直線。


 だが。


 ピヨトリスは、ひょい、と首をかしげるように身をずらし、石は空しく通り過ぎて岩壁に当たった。


「チッ、外した――」


 そのままアルゴは反射的に、相手の位置を確かめようと顔を上げてしまった。


 つぶらな黒い瞳が、真っ直ぐ彼を見つめていた。


「うおっ――!」


 慌てて視線をそらすアルゴ。

 しかし、石を握っていた右手が、じわり、と灰色に変色していく。


「な、なんだこれ……!」


 手首、肘、肩へと、石の色が一気に駆け上がった。

 その勢いのまま胸元、腹部、脚へと広がって――


 ガキン、と乾いた音を立てて、アルゴはその場で完全に固まった。


「おいおい……なんか、強力になってきてねーか?」

 ヤオキが、誰にともなくぼそりと漏らす。


「自分の能力に慣れてきてるのかも……」

 ユウタが震える声で言った。


 その瞬間、ピヨトリスが小さく一声鳴く。


 ピィ――!


 黄色い身体がきゅっと縮んだかと思うと、黒い翼が大きく広がった。

 次の瞬間、弾丸のように急降下してくる。


「うわあっ!」


 ユウタに向かってまっすぐ突っ込んでくるのを見て、コウイチがとっさに身を滑り込ませた。

 盾を突き出し、その衝撃を受け止める。


 ガンッ!


 鈍い音とともに、盾ごとコウイチの腕に重みが乗る。

 ピヨトリスは弾かれてまた上空へ跳ね上がったが――


「……っ!」


 コウイチの表情が強張る。

 目線は合わせていない。それでも、盾を持つ左腕が肘から先まで、石のように固まっていた。


「接触してもダメなのか……?」


 青ざめた声が、自然と漏れた。


 ピヨトリスは、そんなことなど気にした様子もなく、天井近くでくるりと旋回する。

 さっきまでぎこちなかった羽ばたきも、もうずいぶん滑らかだ。


 そして、再び――急降下。


「くっ――」


 今度はユウタの真正面だ。

 矢をつがえる余裕などない。ユウタは思わず目をぎゅっと閉じ、しゃがみ込んだ。


 そのとき――


 ワン! ワワン!


