閑話:下水迷宮のニュービィ(後編)
※このお話は「閑話:下水迷宮のニュービィ(前編)」の続きです。
まだ前編をお読みでない方は、そちらからどうぞ。
セレノス地下の下水道で、「迷子の仔犬」クエストに挑むコウイチたち。
暴走気味な少女メリアに振り回されつつも、ジャイアントラットやキューブ・スライムを倒し、仔犬チロの救出に成功する。
探索を続けるうちに、古びた子ども靴や遺品らしき品々を見つけた一行は、やがて――巨大な卵が置かれた、ひんやりとした空洞へとたどり着く。
そして、静まり返ったその空間に――ぽちゃん、と水音が響いた。
* * *
「……何かいる! 急いで戻ろう!」
コウイチが低い声で告げ、剣を構える。
「でも、生まれたばかりならチャンスじゃねーか?」
アルゴが拳を握りしめたまま、脳筋じみたことを言う。
「そうだな、焼鳥にしちまおうぜ」
ヤオキが口の端を吊り上げる。
その軽口に、張りつめていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
「鳥とは限らないわよ。それこそ蛇とか……」
フレイアがぼそりと言いかけた、そのとき――
彼らの背後で、小さな鳴き声が響いた。
――ピィィ……ピョ……。
甲高いような、頼りないような、不思議な声。
六人はゆっくりと背後を振り向いた。
そこにいたのは――黄色い羽毛に包まれた、巨大なヒヨコだった。
ふわふわの羽毛は、ところどころまだ濡れて固まっている。
だがその背中からは、蝙蝠のような黒い翼が二枚伸び、ひゅう、と一度羽ばたくだけで宙にふわりと浮かび上がった。
腰のあたりからは、鱗のきらめく小さなしっぽが生えていて、左右にちろちろと揺れてバランスを取っている。
「うわー、可愛い!」
チコリが思わず一歩、前に出た。手が自然と伸びる。
「待て! チコリ、そいつは――」
コウイチが咄嗟に制止の声を上げるが、遅かった。
ヒヨコ――いや、その怪物の雛は、つぶらな黒い瞳でチコリをじっと見つめた。
ぱちり、と一度まばたきをする。
「えっ!? なにこれ、動けない!?」
チコリがその場で固まった。
足元から冷たい違和感が駆け上がっていく。
見ると、チコリの脚は膝のあたりまで、鈍い石の色に変わっていた。
足首から太ももへ、石の模様がじわじわと広がっていく。
「みんな! 目を合わせるな、そいつは――コカトリスの雛だ!」
コウイチが叫ぶ。
「コカトリスっていうより、ピヨトリスって感じなのに……一丁前に石化攻撃が使えるのかよ」
ヤオキが苦笑しながら短剣を構えた、その瞬間。
ひゅ、と視線が交差した。
ピヨトリスが首をかしげ、黒い瞳がヤオキを見上げる。
「っと、やべ――」
肩から先が、一気に重くなる。
ヤオキの右腕が、肘のあたりから石のように変色していた。
「うおっ、マジかよ! 腕まで石に……!」
「フレイア、グループ・ゲートを頼む!」
コウイチが振り返って叫ぶ。
だが――
「…………」
そこには、杖を構えた姿勢のまま、全身を石に変えられたフレイアが立っていた。
口を半開きにしたまま、まるで時間を止められたように。
「うそだろ……もうやられてたのかよ……!」
「どうしよう? コウイチさん」
ユウタが弓を構えたまま問いかける。
視線は足もとから動かさないよう、必死にピヨトリスの位置だけを気配で探っていた。
「チコリは、ゲート行けそうか?」
「やってみる!」
チコリは石化した脚を気にしながらも、上半身だけで杖を構えた。
まだ、手と口は動く。
「グループゲート:ノース!」
青い光柱がチコリの周囲に立ち上がる。
――が。
プシュウゥゥ……と情けない音を立てて、光は途中でしぼんだ。
「ううっ、足が地面にくっついてるとダメみたい……」
チコリが悔しそうに眉を寄せる。
「こうなったら、こいつを片付けようぜ!」
アルゴが一歩前に出て、拳を構えた。
「ピヨピヨ言ってるヒヨコなんざ、さっさとノックアウトだ!」
ピィィィー!
