第一話:Eternal Online Fantasy
仮想空間に設けられたオフィスは、一面灰色だった。
(ケチらないで植物オブジェクトとか設置すればいいのにな)
坂村健太郎、35歳。通称ケンタ。フリーランスのコンピューターエンジニア。
その日は、仮想オフィスでの仕事を3倍クロックで8時間……つまり現実の2時間40分で片づけていた。
「ふぁ……あー、つかれた……でも、今日だもんな」
仮想の椅子にもたれ、目の前に浮かんだコマンド窓を軽く操作する。現実世界で言えば、2040年4月1日。“新生EOF”……「Eternal Online Fantasy」の再始動日だ。
あの、かつて青春を捧げた名作2DMMORPGが、完全仮想空間化して復活する日。しかも今日は、記念すべき初日ログイン。
「よし、いくぜ!ゲームは1日1時間ってな」
VRゲームの時間加速は仕事モードより少し上がって5倍クロック、5時間遊んでも現実では1時間の計算だ。
仕事用の仮想オフィスから、EOFのゲートウェイへと切り替える。空間の解像度が一瞬ぼやけ、色彩が温度を帯びた。
白銀の空間に、ホログラムのようなアバターが浮かび上がる。「アバター設定」の窓が表示される。
「……ふむ。ハーフエルフ、ドワーフ、ノーム……バーバリアン、オーガ……。なんでもアリだな」
しかしケンタは迷わなかった。
「人間だ。なんにでもなれる未完成品。それがいちばん、バグに近い」
種族:ヒューマン。
ジョブ:クレリック。
性別:男性。
外見:20代後半の自分をベース。
「回復もできて、聖属性で魔法も撃てる。物理職はひとりじゃきついからな」
最後に名前を入力する。
『ケンタ』
旧EOF時代から使っていたハンドルネーム。かつてのギルド《トーチ》の仲間たちも、もしかしたら……。
「さあ、やるか。新しい世界を、しゃぶり尽くそう」
【ENTER】
視界が暗転する。
VRログインのプロセスは、まれに夢のような記憶を呼び起こすことがある。
脳が切り替わるその刹那、遠い昔の会話がふと浮かんだ。
──まだ駆け出しだった頃。深夜のオフィス。
「ケンタ、お前さ。コーディングで一番大事なことって、なんだと思う?」
「……アルゴリズムとデータ構造、ですか?」
「もちろんそれも大事だけどな」
カップラーメン片手に、先輩は灰を落とす。
「名前をつけることだよ。オブジェクトでもユースケースでも、意味のある名前を選ぶこと。
それができたら……八割くらい、うまくいくもんさ」
──そのときは、半信半疑だったけど。
今なら……なんとなく、わかる気がする。
「ん-……全然切り替えられてないな……」
そうぼんやりと思っていると、前方に虹色に輝く輪が感じられた。
音のない衝撃とともに、ケンタの意識はログインゲートを通過した。
* * *
西の人間都市セレノス。
セレネ神殿を中心とした商業都市で、中央大陸西海岸随一の港を有している。
活気に満ちつつも、生活感が漂う。
VR版となっても懐かしい街並みだった。
その中央広場──噴水のそば、訓練場の一角で何やら騒ぎが起きていた。
「で、なんでわざわざ弓なんか選ぶわけ?」
「え……?」
ひとりが鼻で笑って、肩をすくめる。
「いやマジでさ、ファンタジー系のゲームって弓弱いんだよな。マジで当たんねーし、スキルも発動遅いし」
もうひとりが続ける。やや意地悪な目で結を見ていた。
「しかも近づかれたら即死だろ? タイマンもレイドもお荷物枠。……もしかして、見た目で選んだエンジョイ勢さん?」
「なっ……ち、違うよ! 弓道やってて……だから!」
「ガチで弓道? なんかスゴそうっすけど、こっちじゃ飾りっすよね?(笑)」
茶色のポニーテールが揺れる。尖った耳がのぞくハーフエルフの少女は、初心者用のレザー装備に身を包んでいる。
プレイヤーネームは「結」。
目は真っ直ぐだったが、声はわずかに震えていた。
そのとき……
「お前ら、ヨイチも知らないのか?」
声は広場の空気を一変させた。
「なにそれ、NPC? どっかの雑魚?」
ケンタは静かにメイスを地面に立てかけた。
「おまえらこそ、初心者勢だってお里が知れるぞ」
声は低く静かだが、じわりと熱を帯びていた。
「EOFで最も恐れられた弓使いを……知らねえのか?」
小さく首を振る。
「技もスキルもいらなかった。ただ矢を引いて、ただ放つ」
「それだけで、誰よりも的確で、誰よりも決定的だった」
視線を二人に向けた。
「“その一射にすべてを込める”……そう言われた男だ」
「それを、弓が弱いって理由で笑えるか?」
沈黙が落ちた。
まわりから同調の声があがる。 「そうそう、ありゃすごかったな…」 「…初心者が初心者いじめてる。…カコワルイ」