 犬の吠え声が、洞窟に鋭く響いた。


「チロ……?」


 ユウタがおそるおそる目を開ける。


 目の前で吠えていたのは、さっきの白い仔犬とは違う、見覚えのない小麦色の仔犬だった。

 小さな身体を目一杯ふくらませ、天井のピヨトリスに向かって歯をむき出している。


 そして、その横に――長い弓を携えた長身の女性がひとり、静かに立っていた。


「結さん……?」


 一瞬、尊敬する弓の名手の名が頭をよぎる。

 だが、目の前の女性はハーフエルフの結よりもずっと背が高く、大人びていた。


 ハンター用の皮装備に身を包んだ大人の女性。

 艶やかな黒い髪は腰のあたりまでありそうだが、弓射の邪魔にならないようにか、後ろで無造作にまとめられている。


 整った顔立ちだが、どことなくイタズラっぽい瞳がきらりと光っていた。


 女性は一歩、前に出ると、流れるような動きで弓を構えた。

 口元が小さく動く。何かをささやいているようだが、ここからは聞き取れない。


「ダメだ、ピヨトリスを見たら石化しちゃいます!」

 ユウタが慌てて制止する。


 だが、その女性は聞こえていないように、静かに弦を引き絞った。

 湿った空洞に、わずかな風のざわめきだけが残る。

 呼吸すら忘れるほどの沈黙――


 ヒュッ。


 矢が放たれた。

 真っ直ぐにピヨトリスの胴をかすめて飛び抜け、

 続く二の矢が黒い羽根を貫き、

 三の矢がその軌道をなぞるように突き刺さった。


 弦音の余韻が岩壁を震わせる中、ユウタは息を呑んだ。

 ――あの距離で、あの精度。


 信じられない。


 そしてふと気づく。

 彼女の瞼は、静かに閉じられていた。


「まさか……目を閉じたまま……?」


 彼女は微動だにせず、弓を下ろす。

 その髪を揺らす風だけが、ほんの一瞬、彼女が確かにこの場にいるのだと伝えていた。


 ピヨトリスがバランスを崩し、羽ばたきが乱れる。

 ふらり――と揺れて、そのまま落下してきた。


「すごい、見えてないはずなのに……」

 ユウタが驚愕しつつも、コウイチに向けて叫ぶ。

「コウイチさん、トドメを!」


 コウイチはうなずき、石化しかけた腕をかばいながら剣を構え、前へ出ようとした――そのとき。


「待って」


 澄んだ声が飛んだ。


「この子、ピヨトリスっていうの?」


 長身の女性が、振り向きざまにユウタを見た。

 不意に名前を確認され、ユウタは一瞬言葉に詰まる。


「い、いや、その……僕らが勝手に呼んでるだけで、正式な名前ではないです」

 答えたのは、なぜかコウイチだった。

 自分でもなぜ口が動いたのかわからず、若干ドギマギしながら。


「そう」


 女性は小さくうなずくと、落ちたピヨトリスのもとへ歩み寄る。

 小麦色の仔犬が、その後をちょこちょことついていった。


 ぐったりとした黄色い雛の横にしゃがみ込み、女性はそっとその頭を撫でる。

「ごめんね、もうこわくないよ……」

 そして、耳元に何かをささやいた。


 ふ、とあたりが明るくなる。


 黄金の光がピヨトリスの身体を包み込んだ。

 まるでレベルアップエフェクトのように、柔らかな光の粒があふれ出す。


 次の瞬間、その頭上に――ネームタグがふわっと浮かび上がった。


『ピヨトリス』


 その文字は、親密度良好を示す、柔らかな緑色で記されていた。


 よく見ると、矢で射抜かれたはずの羽根の傷も、すっかり消えていて、翼そのものも、さっきよりひとまわり大きく広がっているように見える。

 頭には赤く雄々しいトサカが立ち、首筋から胸にかけての羽毛がオーロラのように揺らめいていた。

 傷ついていた尾も金属質のウロコに覆われて、七色の光を放ちながら、ゆったりと揺れている。


 コウイチは、思わず息を呑む。

 さっきまでただの幼体モンスターだった存在が――成長しただけでなく、質の違う“なにか”に変わったような感覚。


 存在そのもののレベルが、一段階引き上げられたような……そんな印象があった。


「……すげぇ」


 ヤオキが、半ば石の腕を気にしながら小さく漏らす。