ピヨトリスがびくっと身体を震わせ――あわてたように、黒い翼をばさばさと羽ばたかせる。
ふわりと天井近くまで飛び上がった。
「ずり〜、届かねえ!」
アルゴの拳は空を切る。
「僕が!」
ユウタが身を沈め、弓に矢をつがえる。
視線は敢えて外し、耳と勘だけで位置を測る。
「……そこ!」
放たれた矢は、ピヨトリスのすぐ横をかすめ、岩壁に突き刺さった。
怪物の雛は、ひよひよと情けない声を上げながら、天井近くをくるくると円を描く。
「くっ……高すぎて当たらない……!」
額に汗がにじむ。
そのとき、ユウタの手がぴくりと震えた。
「……あれ?」
右手の指先から、じわじわと冷たい感触が這い上がってくる。
さっき、矢を狙い直すときに、ほんの一瞬だけ視線が上がってしまったのだ。
「見ないで攻撃なんて、無理だよ……」
ユウタが青ざめた声でつぶやく。
右腕の肘あたりまでが、石の色に染まりつつあった。
「くっ、一体どうしたら……」
コウイチが歯噛みする。
動けないチコリと、石像と化したフレイア。
半ば石になったヤオキとユウタ。
ここで逃げることはできても、彼女たちを置いていくわけにはいかない。
そんな彼らをよそに、ピヨトリスは天井近くをふよふよと飛び回っていた。
黄色い羽毛をふくらませて、楽しそうに空をくるくると回る。
そのたびに、黒い瞳がきょとんとこちらを見下ろす。
――まるで、遊び相手を探しているように。
* * *
アルゴが舌打ちして、足もとの石をひとつ拾い上げた。
「くそ……こうなったら、投げてでも……!」
「待ってアルゴ、あんまり近寄らない方が――」
ユウタの制止より早く、アルゴは肩をひねって石を投げつけた。
石はうなりを上げて飛び、ピヨトリスめがけて一直線。
だが。
ピヨトリスは、ひょい、と首をかしげるように身をずらし、石は空しく通り過ぎて岩壁に当たった。
「チッ、外した――」
そのままアルゴは反射的に、相手の位置を確かめようと顔を上げてしまった。
つぶらな黒い瞳が、真っ直ぐ彼を見つめていた。
「うおっ――!」
慌てて視線をそらすアルゴ。
しかし、石を握っていた右手が、じわり、と灰色に変色していく。
「な、なんだこれ……!」
手首、肘、肩へと、石の色が一気に駆け上がった。
その勢いのまま胸元、腹部、脚へと広がって――
ガキン、と乾いた音を立てて、アルゴはその場で完全に固まった。
「おいおい……なんか、強力になってきてねーか?」
ヤオキが、誰にともなくぼそりと漏らす。
「自分の能力に慣れてきてるのかも……」
ユウタが震える声で言った。
その瞬間、ピヨトリスが小さく一声鳴く。
ピィ――!
黄色い身体がきゅっと縮んだかと思うと、黒い翼が大きく広がった。
次の瞬間、弾丸のように急降下してくる。
「うわあっ!」
ユウタに向かってまっすぐ突っ込んでくるのを見て、コウイチがとっさに身を滑り込ませた。
盾を突き出し、その衝撃を受け止める。
ガンッ!
鈍い音とともに、盾ごとコウイチの腕に重みが乗る。
ピヨトリスは弾かれてまた上空へ跳ね上がったが――
「……っ!」
コウイチの表情が強張る。
目線は合わせていない。それでも、盾を持つ左腕が肘から先まで、石のように固まっていた。
「接触してもダメなのか……?」
青ざめた声が、自然と漏れた。
ピヨトリスは、そんなことなど気にした様子もなく、天井近くでくるりと旋回する。
さっきまでぎこちなかった羽ばたきも、もうずいぶん滑らかだ。
そして、再び――急降下。
「くっ――」
今度はユウタの真正面だ。
矢をつがえる余裕などない。ユウタは思わず目をぎゅっと閉じ、しゃがみ込んだ。
そのとき――
ワン! ワワン!
