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第三十三話:結ばれる弓

 ハイエルフの城塞都市『シルヴァノール』は、大妖精の黒い森の南東にそびえていた。

 白銀の尖塔と、月に照らされた樹海の緑とが交じり合い、どこか現実離れした幻想の都の姿を見せている。


 『霧の幻影城』での激闘を終えた結は、そこでしばし静養していた。

 傷んだ体と心を癒やすには、温泉ほどありがたいものはない。


 岩肌に湯気が立ちのぼり、檜の香りがほんのりと漂う露天風呂。

 星空を映す湯面に肩まで浸かり、結は思わず「ふあぁー」と大きく息を吐いた。


 隣に座るエレネは、腰まで届く黒髪を後ろにまとめ、しっかり結い上げてから湯に身を沈めていた。

 その姿は戦場と変わらぬ凛とした気配を漂わせ、どこか神事のような厳かさすら感じさせる。


「いいお湯だねぇ。もう全部吹っ飛んじゃいそう」

 結がいつもの元気な調子でそう言えば――

「ほんとですねー。お湯まで、きらきらして見えますー」

 アンは赤毛のおさげを揺らしながら小さく呪文をかけ、お湯をユニコーンの形にして走らせた。


 エレネが静かに頷き、背筋を伸ばしたまま言う。

「戦場では常に緊張を強いられますから……こうして体を休めることもまた、務めの一つです」


 結はふと首筋に手を当てる。そこには、まだ薄く赤い紋が残っている。

 幻影城で受けた呪いの痕跡。だが、痛みも重さももうない。

「……あとちょっとで、消えそうなんだけどなぁ」


 呟きは湯気に溶け、夜空へと消えていった。


* * *


 ほどなくして、結のもとに仲間たちが見舞いにやって来た。


 最初に現れたのはログ爺だ。

「ほれ、わし特製の秘薬じゃ」

 ジョッキになみなみと注がれた紫色の液体が、ぐつぐつ泡を立てている。


「え、これ……飲むの……?」

 結は逃げ場を失い、意を決して腰に手を当てると一気にあおった。

「ぷはーっ! なにこれ、不味っ!」


(同じアルケミストでも、アンちゃんのはフルーティで美味しかったのにー)


