恋文
晴貴夫婦と恵夫婦が帰ってから、晴貴から電話があった。
「お母さん、今日はごめん。
綾には署名捺印するから判子が居るって三度ほど言ったんだけど……
あいつの頭には残って無かったみたいなんだ。」
「そうなのね。それで、夫婦喧嘩なんかにはならなかったでしょうね。」
「お母さん……ちょっとね。」
「ごめんなさいね。」
「お母さんが謝ることじゃないよ。……ごめん。」
「晴貴が謝らなくていいのよ。あの内容に納得してくれたんなら。」
「納得してるよ。お母さんのことは兄妹二人でちゃんと見るから安心して。」
「ありがとう。頼みますね。」
「うん。……あの日ね、あれから、めぐ、泣いちゃってね。」
「そうだったの……。」
「翔太君、大変だったみたいだ。泣き止まなかったから……。
母親の介護とか、死とか今は嫌だったんだと思う。
お父さんが亡くなって、まだ………めぐだけじゃないけど……。
お母さん、長生きしてよ。頼むから……。」
「まだ、早いわよね。せめて82歳まで生きていたいわ。」
「82歳?」
「そう、私の父が亡くなったのが80歳。
お義父さん、晴貴たちのおじいさんが亡くなったのが81歳。
晴貴たちのおばあさんが亡くなったのが82歳。
一番、長生きしたお義母さんの年までは頑張りたいわ。」
「うん。頑張って!
じゃあ、また電話するね。」
「はい。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
82歳まであと25年。
頑張って生きよう!
出来る限り子ども達の世話にならないように……
先ずは心と身体を健康に過ごさないと……
あの菓子箱を開けて見た。
私が若い頃に出した夫への年賀状、その下に夫が書いた手紙があった。
「これを読んでいるということは、この箱の存在を俺がお前に話したか……
若しくは俺が死んだ後か、そのどちらかだと思う。
沢山ある古い手紙は晴臣という人から愛子さんという人への恋文だ。
ラブレターなんていう軽い物じゃないと俺は思った。
恋文が一番相応しいと思った。
それで、俺もお前に書きたくなった。
愛する妻へ
いつもありがとう。
結婚してくれてありがとう。
美味しいご飯を作ってくれてありがとう。
子どもを産んで育ててくれてありがとう。
俺の親に優しくしてくれてありがとう。
長い時を共に暮らしてくれてありがとう。
面と向かって『愛している』と言う勇気はない俺だから
この手紙で『愛する妻へ』も恥ずかしくて堪らない。
でも、大内晴臣さんの手紙の『愛している』を読んだ時に
伝えたい人に伝えたい言葉を伝えないことは後悔するかもしれない。
そう思った。
だから、今、書いている。
ずっと愛している。
たぶん、これから先も……
たぶん、というのは、まだ死ぬ前ではないからだ。
先はちょっと分からないからだ。
でも、たぶん俺が愛した女性はお前だけだと思う。
お前と出逢ってからは……
その前は許せ! 変えられないからな。
お前にとっても俺だけがいい!
他を見るなよ。
晴臣さんのように格好よくは書けないけど、俺の気持ちは伝えた。
これから先も、ずっとお前と生きていたい。
俺の望みはそれだけだ。叶えてくれよ。頼む。
晴久より」
「なんか……下手すぎて笑ってしまうわ。」と言いながら、私は何度も読み返している。
そして、何度も夫が書いた文字を指でなぞってしまう。
そして、その度に涙が止まらなくなる。
夫がその人生でたった一度くれた私への恋文。
大切に、大切に、私の最期の日まで私の傍に、いつでも読めるように置いておく。
「愛してるわ。
私も貴方だけよ。
晴久さん。」
そう夫に言うように私は夫からの最初で最後の恋文を胸に当てた。
私にとって大切な恋文を………。