モイラ編02-18『州立図書館にて/バティム』
ペイパル女史に通されたのは事務所の一室だった。
羊皮紙と紙とインクの匂いが混じった独特の香りは伊織にとって心が落ち着くものだった。
「封を切るから、そこに掛けて。」
「失礼する。」
伊織は倉ぼっこと一緒に長椅子に腰掛けた。
クラは少しは落ち着いたのか、興味深そうに室内を見回している。
ペイパル女史が手紙を読み進めるに比して、彼女の眉間のシワが徐々に深くなっていく。
それほど面倒事になる予感はしていなかったのだが、果たしてどうなるものか。
「これは、どう判断したものか迷うわね・・・」
眉間をもみもみしながらペイパル女史は憂鬱そうに手紙を眺めている。
やがて意を決したように真っ直ぐと伊織を見つめた。
「結論から伝えると、コリンナ師は『当図書館』と『王立図書館』に預けてある全ての本を貴方に託すそうよ。」
「どういうことだ?」
「どうもこうも、そのままよ。」
「さっきも言ったが、俺はコリンナ師とは一度しか会っていない。それは店主と客の関係でしかないんだ。決して親しい間柄ではないんだが?」
「さあ、そのあたりの事情は手紙には書かれていなかったわ。」
「手紙を拝見しても?」
「ええ、もちろんよ。」
手紙の内容そのものは至ってシンプルだった。
アリストロメリア州立図書館に預けてある本を、この手紙を持ってきたものに全て託す。
首都にあるという王立図書館についても同様のことが書かれている。
「コリンナ師の意図が見えんな。」
呟いた伊織に反応したのは意外にもクラだった。
「主様のことが気に入っただけなんじゃない?」
「そんな理由で高価な本を託すものか?一度会ったきりだぞ?」
「実は高価なだけでなく、国宝級の貴重な書物や『禁書』なども含まれているのです。」
ペイパル女史が伊織の認識違いを正すが、それがさら疑問を深めるのはある意味皮肉といえた。
「とりあえず預かって、コリンナさんに会いに行けばいいんじゃない?」
「それもそうだな。ペイパル女史はそれ構わないか?」
「受取証に記入いただければそれで構いません。ですが・・・」
「何か問題が?」
「ええ、コリンナ師から預かった『禁書』の中には『呪物』が含まれているのです。
それをどうしたものかと思いまして。」
「ほう、それは興味深いな。こう見えてそういった物には一家言ある身の上だ。是非とも拝見したい。」
「・・わかりました。少々お待ちを。」
「なんだか主様好みの展開になってきたね。」
「さすがはクラだ。俺のことがよく判っているな?」
「そりゃあ産まれたときからのお付き合いだしー。」
伊織とクラが呑気に会話を楽しんでいると、ペイパル女史が台車を押しながら戻ってきた。
台車の上には桐箱のようなものが仰々しい鎖でぐるぐる巻きに縛られている。
伊織は一目見てやばいやつだと看破した。
異能『鑑定』を所持するクラもよくない物を感じたのか、眉間に深いシワを寄せている。
「ここまでヤバいやつも珍しいんじゃない?」
「そうだな。あの時の村雨よりひどいな。
ペイパル女史も辛かろう。離れた方がいい。」
「ええ、以前はここまで酷くはなかったのですが。」
「聖別した鎖で封印していたのだろうが、限界がきているな。
鎖が黒く腐食している。」
「封印が解けるとどうなるのですか?」
「恐らくは・・・クラ、鑑定結果はどうだ?」
「『禁書 バティムの書』だって。」
「バティムというとソロモン72柱の悪魔だな。地球だけでなくモイラにまで出張しているとはな。忙しいことだ。」
伊織は『夜行教育』の一貫として天使や悪魔といった『西』側の教育も受けている。
それは『ソロモンの鍵』や『レメゲトン』、『アルマデル奥義書』など多岐にわたる。
また、伊織は完全記憶保持者だ。
つまりそれらを丸ごと記憶しているということであり、悪魔の名称や特性に留まらず、悪魔召喚と深く関わる『悪魔の紋章』の形でさえも完璧に記憶している。
「えっと、封印が解けるとバティムとその配下がいっぱい出てきちゃうみたいだよ!