 顔をしかめる結の前に、ログ爺が当然のようにおかわりを差し出す。

「おかわりもあるぞい」


「い、いらないいらないー!」

 結は慌てて両手を振って丁重に断った。


 その後ろから、今度はケンタが紙に包まれた束を無造作に差し出してくる。

「……暇つぶしにでもしろよ」

 ぶっきらぼうに視線をそらしながら。


 結が包みを開けると、『弓道教本・全四巻』の分厚い背表紙がずらりと並んだ。

「わ、ありがとー……でもこれ、見るからに重そうだねー」

 試しに第一巻を開いて数行目を追った瞬間、結のまぶたがゆっくり閉じていく。


「はやっ!」

 仲間たちが思わずツッコむ中、結は「もー、眠くなるー……」と本をぱたんと閉じ、照れ笑いを浮かべた。


 笑いが収まったところで、結が少し真面目な顔になる。

「そうだ、みんなに話しておかなきゃいけないことがあるんだー」

 彼女は自分のステータス画面を呼び出し、眉を寄せる。

「《一射絶命》を使ったことでね、ユニークスキルの条件が全部そろったみたいで……灰色だった《最高到達点:???》の表記が、こんなふうに変わっちゃったの」


 仲間たちがのぞき込むと、黒々とした筆文字の草書体で――


 《最高到達点:真善美》


 と、堂々と刻まれている。


「でも……これ、どうやって使うのか全然わからなくてー。タップしても何も起こらないんだよねー」


 ケンタが腕を組んで唸った。

「パッシブスキルなのか……? ただ、そんな名前のスキルは聞いたこともないな」


 ログ爺は目を丸くして首を振る。

「ユニークスキルをすべて使うて……そんな解放条件が仕込まれておるとはのぅ。わしも初耳じゃ」


 結は手元の教本をぱらりと開いて、あるページを指し示す。

「“真善美”って、弓道では最高目標として掲げられてる言葉なんだよ」


 そう言って本を閉じると、視線は自然と傍らの弓へ移っていった。

「……でもね、どんな立派な言葉より、いまはこの弓が直ってくれる方が嬉しいんだよねー」


 仲間たちは言葉を失い、ただ静かに結の思いを受け止めていた。


* * *


 翌日。


 結はその弓を携えて、ハイエルフの弓師を訪ねてみた。

 だが職人は和弓の形状を見るのも初めてらしく、修理はできぬと首を振るばかり。


「……渋サブロー、ごめんね」

 結は弓の刻印をそっと指でなぞった。


 渋サブローは、その刻印――『渋澤三郎作』の文字から、結が勝手に名付けた愛称である。

 彼女にとって、この弓は世界を共に駆け抜けてきた相棒であり、友だった。


「渋澤さんなら、直してくれるかなぁ……」


 月に照らされた幻想的なハイエルフの里の下、結は弓を胸に抱きしめた。


* * *


 さらにその翌日。


 結はエレネとアンに案内され、シルヴァノールの前面に広がる森の縁へと足を運んだ。


 木々の上にはウッドエルフたちの住処があった。

 樹上に設置されたデッキが吊り橋で迷路のようにつながり、商店や酒場、銀行まで揃った一大生活圏を形作っている。

 まさにファンタジーらしい光景だが、ゲーム初心者にとっては厳しい洗礼の場でもある。高所からの落下ダメージで、初めての死を経験する者が後を絶たないのだ。

 そのため、デスゲーム化直後には、低レベルのウッドエルフたちを一時的にシルヴァノールへ退避させて事なきを得ていた。


 森の根元に据えられた木製の昇降機の前で、アンがレバーを軽く倒す。

 ぎぎ、と木が軋む音を立てながら、上から大きな板がするすると降りてきた。


「……これに乗るの?」

 結は思わず足をすくませる。


「大丈夫ですよー。楽しいですからー」

 アンは赤毛のおさげを揺らしながら軽やかに飛び乗る。

 エレネも静かに続き、結は観念してその後に続いた。


