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第三十五話:不死鳥の産声

 セレノスのメインストリートから一本入った静かな路地。

 石造りの家々が並ぶ中に、一軒だけ、瓦屋根の庇を掲げた和風の建物がひっそりと佇んでいた。


 看板には、筆文字で『渋澤弓具』。


 戸を開けた瞬間、乾いた木の香りが鼻をくすぐる。

 外のざわめきが遠のき、店内には静かな緊張感だけが漂っていた。


 結は、慎重に弓を台の上に置いた。

 その正面で腕を組む男――渋澤三郎は、黙したまま弓の反りを眺める。


「……ふむ。外竹が切れて……側木にも割れが、か」

 低い唸りとともに、指先で竹の筋を確かめる。

 弓が微かに軋んだ。


 やがて渋澤は、短く息を吐き、紙片に墨筆を走らせる。

 差し出されたメモには、達筆でこう記されていた。


 『トゥ・ロンの皮』。


「ニベに使う。……少しでいい」

 それだけ告げると、弓の背を軽く撫で、静かに言葉を添えた。


「……この子は責任を持って預かろう」


 結は思わず背筋を伸ばし、深く頭を下げる。

「よろしくお願いします! ゼーったい用意します!」


 そして顔を上げると、にっこり笑って弓に手を振った。

「渋サブロー、待っててね!」


 勢いよく戸を開け、新春の光の中へと駆け出していく。

 残された店主はしばらく無言で立ち尽くし――ふっと口の端を緩めた。


「……渋サブロー?」

 小さく呟き、指先で弓の銘をなぞる。


「弓の名か。面白い子だ……」


 刻まれた文字が、淡い光を受けてかすかに浮かび上がる。


 『渋澤三郎作』。


 ――ほんの少し、弓が嬉しそうに鳴った気がした。


* * *


 ルーイン・ゴートのホールでは、昼下がりのざわめきの中、ケンタが腕を組んで唸っていた。

 その向かいでは、結が小さな紙片――渋澤から渡された墨書きのメモを握りしめていた。


「トゥ・ロンか……ゾディアック・トゥ・ロンだよなあ」


「つ、強いの?」

 結の声は不安に揺れている。


「強い……というか、レイド対象の恐怖の神様」

 ケンタが淡々と告げた瞬間、結はぎょっとして目を見開いた。


「ええええっ!? れ、レイド級!? そんなの……無理ゲーじゃん!」

 結が久々にびっくりポンする。


「ど、どうしよう……渋サブロー、直せないの……?」

 小さく震える声。

 あの店で見た、渋澤の真剣な眼差しと、弓のかすかな軋み。

 その記憶が胸に蘇るたび、息が詰まるような痛みが広がった。


「ナナさんに聞いてみるか?」

 ケンタがぽつりと提案する。


「ナナさんに? なんで?」

 結が涙目で顔を上げる。


「『トゥ・ロンの皮』は、ウィザードの叙事詩クエストの素材でもあるんだ。

 ナナさんなら、そのへん詳しいはずだ」


「なるほど……! でも、私たちナナさんの連絡先知らないよね?」

 結が首をかしげる。


「コーサクさんなら連絡取れるかもな。ゾディアック神殿の件で助けてもらってたろ?」

「そっか、それだ!」

 結が勢いよく振り返って声を上げる。


「コーサクさーん!」


「ん? 呼びました?」

 聞き覚えのある声がすぐ近くから返ってくる。

 振り向くと、隣のテーブルでコーサクが報酬アイテムを検分していた。


「あっ、コーサクさん!」

 結がぱっと駆け寄る。

「これ、渋澤さんに頼まれた弓の材料なんですけど……」

 差し出したメモには、達筆でこう記されていた。

 『トゥ・ロンの皮』


「ナナさんなら、これのこと分かるかもしれなくて。連絡取ってもらえますか?」


「なるほど、事情はわかりました。少し確認してみましょう」