 女性はもう一度、ピヨトリスの首筋をやさしく撫で、ささやきかける。

 「えへへ、君はこれから『ピヨトリス』だよ」


 ピヨトリスは、気持ちよさそうに目を細めた。


 コオォォ、コッコッ……。


 低く甘えるような鳴き声が響く。

 やがて、黒い翼を広げると、その場でふわりと浮き上がった。


 くるり、と一度、輪を描いて旋回する。

 その尾から――金色の粒子が、ぱらぱらと降り注いだ。


「……あっ!」


 ユウタが思わず声を上げる。

 固まっていた右腕が、じんわりと温かくなり、石の色が肌の色へと戻っていく。


「石化が……解けてる!?」


 指をグー、パー、と動かしてみる。ちゃんと曲がる。


「ほんとだ……!」

 チコリも、慎重に足を動かしてみる。硬かった感覚が消え、膝が曲がる。


 ヤオキの石化した腕にも、ひび割れのように光が走り――ぱらぱらと石の皮が剥がれ落ち、中から元の腕が現れた。


 フレイアの石像にも、細かな亀裂が走る。

 ぱきん、と音がして、やがて全身を包んでいた石の殻が崩れ落ちた。


「……っぷはぁ! な、なに……どうなったの、わたし……?」


 フレイアが大きく息を吸い込み、きょろきょろと辺りを見回す。


 アルゴの身体を覆っていた石も同じように砕け、彼はその場で豪快にあおむけに倒れた。


「いってぇ……! お、俺、生きてる?」


「大丈夫そうだな」

 コウイチが安堵の息をつく。


 ピヨトリスはもう一度だけ旋回し、楽しそうにひと鳴きすると――

 天井の空隙へ向かって、どこかへ飛び去っていった。


 しばらく、誰も言葉を発せなかった。


 コウイチは、はっと我に返ると、あわててさっきの女性に向き直る。


「あの、助けてくだ――」


 礼を言いかけたが、言葉が途切れた。


 そこにはもう、誰の姿もなかった。

 小麦色の仔犬も、長身のハンターも、煙ひとつ残さず消えている。


「……誰だったんだろう?」


 コウイチがぽつりとつぶやく。


 セレノスで見かけたことのない顔だ。

 ひょっとして、新しいNPCか、とも一瞬思う。だが――


「あれ、どう見ても……プレイヤーの動きだったよな」

 ヤオキが腕をさすりながら言う。


「でも、今の魔法……」

 ユウタは、さっきの黄金の光とネームタグを思い出しながら首をかしげた。

「見たことない。あんな効果、聞いたこともないよ」


「存在のレベルを上げる魔法……?」

 コウイチが、半ば冗談のように、半ば本気で呟く。

「まさか、な……」


 空っぽになった洞窟に、彼の声だけが静かに響いた。


* * *


 ――時間は少し前。


 コウイチたちが、下水道の大掃除を終え、湿った通路の奥でひと息ついていた頃のこと。


 セレノス冒険者ギルドの木製扉がきいと開き、小さな影が差し込んだ。


「こんにちは〜!」


 明るい声とともに入ってきたのは、茶色い革装備に身を包んだ少女――ナツキ。

 軽装ながら手入れの行き届いたブーツ、背には渋澤弓具店謹製の弓具セット。

 その足もとには、小麦色の仔犬・コムギがちょこちょことついて歩いている。


 ギルドのざわめきが、ほんの少し柔らかくなる。

 顔なじみの冒険者たちが、次々に声をかけてきた。


「おっ、ナツキちゃんじゃねぇか!」

「今日も元気そうだな!」

「ほら、これお兄ちゃんの非常食。食べていいぞ」


 木のテーブルの向こうから、甲羅を背負った亀の獣人がにこにこと袋菓子を差し出す。


「わーありがとう、亀のおじさん!」

「……お、おう。気ぃつけて行けよー」


 照れくさそうに笑う亀の獣人。

 そのやり取りを見て、まわりの冒険者たちも思わず笑顔になった。

 このギルドでは、ナツキは“元気で放っておけない妹分”のような存在だった。

 危ない依頼には出さないように気を配りつつも、

 お使いや小さな探索クエストを好んで請け負う健気な姿を、皆どこか微笑ましく見ている。


 ナツキは、菓子をコムギに半分分けてやりながら、掲示板の前で背伸びをする。