 再びレバーが押し込まれると、板は宙に浮かび上がり、ゆっくりと森の上層へと持ち上がっていく。


「う、うわっ……!」

 結は慌てて両手を広げ、バランスを取る。

 もちろん、もうそれなりにレベルが上がっている彼女たちが落ちても即死はしない。

 それでも、高所から見下ろす森の緑は底知れぬ深さを湛えていて、足元がむずむずするような怖さがあった。


 その少し離れた森の外れを、闇色の翼を広げた巨大な影が横切っていった。

 朝の光が一瞬さえぎられ、森の緑が不気味な陰に沈む。

 さえずっていた小鳥たちもぴたりと声を止め、木々のざわめきだけが残った。


* * *


 結がここに来たのには理由がある。

 エレネから「ウッドエルフに弓の指導を頼みたい」と持ち掛けられたのだ。


 ウッドエルフは本来、弓に高い適性を誇る種族だ。

 しかし新生EOFでは、操作がVR化したことで体の動かし方そのものが重要になり、弓術の難易度は跳ね上がっていた。

 剣技がそうであるように、弓もまた「ゲームの知識」だけではどうにもならなくなっていたのである。


 ――ぶっちゃけ。

 ヨイチの細かすぎる要望と、彼の桁外れの技量に合わせてシステム調整が行われたせいで、ハンターやレンジャーたちは軒並み苦労していた。


 デスゲーム化初日に結に絡んできた二人組の言葉も、まったくの的外れではなかったのだ。


 だからこそ、結の射を目にした時、エレネとアンは驚きを隠せなかった。

 その矢筋に、救いの光を見たのだろう。


「任せてー! みんなで楽しく練習しよっ」

 結は二つ返事で承諾した。

 人に何かを教えるのは得意ではない。けれど、一緒に体を動かして、少しずつ感覚を伝えていくならできる。


 そうして三人は、樹上に設けられた訓練場へと向かっていくのだった。


* * *


 訓練場は吊り橋で結ばれた三つのデッキで構成されていた。

 一つは射場を配したデッキ、そして残る二つは遠近二種類の距離に設けられた的を置くデッキである。


 的の背後には、矢が傷まぬように土が盛られていた。


 訓練場に待っていたのは、三十人ほどのウッドエルフたち。

 さらに、エレネもやる気満々でハンター装備に着替えていた。弓が装備できないアルケミストのアンは、ちょっと残念そうに的を眺めている。


「みんな、よろしくねー!」

 結が元気に挨拶して練習を始めようとしたその時――一人の青年が手を上げた。


「最初に先生の腕前を見せてくださいよ」

 ウッドエルフの青年が口を開く。

「俺もリアルでアーチェリーをやってたんだけど、このゲームの弓はそんな軽いノリで教えられるほど簡単じゃないと思う。こっちは命が掛かってるんだ」


 理屈を並べ立てられ、結は思わずきょとんとする。


「私が頼み込んできてもらったのです……」

 エレネが仲裁するように言葉を挟むが、数人のウッドエルフはまだ納得していない様子だった。


 結は一瞬だけ考えるように首をかしげ、それからぱっと笑顔を浮かべた。

「わかった! ズバッと勝負しましょう!」


 挑まれた青年――名をパリスという――は、驚いた顔のあとに口元をわずかに吊り上げた。

「……いいね。望むところだ」


* * *


 勝負の前に、ひとつ問題があった。

 結の弓は壊れていて、今は使えないのだ。


「あ……弓がない!」

 結は思わず声を漏らした。


 どうにかしなくちゃと周りを見回しながら、結はアンに顔を向ける。

「この辺に弓屋さんある?」

「ありますよー。訓練場の端っこに、お店があるんですー」


アンが指さした先には、木の枝を組んで造られた小さな店が見えた。

結はさっそくカウンターへ近づき、声をかける。――が、そこにいたのは、白髪混じりのおばさんウッドエルフ。メイド服に白いエプロンを着け、腰に手を当てて仁王立ちしている。