 コーサクはうなずき、フレンドリストを表示する。

 数少ないリストから封筒型のアイコンをタップし、短い文面を打ち込む。


「返事が来るまで、少しかかると思います」

 そう言って、コーサクは静かに席へ戻った。


「ありがとうございます、コーサクさん!」

 結はぱっと頭を下げる。

「ほんと助かります! ナナさんに届いたら、どうかよろしく伝えてください!」


「ええ、任せてください」

 コーサクは穏やかに微笑んだ。


 結は手元のメモを胸に押し当て、唇を引き結ぶ。


「――渋サブロー、待っててね。絶対に直してもらうから」


 冷たい空気の中で、暖炉の火がぱち、と音を立てる。

 その小さな火の揺らめきが、凍える世界にほんのわずかな希望を灯していた。


* * *


 南エリス草原の中央に、ある巨木が根を張っていた。

 枝葉は陽を遮り、幹はねじれながら空へと伸びている。

 その広がりだけで森を成すほどに鬱蒼とし、

 足を踏み入れれば昼なお暗い影が広がっていた。


 その内部――絡み合う枝と根の空間が、レイブン族の砦である。


 カラスの頭を持つ彼らは、黒い翼を背に備えるが、人型の身体を宙に浮かせるほどの力はない。

 宙を漂えるのは、『レビテーション』を使えるレイブン・メイジくらいのものだ。

 そのため、砦の巨木には上層へと続く緩やかなスロープが幹を取り巻くように設けられていた。


 その影の中に、一人の人間が音もなく足を踏み入れる。

 緋色の祭服をまとったウィザード――ナナである。


「インビジブル!」


 詠唱と同時に、ナナの姿がふっと掻き消える。

 気配も足音も残さず、まるで空気そのものに溶けたかのようだった。


 透明になったナナは、ゆっくりとスロープを登り始めた。


 巡回するレイブン・ハリアーたちの脇をすり抜けながら、

 やがて最上階――巨木の幹に穿たれた天守へとたどり着く。


 そこでは、黒い羽毛をまとったレイブン・ジェネラルを筆頭に、幹部たちが整列していた。

 だが、ナナの目的は天守の内部ではなく、その裏手にあたる外縁のデッキである。


 そこに、レイブン・マーチャント――商人のNPCが、じっと佇んでいた。

 頭上に浮かぶネームタグの色は黄色。

 それは、こちらを嫌ってはいるが、すぐに襲ってくるほどではない――そんな微妙な親密度である。


「ありゃ、切れてた? 見えてるゾンビは嫌われ者ね」


 肩をすくめながら、ナナは再び呪文を唱える。


「インビジブル!」


 再び姿が淡く霞み、空気の中へと溶けていった。

 すると、レイブン・マーチャントの頭上に浮かぶネームタグの色が、黄色から白へと変わる。

 中立――交易可能な状態だ。


 NPC商人は親密度が低いと取引を拒む。

 だが、姿を消して接触すれば“中立扱い”になるという小さな抜け穴があった。

 旧EOF時代から修正されずに残る便利なバグ――いや、もはや伝統的な仕様だった。


「使えるうちは使っとこ」


 ナナはひとりごちて、商人に話しかけた。

 目の前に商品リストの窓が開く。

 並ぶ品の中――ルーン小石がずらりと並んでいるのが目に入る。


「おー、ルーン小石、大漁じゃない」


 唇の端が自然に上がる。

 迷わず全て購入し、確認窓を閉じたその時――視界の端で封筒のアイコンが明滅した。


「ん? こんな時に誰かしら」


 指先で軽く触れると、DoubtLookの窓が開く。

 そこに表示された差出人名を見て、ナナは思わず口元を緩めた。


「……あら、コーサクおじさん?」


 短い文面には、たった一行。


 『ナナさん、“トゥ・ロンの皮”って素材、知ってますか?』


 ナナは小さく息を吐き、眉をわずかに寄せた。