 木の板には、依頼書がぎっしりと貼られていた。


「あ、また迷子のワンちゃん探しがある!」


 ぱっと顔を輝かせて、依頼書をぺりっと剥がす。

 受付カウンターに駆け寄り、椅子の上にぴょんと立って差し出した。


「これ、受けまーす!」


 受付のお姉さんは、柔らかく微笑みながら申し訳なさそうに首を横に振った。

「ごめんねナツキちゃん。こちら、さっき別のパーティさんが受けたところなの」


「そっか〜、ざんねん。じゃあこっちの『お靴さがし』にするー!」


 ナツキはすぐに切り替えて、別の依頼書を指さす。

 お姉さんが笑って承認印を押すと、ナツキは「ありがと!」と手を振って二階へ向かった。


* * *


 二階の廊下は昼どきで人影もまばら。

 ナツキは周囲を見回し、誰もいないのを確かめると、静かに足を止めた。


 カバンから取り出したのは――赤い宝石のついた小さなステッキ。

 プレゼントされたばかりの、特別な魔法の杖だ。


 鑑定で効果は知っている。


 鑑定スキルを上げるのは困難だが、納品クエストを毎日のようにこなしていると、自然に適性レベルの未鑑定アイテムを手にすることになる。

 普通のプレイヤーなら、納品アイテムなど右から左へ渡すだけなのだが、好奇心旺盛なナツキは毎回鑑定を行っており、今や高いレベルの品も鑑定可能だった。


 けれど、実際に自分の身体がどう変わるのかは、まだ試したことがない。

 胸がどきどきと高鳴る。


 ナツキは両手でステッキを握り、そっと振った。

 宝石がきらりと光を放ち――


 ぱあっ、と光がナツキを包み込む。


「わー! すごい!」


 次の瞬間、そこに立っていたのは、背の高い長髪の女性。

 黒い髪は艶やかに流れ、手足はすらりと伸び、瞳は少しだけ涼やかで大人びている。


 ナツキ――いや、“大人になったナツキ”は、両手を見つめて小さく歓声を上げた。


「すごい! 本当に大きくなってる! わぁ……目線が高い……!」


 軽く手足を動かしてみる。関節が滑らかに動く。

 廊下の床板がきゅっと鳴るたび、心が弾んだ。


「これ……すごく動きやすい! 大弓も引けそう……!」


 ふと、階下にある大きな鏡を思い出す。

 踊り場に設置された全身鏡――いつも、仲間の冒険者が装備の確認に使っているものだ。


「見にいこ!」


 ナツキは嬉しそうに階段を下りた。

 踊り場に立つと、そこには大きな鏡があり、陽光が反射してきらりと光っていた。


「わー……これ、わたし? ママみた〜い!」


 頬をぺちぺち叩いてみたり、口角を上げてにっこり笑ってみたり。

 鏡の中の自分が動くたびに、どこか信じられない気分だった。


 足もとでコムギがくんくんと鼻を鳴らし、不思議そうに見上げている。


「どうしたの、コムギ? ……へへ、大丈夫だよ、ナツだよ!」


 しゃがみこんで抱き上げようとしたその時、コムギの耳がぴくりと動いた。

 次の瞬間――


「ワン!」


 短く吠えると、くるりと方向を変え、階段を駆け下りていく。


「え? ちょ、待って! コムギー!」


 慌てて追いかけるナツキ。

 ギルドのホールに飛び出した瞬間――


「うお、すげぇ美女!」

「今の誰だ!? 見たことねぇぞ!」

「こないだの移住組のハイエルフじゃないか?」

「いや、耳は普通だったぞ!」


 ざわつく冒険者たち。

 そのど真ん中を、ナツキは気づかぬまま駆け抜けていった。


 外の通りを、コムギが全速力で走る。

 振り返りながら、まるで何かを確かめるように耳を傾けていた。


「なになに? 何か聞こえてるの?」


 ナツキも自然と笑顔になる。

 長い足が、地面を蹴るたび軽やかに前へ進む。

 風が頬を撫で、視界の全てが新鮮だった。


「走るのって、こんなに楽しかったっけ……!」


 コムギと一緒に、街角を抜けて広場へ駆けていく。


「待って、コムギ!」


 ナツキが追いついた時、コムギは井戸の縁に前脚をかけ、下を覗き込んでいた。

 尾を振りながら、小さく吠える。


「……また、井戸?」