「……ハーフエルフに売るものはないよ」


「えっ、そんなぁ……」

 ウッドエルフのハーフエルフに対する親密度設定が低すぎるのだ。

 視界に入った瞬間に襲われるダークエルフほどではないが、この冷たい反応はさすがにこたえた。


 すると、アンがそっと結の手を取る。

「大丈夫ですよー、任せてくださいねー」


 小さな詠唱とともに淡い光が立ちのぼり、結の姿はウッドエルフへと変わる。

 続けて、カリスマを底上げするバフがふわりとかけられた。


再びカウンターへ行くと――

「あらあらまぁ、そんな困った顔して……」

おばさん店主は先ほどとは打って変わって表情を和らげ、棚の奥からロングボウと矢を抱えて出してきた。

「最初の一張りにはちょうどいいよ。弦はちょっと固めだから、指を痛めないようにね。怪我したら温泉で温めるといいんだから」


すっかり面倒見のいいおばさん口調に変わり、親身になって世話を焼いてくれる。

結はぽかんとしつつも、差し出された弓を受け取った。

「え、えっと……ありがとうございます!」


こうして結は、ベーシック装備のロングボウと矢を手に入れた。


* * *


「そんな装備で大丈夫か?」

 パリスが結の手にしたロングボウを見て言った。


 結はニッコリ笑って答える。

「大丈夫、問題ないよっ!」


「後からハンデつけ過ぎたとか言うなよ?」

 パリスが口元を吊り上げる。


 審判役を務めるアンが両手をぱんと叩いた。

「では、これより勝負を始めますー! ……あ、言い出しっぺなのでエレネ様も参加ですー」


「えっ、私もですか!?」

 抗議もむなしく、エレネまで強制参加となり、三人の勝負になった。


 ルールは簡単。三十メートルほど先の的に、一人十射ずつ。より多く中てた者が勝ちだ。

 順番はエレネ、パリス、結の順で一射ごとに回していく。


* * *


 先陣を切るエレネ。ぎこちなくロングボウを構え、矢を放つ。

 ――矢は見事にあさっての方向へ飛び、端の弓具店の柱に突き刺さった。


「……矢は前に飛ばすもんだよ。ほんとにハイエルフ様なのかい?」

 白髪混じりのおばさん店主が、柱に刺さった矢を抜き取りながら、呆れ顔でつぶやいた。


「うぅ……申し訳ありません……」

 エレネは肩を落とし、耳まで赤くしながら小さく縮こまった。


 場にいたウッドエルフたちが、思わずくすっと笑いを漏らした。


 続いてパリス。構えた弓は、渋澤弓具で見かけたことがある機械仕掛けの洋弓――コンパウンドボウだった。

 軽々と引き放たれた矢は、真ん中へと突き刺さる。


「あんな凄そうな弓、反則じゃないの?」

 エレネが眉をひそめるが、パリスは肩をすくめるだけ。


「まあ、弓は弓だし細かいことは気にしない!」

 結は微笑んで射位に立った。

 ゆっくりと和弓の射法に則って放たれた矢は、的の中心を見事に射抜いた。


 エレネの二射目。おぼつかない手から放たれた矢はカンと音を立てて中たったが、それは隣のパリスの的だった。


「中たった!」


「エレネ様残念、隣の的はノーカンですー」

 アンが即座に裁定する。


 ――結局。最後の十射目まで、エレネは一度も中てられず全滅。

 デッキの隅で膝を抱えて落ち込んでいた。

「どうせ私なんか……(しくしく)」


 一方、パリスはここまで一度も外していない。

 結もまた、矢を外すことはなかった。


 勝負は最後の一射に持ち込まれる。


 パリスが軽々と弓を引き絞った――そのはずだった。

 しかし「これが勝敗を決める矢だ」と気付いた瞬間、体に余計な力が入る。

 深呼吸で落ち着こうとするほど、逆に緊張は高まり、狙いが定まらない。

 コンパウンドボウはフルドローを維持するのに力が要らない。だが、それがかえって離すタイミングを狂わせた。

 心が「中たる」と信じ切れないまま放たれた矢が、的を射抜くはずもなかった。


 ――パリス、外す。


 静寂が訪れる。

 残るは結ただ一人。


 結は淡々といつも通りの射法八節をゆっくりと一節ずつ進めていく。

 弓を真っ直ぐに打ち起こし、引き分けていく。

 一杯に引き分けた状態を『会』と言い、ここから『伸合い』、矢を放つ一瞬――『(やごろ)』に至る。


 早過ぎても、遅過ぎてもいけない。

 過ぎてはもう二度と時は戻せない。


 繰り返し、繰り返し、修練と実戦を重ねた結の身体は、その一瞬の『彀』を逃さなかった。


 ――いつも通り。

 ――真っ直ぐに。


 幻影だろうか? 幻聴だろうか?

