モイラ編02-20『パイモンとベリト』
3日目の夜。
宿に借りた多目的室の一室で、伊織は手元にある2冊の『グリモワール』を見つめていた。
グリモワール『パイモン』
グリモワール『ベリト』
伊織が『夜行教育』で学んだ内容によれば、バティム、パイモン、ベリトの三柱はソロモン王が使役した72柱の悪魔だ。
魔法書『レメゲトン』の第一書『ゴエティア』にはその詳細が記載されている。
先に配下に加えた悪魔『バティム』はルシファーと関係が深い悪魔だ。
そして目の前の書に記載された『パイモン』はルシファーの腹心ともいえる存在だ。
偶然か?
バティムは伊織に向かって言った。「ルシファー様」と。
先日、伏姫がバティムに見せた過剰ともいえる反応。
彼女は知っているのだろう。
伊織は鈍感ではない。
己の魂と融合した相手がルシファーと呼ばれる最上位の悪魔なのだろうと半ば確信していた。
とはいえ何故自分にルシファーが憑いたのかという理由はわからないし、そもそも実感がない。
だがフセはそれを隠そうとしている。
バレバレではあるのだが、まあ、彼女なりに。
問うたところで答えは返ってこないだろう。
ああ、そういえばもう一人、知ってそうな者がいた。
そこまで考えたところで伊織は問うた。
「レミィ、パイモンは召喚すべきだと思うか?」
その問いにレミィは瞬時に悟った。
伊織がルシファーの腹心である『パイモン』のみに限定して問うた、それはすなわち。
「マスターはお気づきになられたのですね。」
「まあ、ヒントが過剰すぎるからな?」
「お察しの通り、宇迦之御魂神様と運命の女神様の施術により、マスターとルシファー魂は融合しました。」
「そして俺は一命を取り留めた、と。ルシファーには感謝せねばなるまいな。いや、そもそも殺されかけていたのだから、礼は不要か?」
「・・・」
「だが、なぜフセは隠そうとするんだ?」
「マスターがそれを意識することで何が起こるかわからないと宇迦之御魂神様が仰ったそうです。
恐らくはそれが原因かと。
私がマスターに伝えなかったのも同様の理由です。」
「だが俺は知ってしまった。そして特に変化を感じない。さて、これはどう判断したものかな。」
「わかりません。ですが宇迦之御魂神の意見を伺うのは如何でしょう。」
「だが、どうやって」
「宇迦ちゃんだよ?」
「・・・」
「あれ?聞こえない?」
「いえ、拝聴しております。畏れながら、宇迦之御魂神様であらせられますか?」
「うん、宇迦ちゃんだよ。伏姫みたいに普通に接して?」
「では、その前に御礼の言上だけでも御容赦賜りたく願います。
臣の如きの命を救って頂いたばかりでなく、御自らの祝福まで授けて下さった由、恐悦至極にございます。
また、無精者にて御挨拶と御礼が遅れてしまいました事、伏してお詫び申し上げます。」
「彩葉ちゃんもそうだけど、君達の言葉は上辺だけじゃなくて、とてもよく響くよ。神々の扱い方をよく心得ている。」
「扱うなどとは。そのような事は余りにも畏れ多く。」
伊織は妖術によって神々の力を一方的に借り受けている。
ならば敬意払うのは当然のことと理解していた。
これもまた『夜行教育』賜物であった。
「それを心底本心で言ってるのだから大したものだ。言行一致の極みだね。
さて、こうやって徒然とお話しするのも僕の好むところだけれど、君は僕に聞きたいことがあるんだろう?」
「では、僭越ながら。」
「言葉。」
「・・・俺の魂がルシファー融合したと知ってしまった。今後の行動に支障はあるだろうか。」
「んー、見た感じ大丈夫そうだけどね。
まあ、あれだけタコ殴りにしたから上下関係がはっきりしたのかもしれないね。
おっと、これは君が覚えていないことだったよ。宇迦ちゃんうっかり。