犬の吠え声が、洞窟に鋭く響いた。
「チロ……?」
ユウタがおそるおそる目を開ける。
目の前で吠えていたのは、さっきの白い仔犬とは違う、見覚えのない小麦色の仔犬だった。
小さな身体を目一杯ふくらませ、天井のピヨトリスに向かって歯をむき出している。
そして、その横に――長い弓を携えた長身の女性がひとり、静かに立っていた。
「結さん……?」
一瞬、尊敬する弓の名手の名が頭をよぎる。
だが、目の前の女性はハーフエルフの結よりもずっと背が高く、大人びていた。
ハンター用の皮装備に身を包んだ大人の女性。
艶やかな黒い髪は腰のあたりまでありそうだが、弓射の邪魔にならないようにか、後ろで無造作にまとめられている。
整った顔立ちだが、どことなくイタズラっぽい瞳がきらりと光っていた。
女性は一歩、前に出ると、流れるような動きで弓を構えた。
口元が小さく動く。何かをささやいているようだが、ここからは聞き取れない。
「ダメだ、ピヨトリスを見たら石化しちゃいます!」
ユウタが慌てて制止する。
だが、その女性は聞こえていないように、静かに弦を引き絞った。
湿った空洞に、わずかな風のざわめきだけが残る。
呼吸すら忘れるほどの沈黙――
ヒュッ。
矢が放たれた。
真っ直ぐにピヨトリスの胴をかすめて飛び抜け、
続く二の矢が黒い羽根を貫き、
三の矢がその軌道をなぞるように突き刺さった。
弦音の余韻が岩壁を震わせる中、ユウタは息を呑んだ。
――あの距離で、あの精度。
信じられない。
そしてふと気づく。
彼女の瞼は、静かに閉じられていた。
「まさか……目を閉じたまま……?」
彼女は微動だにせず、弓を下ろす。
その髪を揺らす風だけが、ほんの一瞬、彼女が確かにこの場にいるのだと伝えていた。
ピヨトリスがバランスを崩し、羽ばたきが乱れる。
ふらり――と揺れて、そのまま落下してきた。
「すごい、見えてないはずなのに……」
ユウタが驚愕しつつも、コウイチに向けて叫ぶ。
「コウイチさん、トドメを!」
コウイチはうなずき、石化しかけた腕をかばいながら剣を構え、前へ出ようとした――そのとき。
「待って」
澄んだ声が飛んだ。
「この子、ピヨトリスっていうの?」
長身の女性が、振り向きざまにユウタを見た。
不意に名前を確認され、ユウタは一瞬言葉に詰まる。
「い、いや、その……僕らが勝手に呼んでるだけで、正式な名前ではないです」
答えたのは、なぜかコウイチだった。
自分でもなぜ口が動いたのかわからず、若干ドギマギしながら。
「そう」
女性は小さくうなずくと、落ちたピヨトリスのもとへ歩み寄る。
小麦色の仔犬が、その後をちょこちょことついていった。
ぐったりとした黄色い雛の横にしゃがみ込み、女性はそっとその頭を撫でる。
「ごめんね、もうこわくないよ……」
そして、耳元に何かをささやいた。
ふ、とあたりが明るくなる。
黄金の光がピヨトリスの身体を包み込んだ。
まるでレベルアップエフェクトのように、柔らかな光の粒があふれ出す。
次の瞬間、その頭上に――ネームタグがふわっと浮かび上がった。
『ピヨトリス』
その文字は、親密度良好を示す、柔らかな緑色で記されていた。
よく見ると、矢で射抜かれたはずの羽根の傷も、すっかり消えていて、翼そのものも、さっきよりひとまわり大きく広がっているように見える。
頭には赤く雄々しいトサカが立ち、首筋から胸にかけての羽毛がオーロラのように揺らめいていた。
傷ついていた尾も金属質のウロコに覆われて、七色の光を放ちながら、ゆったりと揺れている。
コウイチは、思わず息を呑む。
さっきまでただの幼体モンスターだった存在が――成長しただけでなく、質の違う“なにか”に変わったような感覚。
存在そのもののレベルが、一段階引き上げられたような……そんな印象があった。
「……すげぇ」