 ナツキは苦笑しつつ、腰まである髪を払いのけた。

 髪先が肩や顔にまとわりついて、井戸を覗くたび邪魔になる。


「うーん、これじゃ降りるときに引っかかっちゃうかも……」


 腰のポーチから革紐を取り出し、髪をざっくり後ろでまとめる。

 指先でねじりながら、低めの位置で結び留めた。

 それは、いつも出かける前にママがしていた結い方だった。


「うん、これで邪魔にならないね!」


 結び目を軽く叩いて確認すると、ナツキは井戸の縁に立った。

 ロープを手に取り、下を覗き込む。

 かすかに冷たい風が吹き上げてくる。


「よおし、コムギ――ナツの冒険、いくよ!」


 そう言って、彼女は井戸の中へ足を踏み入れた。


* * *


 夕暮れの『ルーイン・ゴート』のホール。

 暖炉の火が揺れ、コウイチたちが探索の報告をしていた。


「……全員、一度は石化されたのか」

 ケンタが腕を組む。

「はい。幼体とはいえ、ピヨトリスは目を合わせただけで石化しました」

 コウイチが静かに答える。


「石化か……危険だな。倒してもすぐポップするだろうから、立ち入りを禁じるくらいができるソリューションかなあ」

 ケンタが考え込む。


「それが、倒してもいないんです」

「……?」

「“謎の美女”が現れて、ピヨトリスを進化させてどこかに飛ばしてしまいました」

 コウイチの言葉に、ケンタが目を細める。

「謎の美女? 進化? なんだそりゃ」


 そのとき、ホールを小さな影が横切った。

 ナツキと、小麦色の仔犬コムギだ。


「ケンタおにーちゃん、ただいまー!」

「おかえり。今日もクエストか?」

「うん、“お靴探し”と“はぐれスライム退治”!」


 ナツキが駆け抜けて二階へ向かう。

 その背を見送りながら、ユウタが首をかしげた。

「あの仔犬……どこかで見たような?」


「どこかって、君たちクリスマスのとき、あの子にドギャーンとビビってたじゃない」

 結が笑い、ホールが和やかにざわめく。


 その中で、ユウタとコウイチだけが顔を見合わせた。

 ――ほんの一瞬、謎の美女の気配を感じながら。


* * *


 ルーイン・ゴートの二階、子どもたちの部屋。

 窓から差し込む柔らかな光が、床に置かれた将棋盤を照らしている。


 アキラとハルトは盤を挟んで向かい合い、真剣な表情だ。

「もー! お兄ちゃんたち、もう晩ごはんの時間だよ! いいかげんにしなさい!」

 ナツキが腰に手を当てて叱る。


 その剣幕にアキラとハルトが顔を見合わせ、そろって小さくつぶやいた。

「ナツキ、ちょっと怖い……」

「ママみた〜い!」


 思わずナツキが吹き出す。

「もぉ〜、ママじゃないってば!」


 コムギが跳ね回り、兄妹のまわりをくるくる回る。

 その姿につられて、三人とも笑い出した。

 明るい笑い声が、『ルーイン・ゴート』の二階にいつまでも響いていた。


(おわり)

――閑話:下水迷宮のニュービィ(後編)あとがき


 最後まで読んでくださって、ありがとうございます!

 次回の『マジチー』は本編を、来週の火曜日のお昼頃に投稿予定だそうです。

 いよいよ、叙事詩クエストのひとつが動き出すみたいですよ。

 続きも読んでもらえたら、すごく嬉しいです。


 もし少しでも「面白かったな」って思ってくれたら、

 ブクマとかポイントとか……ぽちっと応援してもらえると励みになります!


 いや……ほんと、今回はいろんな意味ですごかったよ。

 あの人――黒髪の弓使い。

 矢を放つとき、目を閉じてたんだ。

 それなのに、あんなに正確で、静かで……。

 まるで、風の音と一緒に弓を引いてるみたいだった。


 僕も、いつかあんなふうに弓を引けるようになりたい。

 ただ当てるだけじゃなくて、心をまっすぐにして放てるように。


 またどこかで会えるといいな。

 そのとき、胸を張って言えるように――

 「僕も、弓使いです」って。


――ユウタ

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