大変だよ主様!」
「そんなところだろうな。
さて、どう料理してくれようか。
・・・ところでペイパル女史。」
「え、あ、はい。」
「この本の所有権はすでに俺にあるのか?」
「えーと。なんとかして頂けるならそれで構いません。」
「ならば封印を解くぞ。」
「え、主様、クラのお話聞いてた?」
「もちろんだとも。」
「どうしてそうなるの?」
「引っ捕らえて戦力を増強する絶好の機会じゃないか。」
「主様の発想って、いつもぶっ飛んでてクラにはよくわからないよ。」
「そうか?ふむ、どう説明したものか。」
「ううん。クラは難しいことはわからないから、もうやっちゃお?」
「いいだろう。とっとと済ませてしまおう。」
伊織はおもむろに立ち上がり、月読真言の詠唱を始める。
その行動に迷いはない。
「《我、夜行の血を以て『月読命』に畏み畏み願い奉る者なり》
《神意ありてこそ人成るは 人ありての神になり》
《聖域結界》」
伊織が展開したのは対悪霊・悪魔に特化した、『西』では神聖属性に分類される結界だ。
そこに月読による神名と真言の二重ブーストを掛け、もはや聖域を超えて神域に近い領域を展開していた。
低級悪魔程度ならば抵抗する暇すら与えず一瞬で蒸発させてしまうほどのものだ。
クラの報告によれば相手は公爵『バティム』。
それは最低でも上級悪魔以上の存在であり、低級悪魔のように一瞬で蒸発することはない。
とはいえその力を押さえることは充分に期待できると伊織は判断した。
(これで問題ないとは思うが、せっかく太陽神と知己を得たことだ。
ここはその御力を賜るとしよう。)
「《我、『天照大御神』に畏み畏み願い奉る者なり》
《ア・マ・テ・ラ・ス・オ・ホ・ミ・カ・ミ》」
天照大御神の神名に加え、その真言である『十言の神咒』を唱えたところでそれは起こった。
突如として床に魔方陣が浮かび上がり、魔力の束が逆巻く。
全く意図しない状況にも関わらず、伊織の反応は迅速だった。
それが召喚陣であると気づいた瞬間。
「《遮光結界》《遮音結界》」
直後に雷鳴のような轟音が轟き、視界が光で真っ白に染まる。
咄嗟に片目を閉じて半分ながらも視界を守ったものの、魔方陣の上には二人分のシルエットが見えた。
一瞬、両目とも潰れたかと思ったが、徐々に煙が晴れると、すぐにそれは間違いだと気付く。
確かにそこには二人の女性が立っていた。
伊織はすぐに膝をつき頭を垂れた。
予想した相手だとすれば片方はかのお方に違いない。
「天照大御神様、何をしていらっしゃるのですか。」
「えっと、ほら、急に呼ばれちゃったから、つい。」
「つい、ではございません。
これが分体でなく本体でしたら間違いなく『天部案件』でしたよ。」
「ご、ごめん。」
「意図せぬ形になってしまいましたが、降臨してしまったからには仕方ありません。予定が早まってしましたがこれはこれで悪くありません。
ところで、そこの貴方。」
「はっ。」
伊織の予想通り、片方は天照大御神らしい。
「忙しいところにお邪魔したことをまずは詫びます。
ほら、天照大御神様はお詫びもできないのですか?」
「え、あ、ごめん、ごめんなさい。」
「勿体無いお言葉。臣に詫びなど無用にございます。」
全く状況についていけない倉ぼっこだったが、天照大御神と呼ばれた少女にはなんとも言えないシンパシーを感じていた。
人見知りが激しい彼女には珍しく、「お友達になれそう?後でお話ししてみようかな?」と思う程度には。
「私達は隅の方に居りますから、貴方はいつも通り為すべきことを為しなさい。ほら、いきますよ天照大御神様。」
「う、うん。」
「恐れ入ります。すぐに片付けますので、しばしお待ちを。」
「よいのです。我々はいないものと思って構いません。勝手に邪魔をしてしまったのですから。存分に務めを果たしなさい。」
「有り難きお言葉。」
何が起きたかは何となくわかった。
天照大御神が伊織の術式を勘違いして降臨したのだろう。
御力を借りようとしたら本人自ら出てきてしまった訳だ。
だがまずは目の前の書を片付けよう。話は終わってからだ。