ま、心配しなくても僕が時々観てるからさ、何かあっても何とかしてあげるよ。」
よくわからない件があったが、覚えていないことを突っ込んで聞く必要はない、伊織はそう断じた。
それよりも寧ろ、大きな疑問ができた。
「何故、そこまでしてくれるんだ?」
「かのルシファーが相手ということもあるんだけどさ。彼女と約束したんだよね。といっても僕からの一方的なものなんだけどさ。」
「それは詳しく聞いてもいい事なのか?」
「うーん、それは美しくないね。それも含めて、物語は君達が紡がなくてはならない。是非ともその瞬間を僕に魅せて欲しいんだ。それこそが君にできる僕への最高のご褒美だよ。」
「具体的なことはわからないが、いずれそれがわかるだろう事は理解した。」
「そうそう、僕に人間賛歌を聞かせて欲しいんだ。是非とも高らかに唄い上げてくれたまえ。君が人間かどうかは措いておくとして、ね。」
「微力を尽くすと約束しよう。」
「うんうん。じゃ、あんまり長居できないから僕はもう帰るけど、ヒルメの事、ほんの少しでいいから気にかけてくれると嬉しいな。」
「わかった。そちらも約束しよう。」
「それじゃ、またね。」
宇迦之御魂神の気配は返事を待たず消えてしまった。
「そういう訳だ。とっとと済ますとしよう。」
「イエス、マイマスター。」
「とはいえ従ってくれるものか。まあ、無理なら経験値にするだけだが。」
「マスター、『バティム』に説得させては如何でしょう。」
「そうだな。素晴らしいアイデアだ。」
「恐縮です。」
「だがレミィ、悪魔には君の元同僚もいる。何か思うところはないのか?」
「近い将来、私が堕天する可能性は否定できません。
つまり、私が彼らの同僚になるのです。
マスターのご懸念には及びません。」
「そうか、ならば後輩になる前にせいぜいこき使ってやるといい。」
「イエス、マイマスター。」
「では始めよう。
『妖牧場』出でよ、バティム。」
魔方陣から姿を現した男は即座に身構え、周囲を見回した。
「・・・いませんか。
おや、この度はルシファー様お一人で?」
恐らく、前回気絶させた相手を警戒したのだろう。
バティムは今も少し緊張気味のようだ。
伊織はもう自分はルシファーではないと敢えて否定する気は無くなっていた。
魂の一部がルシファーであることは認めざるを得ないのが半分、わざわざ否定するのが面倒になったというのが半分といったところだ。
「ああ。お前は『転移』能力を持っているというが、事実か?」
「如何にも。一度行ったところであれば可能でございます。
他の者を運ぶことは叶いませんので、私一人だけではございますが。」
「そうか、手紙を届けたい相手がいる。」
「まさかこの私に伝書鳩の如き真似をせよと?」
「不満か?」
「・・・」
「使えん上に命令に背く僕など害悪でしかないな。
直ちに契約を解除する。せめてもの慈悲だ。一息で送り還してやろう。」
伊織は背中から薙刀を抜き、魔力の刃を生成する。
契約に縛られた悪魔は主に嘘をつくことができない。
そして裏切ることはできない。
前者はともかく、実は後者はひどく曖昧だ。
悪魔は人の価値観では理解できないからこそ悪魔である。
裏切りという言葉ひとつを取っても、それぞれの認識に大きな断崖や落とし穴があっても何ら不思議ではない。
伊織は悪魔というものをよく識っている。
よって伊織は悪魔を信用も信頼もしない。
必要なのは使えるか、使えないかという線引きだけだ。
そして使えないと判断すれば、伊織は持ち前の冷酷さを存分に発揮する。
そんな伊織を見た瞬間、バティムは悟った。
全力で抗ったとてしても傷ひとつ付けることができないと。
魔界の公爵たる自身が『俎上の魚』に過ぎないのだと。
バティムは直後にも自分の首に刃が刺さる瞬間を想像し、反射的に声をあげた。
「お、お待ちを!