ヤオキが、半ば石の腕を気にしながら小さく漏らす。
女性はもう一度、ピヨトリスの首筋をやさしく撫で、ささやきかける。
「えへへ、君はこれから『ピヨトリス』だよ」
ピヨトリスは、気持ちよさそうに目を細めた。
コオォォ、コッコッ……。
低く甘えるような鳴き声が響く。
やがて、黒い翼を広げると、その場でふわりと浮き上がった。
くるり、と一度、輪を描いて旋回する。
その尾から――金色の粒子が、ぱらぱらと降り注いだ。
「……あっ!」
ユウタが思わず声を上げる。
固まっていた右腕が、じんわりと温かくなり、石の色が肌の色へと戻っていく。
「石化が……解けてる!?」
指をグー、パー、と動かしてみる。ちゃんと曲がる。
「ほんとだ……!」
チコリも、慎重に足を動かしてみる。硬かった感覚が消え、膝が曲がる。
ヤオキの石化した腕にも、ひび割れのように光が走り――ぱらぱらと石の皮が剥がれ落ち、中から元の腕が現れた。
フレイアの石像にも、細かな亀裂が走る。
ぱきん、と音がして、やがて全身を包んでいた石の殻が崩れ落ちた。
「……っぷはぁ! な、なに……どうなったの、わたし……?」
フレイアが大きく息を吸い込み、きょろきょろと辺りを見回す。
アルゴの身体を覆っていた石も同じように砕け、彼はその場で豪快にあおむけに倒れた。
「いってぇ……! お、俺、生きてる?」
「大丈夫そうだな」
コウイチが安堵の息をつく。
ピヨトリスはもう一度だけ旋回し、楽しそうにひと鳴きすると――
天井の空隙へ向かって、どこかへ飛び去っていった。
しばらく、誰も言葉を発せなかった。
コウイチは、はっと我に返ると、あわててさっきの女性に向き直る。
「あの、助けてくだ――」
礼を言いかけたが、言葉が途切れた。
そこにはもう、誰の姿もなかった。
小麦色の仔犬も、長身のハンターも、煙ひとつ残さず消えている。
「……誰だったんだろう?」
コウイチがぽつりとつぶやく。
セレノスで見かけたことのない顔だ。
ひょっとして、新しいNPCか、とも一瞬思う。だが――
「あれ、どう見ても……プレイヤーの動きだったよな」
ヤオキが腕をさすりながら言う。
「でも、今の魔法……」
ユウタは、さっきの黄金の光とネームタグを思い出しながら首をかしげた。
「見たことない。あんな効果、聞いたこともないよ」
「存在のレベルを上げる魔法……?」
コウイチが、半ば冗談のように、半ば本気で呟く。
「まさか、な……」
空っぽになった洞窟に、彼の声だけが静かに響いた。
* * *
――時間は少し前。
コウイチたちが、下水道の大掃除を終え、湿った通路の奥でひと息ついていた頃のこと。
セレノス冒険者ギルドの木製扉がきいと開き、小さな影が差し込んだ。
「こんにちは〜!」
明るい声とともに入ってきたのは、茶色い革装備に身を包んだ少女――ナツキ。
軽装ながら手入れの行き届いたブーツ、背には渋澤弓具店謹製の弓具セット。
その足もとには、小麦色の仔犬・コムギがちょこちょことついて歩いている。
ギルドのざわめきが、ほんの少し柔らかくなる。
顔なじみの冒険者たちが、次々に声をかけてきた。
「おっ、ナツキちゃんじゃねぇか!」
「今日も元気そうだな!」
「ほら、これお兄ちゃんの非常食。食べていいぞ」
木のテーブルの向こうから、甲羅を背負った亀の獣人がにこにこと袋菓子を差し出す。
「わーありがとう、亀のおじさん!」
「……お、おう。気ぃつけて行けよー」
照れくさそうに笑う亀の獣人。
そのやり取りを見て、まわりの冒険者たちも思わず笑顔になった。
このギルドでは、ナツキは“元気で放っておけない妹分”のような存在だった。
危ない依頼には出さないように気を配りつつも、
お使いや小さな探索クエストを好んで請け負う健気な姿を、皆どこか微笑ましく見ている。
ナツキは、菓子をコムギに半分分けてやりながら、掲示板の前で背伸びをする。