「……トゥ・ロン、ね。懐かしい名前が出たものだわ」


 軽く杖を握り直し、セレノスの方向を意識する。


「ゲート!」


 詠唱とともに、青い光の柱が彼女を包み込む。

 インビジブルが解け、レイブン・マーチャントのネームタグが黄色に戻る。

 レイブン・マーチャントは取引窓を閉じて喚き散らした。


「ニンゲン……ウルモノ……ナイ!」


 だが、その声が最後まで届くことはなかった。

 青い光の柱が一気に収束し、ナナの姿を飲み込む。

 残されたのは、風の鳴る音だけだった。


 ――木々の影の中で、レイブンたちの鳴き声がざわめきに変わった。


* * *


 セレノスの居酒屋『ボツ八』。

 焼き鳥の香ばしい匂いと、湯気の立つ徳利の香りが漂っていた。


 座卓を囲むのは『トーチ』の面々とコーサク、そして――緋色の祭服をまとったウィザード、ナナ。


「なるほどね……」

 ねぎまのネギを頬張りながらナナが言う。

「エピックウェポン級の素材が修理に必要、と?」


 エピックウェポンとは、各クラス別の叙事詩クエストで得られる武器類のこと。

 そして、叙事詩クエストとはEOFのメインコンテンツとも言われる壮大な連作クエスト群を指す分類タグである。


「やっぱり、入手は難しいですか?」

 不安気に訊ねる結。


「ふふふ……ジャーン!」

 後ろに置いていた愛用の杖を、ナナがドヤ顔で座卓の上に掲げる。


 キョトンとする一同。

 どう見ても、普通の木製の杖である。変わったところと言えば、上端が爪状に四つに分かれているくらいだ。


「コホン……」

 仰々しく咳払いをすると、ナナは杖に魔力を込める。


 ――瞬間、四つの爪の中心に光が集まり、ひとつの光球が生まれた。

 黄、青、緑、赤と順に明滅し、脈動のたびに杖全体へ微細な魔力の波が走る。


 それはウィザードエピックウェポン――『スタッフ・オブ・ザ・エレメンツ』である。

 どうだ! とドヤ顔マックスのナナ。


「この床屋の看板みたいなのが、なんか関係あるがね?」

 つくね串を頬張りながらシャチョーが聞く。


 ずっこけそうになりながらナナが主張する。

「これがエピックウェポンだってーの!(えへん)」


「おおぉ!」

 それを聞いて初めて感心する一同。


 ケンタがふと気づく。

「これがあるって事は、ナナさんは『トゥ・ロンの皮』を手に入れたことがある?」


「マジか! 恐怖の次元のヌシをソロでやったがね!?」

 慣れてきたのか即座にシャチョーに突っ込むナナ。


「んなわけあるか〜い!」

 バシンと音だけ大きい絶妙な叩きを決める。


 お互い満足して、真顔になって続ける。

「実は、ベータテスト協力のご褒美でベータ版の時のアイテムをいくつか引き継げたのよ」


 スタッフと緋色の祭服を指して明かす。

 本当はひとつだけだったのだが、『伝説的シナリオ』のキャラクター使用権と引き換えに祭服も通したのであったが、此処では説明する必要がない。


「じゃあ、やっぱり、無理ゲー?」

 ガッカリする結。


「うふふ、と・こ・ろ・が……」

 ちっちっちと人差し指を振るナナ。

「こないだ、NPC商人のリストで見かけたのよ。高くて買えなかったけど」


「え? ナナさんが買えないって、ど……んぐ」

 座卓の下で脇腹をつねられて沈黙するコーサク。

 どうやら宝石キャンプの事は他言無用らしい。


「誰かがNPC商人に売ったってことか?」

 ケンタが膝を打つ。


EOFのNPC商人は買取りも行っており、プレイヤーが戦利品を売ると、それに利益を乗せて商品リストに並べるのだ。そのため、ごく稀にレアなアイテムを購入することができるのであった。