臣はルシファー様の忠実な僕でございます。
どうか、一時の気の迷いをお許し下さい。」
伊織は醒めた目でバティムを見下ろしている。
(このお方は私に微塵も興味を持っていない。)
彼のお方が自身に向ける目は『まな板の上の鯉』にも劣る。
永く仕えた敬愛すべき主から怒りや呆れを向けられるならば、己の無能を恥じ、甘んじて耐えよう。
だが無関心だけは耐えられない。
張り裂けそうになる心をなんとか押さえ込み、バティムは言葉を継いだ。
「お許しいただけるなら、私めが世界中の『グリモワール』を集めて参りましょう。
どうか臣に機会を賜りたく。」
伊織は『グリモワール』という言葉を耳にしたことで、ようやくバティムに興味を向けた。
「グリモワール以外にも召喚系の書物はあるのか?」
「申し訳ございません。浅学をお許し下さい。
その情報も含めて精査して参ります。」
「良いだろう。俺の役に立て。」
「はっ!」
バティムは自らの主を改めて心の底から畏れた。
かつてのルシファーも確かに容赦はなかった。
だがそれが輪をかけて凄みを増している。
魂が変貌し、頂点と思われたその位階をさらにひとつ昇ったのではないか思うほどに。
「ここに2冊グリモワールがある。」
グリモワール『パイモン』
グリモワール『ベリト』
「なるほど。これから召喚なさるのですね。」
「ああ、説得に協力できるか?」
さっきの今だ。
ノーという選択肢など望むべくもない。
「パイモンとは知己にございます。
ですが、彼女は自他ともに認めるルシファー様の信奉者にございますれば、臣の出る幕などございますまい。
ですが、ベリトであれば奴が欲する所を存じて居ります。臣にお任せを。」
「いいだろう。まずは『パイモン』を召喚する。」
伊織はグリモワール『パイモン』を手に取り、魔力を通す。
そして充分な手応えを感じた所で書を開いた。
頁を捲り、『パイモンの紋章』を探そうとした所で本から透明な触手のような物が飛び出して伊織の指を絡め取ろうとした。
だが、なにかに阻まれるかのように近づけない。
「阿呆、罠ぐらい警戒するに決まっているだろう。」
伊織は余りある魔力で以て、己の体を包み込む様々な結界を常時展開している。
視界の邪魔になる触手を時折指で弾きながらようやく目的の頁を探し当てた。
そして何の感情もなく破り捨てる。
切れが燃え上がると伊織の眼前に背中に黒い羽を備えた人影が現れた。
「幾久しく美しき魂が絡み合い互いを高め合う。
ああ、ルシファー様はパイモンの想像を簡単に越えてしまわれる。
どうか今世こそはお側にお仕えすることをお許し下さい。」
目を合わせた瞬間から忠誠心が振り切っている様子の『パイモン』を、伊織はまるで虫を観察するような瞳で眺めていた。
悪魔の戯れ言など一銭の価値もないとでも言わんばかりに。
「お前は何ができる。」
「無論、ルシファー様がお望みになる全てを。
敢えて申し上げるなら、神々との戦いに備えて『精霊』を従えては如何でしょう。
わたくし、パイモンであれば大精霊ですら旗下に加えてお見せします。」
「今のところ神々と戦う予定はないがな。」
伊織は嘘をつかない。
「ところで、お前は元主天使で間違いないか?」
「ルシファー様・・・やはり記憶を失われたのですね、嘆かわしい。
仰るように、パイモンは元主天使、つまりルシファー様と同じく堕天した身にございます。」
「お前は天使に思うところはあるか?」
「遥か昔の事に御座いますれば。
それにルシファー様のご記憶にはないかと存じますが、パイモンはルシファーと共にある為に堕ちました。よって特に天使に対し、恨み辛みなどはございません。」
なんとなくルシファーとパイモンの元の関係が見えてきた伊織は、伊織の知る真実を伝えてもよいだろうと思い直した。
「さてパイモン。
俺は夜行伊織とルシファーの魂が融合し、結果として夜行伊織の人格が表に出た存在だ。
つまり俺は自身を夜行伊織と認識しており、今後も夜行伊織として生きる。
俺はルシファーとして生きるつもりはない。
改めて問う。お前はどうしたい?」
「僭越ながら敢えて言わせて頂くとすれば。
貴方様は紛れもなく私の知るルシファー様であらせられます。
それひとつだけで臣の忠は貴方様のものです。
理解に苦しむところではありましょうが、わたくしは悪魔にございます。
所詮は人と悪魔の関係でありますれば、ご理解いただけることは叶いますまい。」
「なるほど、人の価値観で悪魔を測ることはできないと言いたい訳だな?」
「僭越ながら。」
「いいだろう。麾下に入れ。」
「はっ!
ソロモン72柱序列第9位上級悪魔パイモン、只今を持ちましてルシファー様の麾下に入ります!