伊織は背中から杖抜き、おもむろに真っ二つに割った。
それは現世からクラが持ち込んだ伊織専用の薙刀だった。
慣れた手付きで片方を腰に佩き、右手に持ったもう片方に魔力を籠める。
ヴンッ、と低い音が鳴り、青白い刃が生成された。
そのまま桐箱をぐるぐる巻きにしている白銀の鎖を切り飛ばし、躊躇い無く桐箱を開く。
すると待っていたとばかりに中から黒い霧が吹き出すが、伊織は全く意に介す様子を見せず、刃で己の左手の平を斬った。
ぼたぼたと流れ落ちる血が『バティムの書』に降りかかると紅い煙が激しく吹き出す。
倉ぼっこの目には血が一瞬で蒸発しているように見えた。
しばらくすると煙は消え、頃合いと見た伊織は左手を止血する。
鈍く痛む左手の感覚を無視してがばりと書を開く。
瞬間、書の中から人影が飛び出てきた。
「ぐぉおおお、何をするのですか!痛い、痛ぁい!」
「『悪魔の紋章』からアクセスするまでもなく飛び出てくるとは、随分打たれ弱いようだな。
おい、こっちを見ろ。痛みから逃れたければ俺に従え。」
バティムはとにかくこの痛みから逃れようと声の方に振り返る。
そして驚愕する。
「なあっ!ル、ルシファー様?なぜ・・・」
「俺はルシファーとかいう奴じゃないぞ。」
「その魂は確かに、いや、混ざっているのですか?」
「さあな。それで、どうするんだ?」
「・・・いいでしょう。一部とはいえ貴方をルシファー様と認めます。
私はソロモン72柱序列第18位バティムです。
今後とも宜しくお願い致します。
我が配下、中級悪魔100体、下級悪魔200体。
何なりとご下命下さいませ。」
「本来の手順を随分飛ばしてしまったな。まあいい。」
伊織は浄化が済んだ『バティムの書』を開いた。
不思議なことに伊織の血は一滴も残っていない。
伊織はパラパラと頁を捲り、目的のものを探し出す。
手が止まった頁には『バティムの紋章』が記載されていた。
それを躊躇い無く破り捨てた。
切れ端は床に着くと同時に勢いよく燃え上がる。
炎が消えると、バティムの書が黒く光る玉へと変化し、伊織の胸へと溶けてしまった。
ポカンと口を開けたままの倉ぼっこが我に返り、伊織を掴んで揺さぶる。
「主様大丈夫?変なの食べてお腹痛くない?」
「ああ、問題ない。心配させてすまん。」
「ほんと?」
「クラに嘘はつかんよ。」
伊織はバティムへと向き直り、最初の命を下した。
「バティム、これで契約は正式に成った。
後日改めて呼び出す。それまでは『妖牧場』で待機せよ。」
「御意。」
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『妖牧場』(404/405)
聖水精(0/1)
霊猪(65/65)
エインヘルヤル(猫獣人)(37/37)
犬塚信乃(1/1)
バティム(1/1) 中級悪魔100/100 下級悪魔200/200
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改めて確認するとバティム以下300体の悪魔が確かに配下として加わっていた。
『百鬼夜行』も多少は賑やかになるだろう。
結果に満足した伊織は『妖牧場』の画面を閉じる。
「色々とあったが、まずはそうだな。
ペイパル女史。」
「え、あ、はい。」
魂が抜けたように呆然としていた女史にはコリンナ師の残りの本を持って来るよう依頼した。
ペイパル女史は特に何を言うでもなく、粛々と本を運び入れる人形となった。
まだ意識が現実に追い付いていないらしい。
その間に伊織は改めて天照大御神らに事情を聞くことにした。
「大変お待たせ致しました。
非才の身にも関わらず、高天原主宰神であらせられる天照大御神様の祝福を賜りましたこと、篤く御礼申し上げます。
また、無精者にて御礼の言上が遅れた由、申し開きもございません。
何卒、御寛恕賜りますよう、伏してお願い申し上げます。」
「い、いいの。私も楽しませて貰ったから。」
「お目汚しでなかったのでしたらよいのですが・・・僭越ながら、此度の御来駕の目的をお伺いしてもよろしいでしょうか。」