「ど、どこで売ってたんですか!?」

 結がすがる様な目で問う。


「トンネルのジプシーキャンプよ。でももうだいぶ前だから……」


 トンネルとは、クロスロードを南下した先にあるロム砂漠へ抜ける巨大な洞窟である。

 内部も広々としており、ジプシーのキャンプがオーダー種族には戦利品売却とガードの両面で頼りにされていた。


「まだ可能性はある!」

 ケンタが立ち上がり右手人差し指で天を指す。

「NPC商人の在庫は買い占めれば表示されていない古い品が出てくるんだ」


 目を輝かせて、ナナを拝む結。

「ナナさん! グループゲートをお願いします!」


「しょうがないわねー」

 座卓の料理と酒を名残惜しそうに眺めて、ナナがため息をつく。

「コーサクおじさん、これ持ち帰りにしてもらっといてね」


「了解。マスターに頼んどくよ」

 コーサクがうなずくと、ちょうど奥から店主が顔を出した。


「戻ったら、また飲んでってくださいな」

「そのつもりよ。次は『まるごとニンニク揚げ』頼むわ」


 ナナは軽く手を振り、立ち上がる。


* * *


 ロム砂漠へ抜ける巨大な洞窟――その中ほどに広がるジプシーキャンプ。

 ランタンの明かりがゆらめき、湿った岩肌を照らしている。


 堆く積まれた武器、防具、毛皮や干し肉、パンや水筒。

 どこに格納していたのかと思うほど、アイテムが洞窟じゅうにあふれていた。

 NPC商人の周囲は、視界がもたつくほどのラグ気味になっていた。


「ダメだ……出ない」

 ケンタが取引窓を閉じ、ため息をつく。


「もう消えてるんドワ?」

 ガン鉄がヒゲを撫でながらのぞき込む。


「ケンタ、お祓い受けてきた方がいいがね」

 シャチョーが口をとがらせて言う。


「シャチョーこそ、女神像拝んでこいよ」


「ハイハイ、醜い争いは止める!」

 ナナがぱん、と手を叩いて割って入る。


 場の空気が一瞬だけ静まった。

 結はうつむいたまま、力なく肩を落とす。


「ううう、やっぱりダメかぁぁぁ……」

 結が涙を浮かべて、アイテムの山の前にへたり込む。


 誰もが諦めの色を見せかけたそのとき、ケンタがぽつりとつぶやいた。


「……いや、まだだ」

 目を細め、考え込むように腕を組む。

「ここで売られたってことは、この近くのモンスターが落としたってことだ。つまり――」


「この近く、フィールドかダンジョンか……」

 ケンタの視線が宙を彷徨う。

 頭の中で、何かがひっかかっていた。


(沈黙)