木の板には、依頼書がぎっしりと貼られていた。
「あ、また迷子のワンちゃん探しがある!」
ぱっと顔を輝かせて、依頼書をぺりっと剥がす。
受付カウンターに駆け寄り、椅子の上にぴょんと立って差し出した。
「これ、受けまーす!」
受付のお姉さんは、柔らかく微笑みながら申し訳なさそうに首を横に振った。
「ごめんねナツキちゃん。こちら、さっき別のパーティさんが受けたところなの」
「そっか〜、ざんねん。じゃあこっちの『お靴さがし』にするー!」
ナツキはすぐに切り替えて、別の依頼書を指さす。
お姉さんが笑って承認印を押すと、ナツキは「ありがと!」と手を振って二階へ向かった。
* * *
二階の廊下は昼どきで人影もまばら。
ナツキは周囲を見回し、誰もいないのを確かめると、静かに足を止めた。
カバンから取り出したのは――赤い宝石のついた小さなステッキ。
プレゼントされたばかりの、特別な魔法の杖だ。
鑑定で効果は知っている。
鑑定スキルを上げるのは困難だが、納品クエストを毎日のようにこなしていると、自然に適性レベルの未鑑定アイテムを手にすることになる。
普通のプレイヤーなら、納品アイテムなど右から左へ渡すだけなのだが、好奇心旺盛なナツキは毎回鑑定を行っており、今や高いレベルの品も鑑定可能だった。
けれど、実際に自分の身体がどう変わるのかは、まだ試したことがない。
胸がどきどきと高鳴る。
ナツキは両手でステッキを握り、そっと振った。
宝石がきらりと光を放ち――
ぱあっ、と光がナツキを包み込む。
「わー! すごい!」
次の瞬間、そこに立っていたのは、背の高い長髪の女性。
黒い髪は艶やかに流れ、手足はすらりと伸び、瞳は少しだけ涼やかで大人びている。
ナツキ――いや、“大人になったナツキ”は、両手を見つめて小さく歓声を上げた。
「すごい! 本当に大きくなってる! わぁ……目線が高い……!」
軽く手足を動かしてみる。関節が滑らかに動く。
廊下の床板がきゅっと鳴るたび、心が弾んだ。
「これ……すごく動きやすい! 大弓も引けそう……!」
ふと、階下にある大きな鏡を思い出す。
踊り場に設置された全身鏡――いつも、仲間の冒険者が装備の確認に使っているものだ。
「見にいこ!」
ナツキは嬉しそうに階段を下りた。
踊り場に立つと、そこには大きな鏡があり、陽光が反射してきらりと光っていた。
「わー……これ、わたし? ママみた〜い!」
頬をぺちぺち叩いてみたり、口角を上げてにっこり笑ってみたり。
鏡の中の自分が動くたびに、どこか信じられない気分だった。
足もとでコムギがくんくんと鼻を鳴らし、不思議そうに見上げている。
「どうしたの、コムギ? ……へへ、大丈夫だよ、ナツだよ!」
しゃがみこんで抱き上げようとしたその時、コムギの耳がぴくりと動いた。
次の瞬間――
「ワン!」
短く吠えると、くるりと方向を変え、階段を駆け下りていく。
「え? ちょ、待って! コムギー!」
慌てて追いかけるナツキ。
ギルドのホールに飛び出した瞬間――
「うお、すげぇ美女!」
「今の誰だ!? 見たことねぇぞ!」
「こないだの移住組のハイエルフじゃないか?」
「いや、耳は普通だったぞ!」
ざわつく冒険者たち。
そのど真ん中を、ナツキは気づかぬまま駆け抜けていった。
外の通りを、コムギが全速力で走る。
振り返りながら、まるで何かを確かめるように耳を傾けていた。
「なになに? 何か聞こえてるの?」
ナツキも自然と笑顔になる。
長い足が、地面を蹴るたび軽やかに前へ進む。
風が頬を撫で、視界の全てが新鮮だった。
「走るのって、こんなに楽しかったっけ……!」
コムギと一緒に、街角を抜けて広場へ駆けていく。
「待って、コムギ!」
ナツキが追いついた時、コムギは井戸の縁に前脚をかけ、下を覗き込んでいた。