 弓が甲高く澄んだ弦音を響かせ、放たれた矢は風を切り、一直線に的の中心を貫く。


 心地よい的中音が辺りに広がった。

 勝負を決める一射、容姿凛然たる美しい射を目の当たりにして、その場の誰もが言葉を失った。


* * *


 静寂の中、我に返ったアンが宣言する。

「勝者! 結先生!」


 ざわめきが広がり、やがて拍手が湧き起こる。

 弓具店の店主まで、ちゃっかり手を叩いていた。


 パリスは負け惜しみのように呟く。

「あんなにゆっくりで実戦で通用するもんか……」


 結はキョトンと首を傾げる。

「なんで?」


「なんでって、引いてる間に敵にやられちまうだろ?」


 結はニッコリ笑って答えた。

「大丈夫だよ。私はいつだって一人じゃないもん!」


 エレネが立ち直り、威厳を込めて言い放つ。

「パリス、あなたの負けよ」


 パリスも本当はわかっていた。

 あの店売りのロングボウを手にしたことのないウッドエルフはいない。

 初めて手にして中たるはずがないのだ。エレネのように全て外すのが普通なのだ。


 一射、二射、三射……と共に中て続けられ、パリスは一射ごとに追い詰められていった。

 しかも自分は最初から『精密射撃』のスキルを使っていたのに、結先生は何のスキルも使っている様子がない。

 もう心は――先生として認めていた。


 その様子を見ていたアンは、心の中で小さくつぶやいた。

 (……ちょっと、カリスマアップが効きすぎちゃってるかもですー)


