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小説

去勢犬

作者: ちりあくた

 今の私は去勢された犬だ。飾り物のような短い尻尾をぶんぶんと振り回し、牢獄の中で矮小な体を晒している。人々が向ける視線は道化へのそれだった。同じ紅色の血が流れ、代謝や呼吸も等しくする同胞だというのに、まるでコメディータッチの風刺画を眺めるように私を笑う。


 餌は一日三回、背広姿の老夫がよぼよぼと来て、決まった時間に檻の隙間から差し出される。この五年間、メニューに変化は無い。朝はみじん切りにした人参を甘く煮たもの、昼は黒糖味の飴玉が三つ、夜は無造作に切られた野菜くずと何かしらの挽肉を炒めたもの。そのいずれも、ひたひたに牛乳を注がれた状態で出されるのだ。味は意外にも悪くない。要は慣れなのだ。挽肉炒めは牛乳を注ぐもの、そう思えるようになった途端に深皿を空っぽにできる。


 餌の量と質はいつでも保証されていた。人々の会話に耳を傾けると、やれ不況だやれ戦争だと、この世を蔑むような文言が聞こえてくる。それにも関わらず、彼らは餌に対し、何ら世相を反映させないのだ。いやはや、彼らには私を幽閉する罪悪感があるのだろうか。あるいは、餌の状態は彼らなりの義理を表しているのかもしれない。苦境の中でも私を見れば、たちまち人々の顔は緩み、目は細くなるのだ。まあ、結局私を牢に入れているのだ。どんな賠償も形式的なものだろう。


 そう、私のいる牢についても語っておこう。一方は鉄柵に、残りの三方と天井は茶けた煉瓦で覆われている。照明はなく、曖昧な太陽の光だけが頼りとなっている。床は少し湿った黒土で、寝具として麻の布きれが二枚、無造作に投げられている。牢の隅には用を足すための拳ほどの大きさの穴がある。覗いても底は見えない。排泄物の臭いが上ってこないのだから、底はないのかもしれない。まあいい。とにかく何も分からない事だけが分かっている。私の両隣にも牢があるのか、そもそも私の他に犬がいるのか、全てが未知である。五年前にここで目覚め、老夫に「お前は犬だ」と告げられ、以来私はこの牢で過ごしている。ただそれだけのことだ。


 檻は人々が行き交う通りに面している。開けた空間に石畳が敷かれていて、奥には灰色の建物が並んでいる。空模様は見えないが、大体は曇りか小雨である。日差しといえるほど目映い光は射し込んだことがない。それでいて雨がどっと降るわけでも無い。人々が傘を差す姿を見なければ悪天候に気づけないほどだ。


 そんなわけで、私は犬をしている。初めのうちは多々不安もあった。例えば、私は犬としてふるまうべきだろうか、芸の一つでも考案した方がよいか、そういった他愛のない考えである。「犬だ」と言われた者が犬らしくなくなった場合、果たして私はどうなってしまうのだろうか? あの頃はそういう疑問が常に脳内を占領していた。犬である私も、人間である通りの人々も、似た類いの懸念を抱いているかもしれない。彼らは度々こう口にするのだ。


「なるようになる」


 と、平坦な声色で。その言葉に感じたのは諦観であった。彼らが希望を抱くためのスローガンだったのかもしれない。だが、それは絶望を肯定する文言にすぎないだろう。死へ至ろうと、誰からも見捨てられようと、全ては物事の成り行きである。なるようになった結果、それが皆を不幸に貶めても、彼らは受容できるのだろうか?


 私は受け入れるだろう。いや、拒む手立てがない。

 檻から出る方法もなく、出たいと思うこともなく、出られる見込みすら潰えてきたのだから。


 実は三日前から、老夫の姿が見えなくなっている。当然彼が持ってくる食事も絶たれているわけだ。彼は亡くなったのだろうか。あるいは犬に三食の飯をやるだけの作業に飽いたのかもしれない。代役は手配されているのだろうか? そもそも私はいつまで犬をやればいいのだろう? いずれにせよ、このままでは飢え死んでしまう。


 意識は未だはっきりとしているものの、すでに立ち上がる気力はない。檻の隅で丸くなり、往来の人々を見つめることしかできないのだ。私へ視線をやる者はだんだんと少なくなってきた。むしろ目を背ける仕草が多いように思える。こんな姿で私は犬であれるのだろうか。犬とは、何をもって犬らしくあれるのだろうか。私の意義が人々の表情をほころばせることなら、すでに私は犬として死んでいる。


 ……だから餌が届けられなくなったのだろうか。死者に食料は必要ないのだ、当然の処置だろう。


 通りの人々が空を見やり、眉をしかめて傘を広げた。どうやら小雨が降り始めたらしい。私はひんやりとした黒土の温度を感じながら、弱りゆく鼓動の中で往来の石畳を見つめていた。雨粒がぽつりぽつりと表面に打ち付け、白色がぼんやりと灰色へ変じていく。私の胸中には一つの疑問が浮かんでいた。


 はて、私が犬として飼われていたなら……私のご主人は誰だったのだろう?

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