並びに中級悪魔200体、下級悪魔400体を手足としてお使い下さいませ。
改めまして、どうぞ今後ともよろしく願います。」
パイモンが宣誓した瞬間、パイモンの書が黒く光る玉へと変化し、伊織の胸へと溶けた。
「改めて下知を下す。
精霊を集め、これを傘下にに加えよ。
但し、彼の地においての無用な混乱は望むところではないと心せよ。」
「はっ。今のところは、でございますね?」
「好きに解釈して構わない。結果が全てだ。必要なものはあるか?」
「ございません。では、早速参ります。」
パイモンは背中の黒い羽を羽ばたかせ、窓から飛び出してしまった。
「気の早いことだ。
まあいい、次もとっとと済まそう。
バティム、任せていいんだな?」
「勿論です。臣にお任せを。」
「では『ベリト』を召喚する。」
伊織はグリモワール『ベリト』を手に取り、魔力を通す。
先程と同じ手順で『ベリトの紋章』を探し当て、淡々と破り捨てた。
パイモンの時と違い、特にトラップは仕掛けられていなかった。
切れ端が燃え上がると伊織の眼前に腰の曲がった小さな老人が現れた。
「・・・まさか貴方様は。どういうことじゃ、バティム。」
「ルシファー様であらせられる。幕下に加わりなさい、ベリト。」
「なぜ儂が?」
「ここは『モイラ』です。」
「なんじゃと!」
「ここでなら貴方の研究も捗るのではないですか?」
「ぐぬ・・・じゃが、従うこととは別であろう。」
「少し考えればわかることでしょうに。素材は?研究場所は?」
「儂の研究に協力してくれるということか?」
「順番が逆でしょう?まずはルシファー様のお役に立ってみせなさい。」
「ふん、いいじゃろう。儂の錬金術をもってすれば容易いことよ。」
「では、ルシファー様と契約を。」
「ソロモン72柱序列第28位上級悪魔ベリトじゃ。
中級悪魔50体と共に傘下に入ろう。
今後ともよろしゅう。」
ベリトが宣誓した瞬間、ベリトの書が黒く光る玉へと変化し、伊織の胸へと溶けた。
「夜行伊織だ。ルシファーでも何でも好きに呼んでくれ。
錬金術が得意ということなら倉ぼっこの下に付けるか。」
「ほう。このベリトを下に付けるなど、余程の腕であろうな?」
「まだ何も作ったことはないな。」
「なんじゃと!?」
「まあ、まずは一緒にやって見ろ。しばらくやってそれでも気に入らんなら考えてやる。」
「やれやれ、妙なことになってしもうたわ。」
「ところで何を研究しているんだ?」
「『界渡り』じゃ。」
「それは世界を渡るということか?」
「左様。理論はほぼ出来上がっておるが、素材が足らんのじゃ。」
「あとでリストアップしておけ。お前の成果次第では探してやる。」
「おお、言うたの!ちゃんと聞いたからな!」
「ところで、お前は元智天使で間違いないか?」
「そうじゃが?」
「天使に思うところはあるか?」
「ない。儂は研究に没頭しすぎてじゃな。気づいたら堕天しておったわ。かっかっか。故に天使になぞどうでもよいわ。」
「そうか、ならばいい。『妖牧場』」
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『妖牧場』(1053/1057)
聖水精(0/1)
霊猪(65/65)
エインヘルヤル(猫獣人)(37/37)
犬塚信乃(1/1)
バティム(0/1) 中級悪魔100体 下級悪魔200体
パイモン(0/1) 中級悪魔200体 下級悪魔400体
ベリト(0/1) 中級悪魔50体
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(総勢1,000を越えたが、まだまだ足りんな。)
それからすぐにバティムは逃げるようにしてアイリスの町の魔法書店のコリンナ師まで手紙を届けるために飛び去った。
一度足を踏み入れたことがある場所にしか転移できない問い制限があるため暫くはちょっと早い伝書鳩でしかない。
本人が聞いたら憤慨するであろうが。
コリンナ師からの返事を伊織の元に届ければ、改めて彼による『グリモワール』探しの冒険が始まる。
彼の活躍がどこかで語られるか、それとも。
伊織はすぐに倉ぼっことベリトの顔合わせをした。
当然ながらクラは盛大に人見知りを発揮していたが、ベリトがお構い無しで自身の実験成果を語るうちに知らず知らずのうちに距離が近づいていった。
気質こそ大きく違うものの、興味を持つものは同じだ。
類が友を呼んで欲しいものだと思いつつ、ベリトの弾丸トークを背後に聴きながら、伊織は静かにその場を去った。
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ちゃむだよ? >_(:3」∠)_
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