 そして、ふいに息をのむ。


「あ……!」

 目の前で、ナナの緋色の祭服がひるがえった。

 その色が、記憶の奥に焼きついた光景と重なる。


「ここに一番近いダンジョン……『堕ちた聖堂』だ!」


「なんであそこ?」

 結が首を傾げる。


「ウィザードエピックの素材……持ってそうなのはウィザード系モンスターだろ?」


 皆の脳裏に、あの恐怖の存在がよみがえる。


 ――腐った魔女。


 魔法を操る歩く死体。


 暗い洞窟の奥、彼らの記憶の中で、あの女の笑い声がこだました。


* * *


 『堕ちた聖堂』。

 かつて彼らが絶望を味わった、あの常夜の廃墟に――『トーチ』の面々とナナは再び足を踏み入れた。


「レビテーション!」

 ナナが杖を掲げ、短く詠唱する。


 ふわりと身体が軽くなった一行は、そのまま崩れた井戸へと飛び込んだ。

 重力の縛りが薄れ、ゆっくりと暗闇を降りていく。


 底へと着地したとき、結が思わず息を呑む。

 懐かしい、あの冷たい空気。


 だが今回は違った。

 皆のレベルが上がった今、かつて苦戦したアンデッドたちも――通路を塞ぐたびに、光と炎の一撃で容易く霧散していく。


「テンポよく行くわよ」

 ナナが軽く手を振る。

「インビジブル・フォー・アンデッド!」


 淡い光が全員を包み、姿が霞む。

 腐敗臭漂う通路を、彼らは音もなく駆け抜けた。


* * *


 やがて――礼拝堂。

 朽ちた祭壇の向こう、闇の中にそれはうずくまっていた。


 腐った魔女。


 以前と同じ場所、同じ姿勢。

 そして、同じように跳ね起きる。


「アア……アク……マ……モエロ……」


 だが今回は違う。

 こちらにも――魔女がいる。


「あなたの方が燃えやすいわよ!」


 ナナが杖を振り下ろす。


「ファイヤー・ボール!」

「ファイヤー・ウォール!」

「インフェルノ・ショック!」


 轟音が重なり、火焔が礼拝堂を染め上げた。

 かつての恐怖は、一瞬で灰に変わる。


「アア……エレ……様……」


 燃え尽きる腐った魔女。

 光の粒となって消えていった。


「どういうシナリオよ……」

 ナナが呆れたように笑う。

「マコトさんに会ったら絶対抗議してやる!」


「一人で片付けちゃったがね」

 シャチョーが肩をすくめる。


 腐った魔女が、オリジナルの腐ってない魔女にあっけなく敗れ去った。

 その残骸の上に、淡い光が集まる。

 ――宝箱が出現した。


「おお! うちの出番だがや!」

 シャチョーが張り切って肩を回す。


「待って!」

 ナナが片手を上げ、制した。

「結ちゃん、あなたが開け……いえ、引きなさい」


「えっ、でも罠とか鍵とか……」


「ここ初級ダンジョンよ? へっぽこでもクレリックがいるんだから大丈夫」


 ケンタがうなずく。

「大丈夫だ、結。落ち着いて、な」


 結は深呼吸し、両手を合わせた。

 弓聖の逸話を思い出しながら、そっと祈るように。


「南無八幡大菩薩……お願い!」


「礼拝堂で、よそん神様に拝んでもええんかね?」

 シャチョーの軽口をよそに――


 宝箱が、音もなく開いた。

 まばゆい光があふれ、礼拝堂全体を照らす。


「当たりだな」

 ケンタの声が静かに響く。


 光はしばし揺らめき、古びた石壁に反射して彼らの影を伸ばした。

 結はまぶしさに目を細めながら、胸の奥に温かいものを感じていた。


 ――そのときだった。

 背に、弓の重みを感じた。

 まるで、あの弓がいつものように寄り添っているかのように。


 結はそっと微笑み、つぶやく。


「……うん、もうすぐだよ。渋サブロー」


 光が静かに収束し、礼拝堂を包んでいた輝きが穏やかに消えていく。

 残ったのは、背に伝わる確かな重みだけだった。


* * *


 ――あれから一月。


 渋澤からは、まだ「仕上がった」の報せがない。

 結は今日も『大妖精の黒い森』で、ウッドエルフたちの弓稽古を見ていた。


「くうう、また負けた……」

 恒例の勝負で、青年パリスがまたも膝をつく。


「じゃあ今日は、みんなで的前練習いってみようー」

「おー!」

 歓声が揺れ、森のデッキに軽い足音がはねた。


 ――その時だった。

 陽が陰る。頭上を、大きな黒が覆い隠した。


「こっちもまたか……」

 パリスの喉が震える。

 森のヌシ、『ブラック・レイヴォン』。あの黒翼が、螺旋を描いて降りてくる。


「ガード、ザルすぎだろう……」

 エレネもアンも、今日は不在だ。頼みの綱のNPC商店主も、店の奥で反応しない。


「みんな、店の中にインだよー!」

 結の声で、ウッドエルフたちは小さな商店へ雪崩れ込む。だが数名が爪に払われ、デッキの反対側に弾かれた。

 幸い、致命傷ではない――けれど、本気で来られたらひとたまりもない。


「こっちだ!」

 パリスが矢を放って注意を引く。黒い羽ばたきで矢は叩き落とされたが、視線は逸れた。

 すぐさま結が反対側から一矢。黒い頭蓋をかすめ、怒りがこちらに向く。


 パリスの追い矢は、今度は容易に避けられた。

 結は舌打ちした。――盾役も回復もなしで、ヌシを押し切るのは無謀だ。


 ブラック・レイヴォンが一度舞い上がり、翼を折りたたんで急降下――結の真上へ。


「先生!」

 パリスが叫び、結は反射で構えを切り替える――


「パラライジング・エアロ!」


 冷たい風が、音もなく世界の糸を縫い止めた。

 レイヴォンの巨体が空中の一点に釘付けになる。翼が痙攣し、爪が空を掻く。


 高位ウィザードの足止め。誰が――?


 視線を走らせると、木組みの昇降機がせり上がり、緋色の祭服が現れた。

 ウィザードなのに、背にはなぜか長い弓が一張り――。


「じゃーん、お使いゾンビ参上!」


 ナナが片手をひらひら振り、もう片手で背中の弓を外す。

 ついでに言えば、ゾンビじゃないのにゾンビを自称するのはいつものことである。


* * *


 ナナが恭しく、長弓を差し出した。

「あなたの相棒、連れてきてあげたわよ」


 結は一瞬、息を詰めた。

 その弓――渋サブロー。

 手が、わずかに震える。

 抱きしめるようにして受け取り、頬を寄せる。


「ナナさん、ありがとう……ほんとうにありがとう……」


 涙声で礼を繰り返す結。

 ナナは苦笑しながら、肩をすくめた。


「バッカ、泣いてる場合?」


「――はい!」


 結は涙を拭い、矢を番える。

 空中に縫い止められたままのレイヴォンを、まっすぐに見上げた。


 グガアアアァァッ――!