尾を振りながら、小さく吠える。
「……また、井戸?」
ナツキは苦笑しつつ、腰まである髪を払いのけた。
髪先が肩や顔にまとわりついて、井戸を覗くたび邪魔になる。
「うーん、これじゃ降りるときに引っかかっちゃうかも……」
腰のポーチから革紐を取り出し、髪をざっくり後ろでまとめる。
指先でねじりながら、低めの位置で結び留めた。
それは、いつも出かける前にママがしていた結い方だった。
「うん、これで邪魔にならないね!」
結び目を軽く叩いて確認すると、ナツキは井戸の縁に立った。
ロープを手に取り、下を覗き込む。
かすかに冷たい風が吹き上げてくる。
「よおし、コムギ――ナツの冒険、いくよ!」
そう言って、彼女は井戸の中へ足を踏み入れた。
* * *
夕暮れの『ルーイン・ゴート』のホール。
暖炉の火が揺れ、コウイチたちが探索の報告をしていた。
「……全員、一度は石化されたのか」
ケンタが腕を組む。
「はい。幼体とはいえ、ピヨトリスは目を合わせただけで石化しました」
コウイチが静かに答える。
「石化か……危険だな。倒してもすぐポップするだろうから、立ち入りを禁じるくらいができるソリューションかなあ」
ケンタが考え込む。
「それが、倒してもいないんです」
「……?」
「“謎の美女”が現れて、ピヨトリスを進化させてどこかに飛ばしてしまいました」
コウイチの言葉に、ケンタが目を細める。
「謎の美女? 進化? なんだそりゃ」
そのとき、ホールを小さな影が横切った。
ナツキと、小麦色の仔犬コムギだ。
「ケンタおにーちゃん、ただいまー!」
「おかえり。今日もクエストか?」
「うん、“お靴探し”と“はぐれスライム退治”!」
ナツキが駆け抜けて二階へ向かう。
その背を見送りながら、ユウタが首をかしげた。
「あの仔犬……どこかで見たような?」
「どこかって、君たちクリスマスのとき、あの子にドギャーンとビビってたじゃない」
結が笑い、ホールが和やかにざわめく。
その中で、ユウタとコウイチだけが顔を見合わせた。
――ほんの一瞬、謎の美女の気配を感じながら。
* * *
ルーイン・ゴートの二階、子どもたちの部屋。
窓から差し込む柔らかな光が、床に置かれた将棋盤を照らしている。
アキラとハルトは盤を挟んで向かい合い、真剣な表情だ。
「もー! お兄ちゃんたち、もう晩ごはんの時間だよ! いいかげんにしなさい!」
ナツキが腰に手を当てて叱る。
その剣幕にアキラとハルトが顔を見合わせ、そろって小さくつぶやいた。
「ナツキ、ちょっと怖い……」
「ママみた〜い!」
思わずナツキが吹き出す。
「もぉ〜、ママじゃないってば!」
コムギが跳ね回り、兄妹のまわりをくるくる回る。
その姿につられて、三人とも笑い出した。
明るい笑い声が、『ルーイン・ゴート』の二階にいつまでも響いていた。
(おわり)
――閑話:下水迷宮のニュービィ(後編)あとがき
最後まで読んでくださって、ありがとうございます!
次回の『マジチー』は本編を、来週の火曜日のお昼頃に投稿予定だそうです。
いよいよ、叙事詩クエストのひとつが動き出すみたいですよ。
続きも読んでもらえたら、すごく嬉しいです。
もし少しでも「面白かったな」って思ってくれたら、
ブクマとかポイントとか……ぽちっと応援してもらえると励みになります!
いや……ほんと、今回はいろんな意味ですごかったよ。
あの人――黒髪の弓使い。
矢を放つとき、目を閉じてたんだ。
それなのに、あんなに正確で、静かで……。
まるで、風の音と一緒に弓を引いてるみたいだった。
僕も、いつかあんなふうに弓を引けるようになりたい。
ただ当てるだけじゃなくて、心をまっすぐにして放てるように。
またどこかで会えるといいな。
そのとき、胸を張って言えるように――
「僕も、弓使いです」って。
――ユウタ