男……ケンタは男たちがバツが悪そうに立ち去るのを腕を組んで見送った。
「……ありがとう。ちょっと、かっこよかったかも」
「俺はケンタ。クレリック。人間だけど回復とかできる」
「私は結。ゆうって読む。初心者だけど…」
すると結は的に半身で構え、弓をまっすぐ打ち起こした。弓道の射法である。 その流れはよどみなく会に至り、やがて甲高い弦音とともに矢が放たれた。 矢は一瞬の間をおいて的の中心を射抜き、心地よい的中音がケンタの元に届いた。
「弓だけが取り柄。よろしく!」
自慢げにドヤ顔を浮かべる彼女を眺めつつケンタは思った。
(そうか、ヨイチも弓道家だったのかな…。どこか同じ空気を感じる…。)
「おーっし、当たれーッ!」
次に結が放った矢は、かすかに逸れて標的の脇をすり抜けた。
「うぐぅ……惜しい!」と悔しそうに叫ぶ結に、隣でログ窓を見ていたケンタが苦笑する。
「弓道家ってそんなに一喜一憂しちゃダメなんじゃないのか?引く前にまず精神ゲージを意識しようか。ほら、心が乱れると狙いもブレる」
「むっ……あれだよあれ、風だよ! 火星の風ってクセあるから!……ほら、重力も地球と違うし!」
ケンタは肩をすくめ、視線を空へ向けた。
……その時だった。
空気がひび割れた。
音が消え、空の一点が黒く染まり、黒い球体が浮かぶ。
そこに現れたのは、名乗られずとも誰もが理解してしまった存在。
……《監視者A》。
「……全プレイヤーに通達する」
脳内に響く冷たい声。ログアウト不能。死亡=精神崩壊。これは訓練ではない。
「これ、エイプリルフールじゃ……ない、よね……?」
結の声が震える。ケンタは黙ってコマンド窓を確認し、ログアウトボタンが存在しないことを確認した。
「とりあえず、落ち着こう。パニックになった奴が最初に死ぬ」
「う、うん……でも、どうすれば……?」
「まずは生き延びる。そして、“誰か”と連絡を取る手段を探す。この世界には、抜け道がある。絶対に」
その直後、街の門の方角から小さな悲鳴が響いた。
警戒を強める暇もなく、街の秩序は静かに崩れ始めていた……
* * *
EOFには“キッズモード”が存在し、子供用の軽量アバターでも冒険を楽しめるようになっていたが、
その特典はほぼ消え去り、死=現実での精神崩壊という現実だけが突きつけられた。
門の近くで震えていたのは、子供プレイヤー3人組……男の子ふたりと女の子ひとりの兄妹だった。
その時、街の外から吠え声が響いた。ノールが1頭、都市の警戒網をすり抜けて突進してくる。
「きゃああっ!」
初心者たちは全員固まり、誰もが手も足も出ない。結も一瞬、弓を構える手が止まる。
だが……
結は深く息を吸い、静かに弓を打ち起こす。
ケンタはとっさに子供たちへ《Shield》を、結には《Calm》をかけた。
《Calm》は本来モンスターやNPCの感情を落ち着かせ反応範囲を狭くする魔法だが、プレイヤーにも精神を安定させる効果があるといわれている。
(やれるか……?)
ノールが迫る。獣じみた足音が地を揺らし、息のかかる距離まで近づいてくる。
その目前で、少女は一歩も動かず、ただ弓を引いていた。
――早く撃て。
誰もがそう思ったはずだ。隣でメイスを構えたクレリック、ケンタも同じだった。
だが結は、引ききった弓をぴたりと止めたまま、微動だにしない。風すら止んだような静寂が、時間の流れをねじ曲げていく。
ノールの咆哮が響く。
それでも彼女の目は揺れなかった。わずかに呼吸を整える仕草を見せただけで、構えはそのまま。
ケンタの足が一歩、前に出かける。
「……撃てよ」
思わず漏れた呟きに、返事はない。ただ弦に込められた力だけが、無言のまま臨界を保っていた。
そして……
矢が放たれた。
鋭い軌跡を描いたそれは、ノールの目の下にある急所へと突き刺さる。
「キャンキャンッ!」
ノールは尻尾を丸めて逃げ出した。
凶悪なモンスターのイメージを裏切るような、どこか犬っぽい動きだった。
街に静寂が戻り、子供たちがぱっと笑顔を取り戻した。
「おねーちゃん、ありがとー!」
その日から、子供たちは毎晩、彼女の訓練を応援に訪れるようになる……。
火星の空の下、出会いと、戦いの幕が、静かに……だが確実に、開かれた。
---第一話あとがき
ここまで読んでくれてありがとう。
この物語は、昔どハマりしたMMOと、
「もし仮想世界が現実になったら?」という技術者の妄想から始まりました。
久々にゲームの世界で動いて、ちょっとだけ昔を思い出した。
今日のお昼ごろには第二話も投稿される予定だから、
もしよければ、そっちも読んでみてくれると嬉しい。
---ケンタ