 身動きの取れぬまま、抗議のような声を上げる森のヌシ。


 結は静かに息を吐き切ると、弓をゆっくりと打起こした。


 固唾を飲んで見守るウッドエルフの若者たち。

 初めて和弓の射を目にする者も多い。


「あれが先生の弓? 変わった形……」

「ロングボウより長い……上下の長さも違う」

「それより、あの不思議な曲線……なんだか美しい」


 その声を聞きつけ、店の奥からNPCの弓具屋のおばちゃんが顔を出した。

 白い手ぬぐいで手を拭いながら、目を細めて結の構えを見つめる。


「……竹の弓かい。あの子、ずいぶん馴染んでるね」

「おばちゃん、あれって強いの?」


「強さより大事なことがあるのさ。あれは弓と心が通い合ってる。……いい“呼吸”だねぇ」


 ウッドエルフたちはぽかんと口を開けた。ただ、何かすごいことを言われた気はした。


「ま、あんたたちにはまだちょいと早いかね……」

 おばちゃんはじっと結の射を見つめていた。


 結の動きは静かだった。

 だが、その静けさの奥に、すべての気が集まっていく。


 弓手三分の二弦を推し、妻手三分の一弓を引く。

 矢束いっぱいに引き切り、『会』に至る。

 外から見れば止まっているようで――内では力が拮抗していた。

 静のうちに宿る動。

 変わらぬ渋サブローの応力、結の射法に応えるように圧が高まる。


 懐かしい感触に、ソウルゲージが揺らいだ。

 世界が静止する。

 ただ、弦と心臓の鼓動だけが響く。


 やがて、静かに矢が放たれた。

 遅れて、甲高い竹弓の弦音が静寂を破る。


 なんのスキルも載っていない。

 ただの一射。

 そのはずだった。


 だが、見守る誰もが――炎の気配を感じた。


 炎の翼が羽ばたく。

 火の粉が空に舞う。

 弓は不死鳥の如く甦り、ふたつの魂が合一する。


 矢は空気を焦がしながら、一直線に突き進んだ。

 蒼穹へ――天を穿つ。


 白熱した一箭は、森のヌシを貫き、どこまでも高く昇っていった。


 残響だけが、風のように森を渡る。


 残心――引き終えた型の、その手には、渋サブローのぬくもりがあった。

 結はそっと目を閉じ、微笑む。


「……おかえり。いっしょに、帰ろう」


* * *


 同時刻、セレノスの酒場ルーイン・ゴート。

 昼下がりの店内で、豆のスープの香りが漂う。


「……誰がジプシーにあの皮を売ったんじゃろか?」

 ログ爺がスプーンを止める。


「デスゲーム化後に腐った魔女とやり合う奴なんていねぇよな」

 タクヤがスープをかき混ぜながら言う。


 ケンタがコーヒーを掲げる。

「そのソリューションは簡単さ。――やり合ったバカが一組だけいる」


 三人の視線が、小倉トーストを頬張るシャチョーに集まる。


「え? なんだがね?」


「結局、あの時のドロップを売ったのが――俺たちってことだな」

 ケンタが小さく笑う。


「わし悪くないがね! あんとき整理してて、うっかりNPCにまとめ売りしちゃっただけなんだがね!」

 慌てるシャチョーを見て、全員が吹き出した。


 暖炉がぱち、と音を立てる。


* * *


 ──火星の衛星・フォボス、観測室。


監視者A「『腐った魔女』のドロップテーブル、確認」

監視者B「『トゥ・ロンの皮』――確率100%です」

監視者D 「伝説級素材がコモンドロップですか!?」

監視者C 「あれやな、ベータのナナはんのデータをコピペした時、バッグに入ってたんや……」

監視者D「誰ですか、そんな雑な仕事したの……」


(沈黙)


――本記録ログは一部破棄されました。――



監視者D「ところで先輩、さっきから気になってったんですが、そこの制御台に突き立ってるのなんですかね?」

監視者C 「なんや?ただの矢やないか……」


(沈黙)


監視者C&D「え、ええぇぇ!!」


(おわり)


――第三十五話あとがき


最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

次回の『マジチー』は今週金曜日のお昼頃に閑話を投稿予定とのことです。

出口を探す小人たちの話の続編らしいです。

そちらも読んでいただけたら、きっと弓も喜びます。


弓師は、弓を“打って”形にすることはできますが――

本当の意味で“完成させる”ことはできません。


弓を完成へ導くのは、射手の手と、弓そのものの意志です。

人と道具が出会い、少しずつ息を合わせ、ようやく一張りの弓になる。

あの子たちが、これからどんな“形”に仕上がっていくのか……私も楽しみにしています。


――弓師 渋澤三郎


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