 笑いと拍手がまだ残る訓練場。

 だが次の瞬間、木々のざわめきがぴたりと止まった。


 風が凍りついたような静寂の中、朝の光をさえぎる巨大な翼がゆっくりと迫ってくる。

 その影は空を覆い、森全体に不気味な陰を落とした。


 勝負の余韻を切り裂くように、ただ静かな恐怖だけが降りてきた。


* * *


大妖精の黒い森の北の端には初心者用のダンジョン――オークの砦があった。

そこにはオークが群れを成してひしめき、時に強力なネームドのオークが混ざることもあって、トレインの名所になっていた。

トレインとは、プレイヤーが逃走する際に、追ってくるモンスターが次々と連なって列車のような状態になることである。

ここでのトレインの終点は、樹上への昇降機脇に配置されたハイエルフガードの詰め所である。


「TRAIN! すいませーん! 多くのオークが来まーす! エレベーター下から退避お願いしまーす!」


今日もダジャレのようなトレインシャウトがゾーン内に響き渡る。


やがて、長大なオークの列は、ガードたちによって排除されていく。

しかし、長すぎた列はガードたちを持ち場から遠く離れた場所に移動させる結果となった。

そして、その間隙をついて、巨大な黒い影がウッドエルフの住処に侵入する。


* * *


 EOFの各ゾーンには適正レベルが設定されているが、そのレベル帯では歯が立たない致死級の徘徊モンスターが配置されている場所も多い。


 ここ大妖精の黒い森に棲むのは――

 獅子の身体にカラスの頭と翼を持つ怪物。


 『ブラック・レイヴォン』。


 固有名を与えられた森の主が、訓練場の上空で羽ばたき、ウッドエルフたちを威圧した。


 エレネは即座に装備を白銀の鎧へ切り替え、鋭く指示を飛ばす。

「アン、ウッドエルフたちを退避させて! 結さん、援護をお願いします!」


 ウッドエルフたちに狙いを定めたレイヴォンを、挑発スキルで引き戻す。

 一直線に突進する黒翼の巨影へ、結が矢を放つ。

 レイヴォンはひらりと身を翻して矢を避けるが、その勢いは削がれ、エレネの盾で受け止められた。


 しかし羽ばたき一つで態勢を変え、鋭い爪が鎧ごとエレネを薙ぎ裂こうと迫る。


「俺だって、やってやるぜ!」

 パリスも弓を引き絞り、矢を射かける。


 だがレイヴォンは羽ばたきでそれを打ち落とす。

 ところが――落とされた矢の陰に、もう一本の矢が走っていた。

 それはレイヴォンの片翼を深々と貫いた。


 結の矢だった。


「普通の矢で影矢!? しかも他人の矢の裏に……!」

 あのヨイチでさえ見せたことのない業に、エレネが愕然とする。

「……私も、まだまだ彼女を過小評価していたかしら」


 地に落ちたレイヴォンへ、エレネが駆け寄る。

「ダイアゴナリー・スラッシュ!」

 剣閃が斜めに走り、片翼が切り落とされた。


 もがき叫ぶ怪鳥の咆哮が森を震わせる。

 これで充分にヘイトを稼いだはず――そう思われた。


 だが次の瞬間、レイヴォンは暴れ狂い、結とパリスにも爪を振るう。


「くっ! ランページだわ! 下がって!」

 ランページ――盾役泣かせの無差別攻撃。三人それぞれ、避けきれずに吹き飛ばされる。


 三人のHPゲージは一斉に10%を切り、警戒色の赤に染まった。


 パリスは弓を構え直そうとするが、膝が震え、狙いが定まらない。

 今、奴の怒りを買えば自分の命などひとたまりもない――それでも矢を放たなければ状況は変わらない。

 分かっていても、矢をつがえる手が震え、弓を引く力すら湧いてこなかった。


 しかし――


「こっちだよ!」

 結がすでに弓を構えていた。


 盾役のエレネと反対側に吹き飛ばされている結。

 誰も援護できない位置である。


 彼女は怖くはないのだろうか?

 パリスの疑問をよそに、結の矢が放たれる。


「正射必中!」


 蒼く尾を引いた矢は、レイヴォンの右目を正確に射抜いた。


 激怒した怪鳥が絶叫し、結へ一直線に突進する。

 思わずパリスは目をつむった。


 ――バシュウウゥーッ!


 耳をつんざく異音に恐る恐る目を開けると、レイヴォンは光の粒となって霧散していくところだった。


「なんで……?」


 目を凝らしたパリスの視線の先には、結の前で仁王立ちする弓具屋の店主がいた。


「うちのお客様に何すんだい、このカァー助!」


 ――そう、この世界で最強なのはガードではない。システムのご都合、殺されては困る販売系NPCである。

 販売系NPC たちはキャップを遥かに超えるレベル設定であるため、旧EOFでは誤攻撃の反撃で瞬殺されるプレイヤーが後を絶たなかったほどだ。

 ちなみに新生EOFでは、親密度が敵対的でなければ攻撃はスルーされる親切設計になっている。


「へへへ、私のソリューションもなかなかでしょう?」

店主のエプロンの影から、ドヤ顔をのぞかせる結であった。


* * *


 結の射を目の当たりにしたウッドエルフたちは、目を輝かせてざわめき立った。

 誰もが胸の高鳴りを抑えきれず、今すぐにでも弓を手に取りたそうにしている。


「先生、お願いします!」「早く引いてみたい!」

 声が次々と上がり、訓練場は熱気に包まれていった。


 パリスも腕を組んでそっぽを向いていたが、耳まで赤い。

(ちぇっ……負けたのは悔しいけど……俺だって、もっと上手くなってやる)

 内心では、誰よりもやる気満々であった。


 そんな期待の視線を一身に受けた結が、にっこりと笑う。

「じゃあ、まずは――」


 彼女がごそごそと荷物から取り出したのは、分厚い紙の束――弓道教本全四巻のコピーだった。


「まず座学から! 理論は大事だからね!」

 結が胸を張ってそう言った瞬間、場の空気が凍りつく。


 ぱら……ぱら……

 しばらくのあいだ、大妖精の黒い森には弓の音どころか、ただ紙をめくる乾いた音だけが響き渡っていた。


 難しい言葉がびっしりと並んだ分厚い書物は常に眠気を誘う。


「……先生、早く弓を……」

「いや、その……理屈も大事だけど……」

 文字がなかなか頭に入ってこないウッドエルフたちがぼやき始める。


 そして――


「先生……!! 弓が引きたいです……」

 パリスの目は涙でうるみ、完全に死んでいた……。


(おわり)


――第三十三話あとがき

最後まで読んでくれてありがとうございまーす!

次の『マジチー』は明日のクリスマスイブに閑話を投稿予定だよ。

クリスマス楽しみだねっ!

そちらも読んでくれたら嬉しいなー。


もし少しでも楽しんでもらえたなら、ブクマとかポイントとか……そういうのを入れてくれると、私の励みになりますっ。


基本は大事! 私のときは半年間、正座で座学だったんだから!

……でも泣かれちゃったから、次は矢数稽古一万射に進もうかなー?


あ、そうそう! ロングボウも結構いいねっ!

ありがとー、ロンくん!(もう愛称つけちゃった♪)

――結


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