「えーと、その・・・」
なにやら言い辛そうにしているが、伊織は辛抱強く続く言葉を待った。
「きくりぃ・・・」
「はぁ、駄女神にしては頑張ったほうですかね。」
「もしや、菊理媛神様であらせられますか?」
「ええ。あ、ごめんなさいね。名乗っていなかったわね。」
「己の無知を恥じ入るばかりにございます。どうかお許し下さい。
また、菊理媛神様からも祝福を賜りましたこと、遅らばせながら篤く御礼申し上げます。」
「貴方は律儀ですね。
さて、此度の降臨の目的でしたか。
実は折り入ってお願いがあるのです。少々予定が狂ってしまいましたが。」
菊理媛神が流し目で天照大御神を見ると、彼女は居心地が悪そうにもじもじとしていた。
言葉を区切り、菊理媛神は伊織の様子を伺った。
これに対し、伊織は最低限とはいえ一応の予防線を張ることにした。
「この身に出来ることであれば宜しいのですが。最善を尽くしたく存じますので、臣にお聞かせ願えますか?」
伊織の答えに特に気を悪くした様子は見せず、菊理媛神は言葉を紡ぐ。
「誠に、心底、遺憾ながら、お恥ずかしい話なのですが、この引き籠りの性根を矯正するのに協力して欲しいのです。」
いくつか回答のシミュレートしていた伊織であったが、あんまりなこの言葉には流石に絶句する。
だが、何とか再起動し、疑問を口にすることができた。
「臣の記憶違いでなければ天照大御神様は第七管区裏九州が高千穂にて飛梅家がお祀り申し上げているものと思っておりましたが。」
第一管区裏関東では月読命を祀っている。
同様に各管区それぞれで祀っている神があり、天照大御神については伊織の言う通りだった。
「そうね。貴方の認識で正しいわ。そして横紙破りを懸念していることも理解しています。その上で無理を言っているのです。
私は貴方が相応しいと判断しました。異論があれば聞きましょう。」
逆の立場で考えてみればわかりやすい。
夜行家が奉ずる月読命がその夜行家を差し置いて他家に対してお願いしたならば。
控えめに言っても夜行家に面目は丸潰れである。それはもう、惨めなほどに。
相手が只人であれば「まずは筋を通して出直してね」と言えば済む話だ。
だが相手は神。しかも神の位階を超越した高天原の最高神こと天照大御神だ。
そして神が下々のつまらない見栄を斟酌する理由など微塵もない。
それらを踏まえて伊織は決を下した。というよりも選択肢がない。
「承知致しました。全霊を以て務め上げる所存です。
とはいえ、臣は何をすればよろしいでしょう。
非才なる臣にどうかご教示賜りたく。」
顔を伏せたままの伊織の心境は「すまん、姉上。飛梅家のことは何とかしてくれ。」だった。
対して菊理媛神はにこりと微笑んで続ける。
「この引き籠りを外に連れ出してくれればそれだけで構いません。」
「畏まりました。
天照大御神様、ご心労をお掛けすることも有るかと存じますが、ご理解いただけますか?」
「うん、頑張るよ。」
「良いことを思い付きました。
ここに居るのは天照大御神ではなくヒルメです。
よいですね、ヒルメ?」
「うん?いいよ。じゃあ、私はヒルメ。今後ともよろしくね?」
「この際です。ヒルメは下々の民の暮らしを学びなさい。伊織殿は言葉遣いも態度も普段のように戻して接してください。私に対してもそれで構いません。」
「承りました。ヒルメ様はそれで宜しゅうございますか?」
「うん。そうして。」
「わかった。では伏姫様と同じように接しよう。
菊理媛神様はこれからどうするんだ?」
「私も菊理で構いません。私は『モイラ』で見聞を広めて参ります。」
「えっ?私と一緒じゃないの?」
「先程も申し上げた通り、せっかく暇を頂いたのです。引き籠りの世話などする訳がないではありませんか。」
「きくりぃ。」
天照大御神は菊理媛神の着物の裾をしきりに引いているが、菊理媛神はそれを意に介さず伊織へと歩み寄る。
「こほん。伊織殿、こちらの契約書に貴方の名前を書きなさい。それから、左下に『菊理へ』と。」
伊織が顔を上げると、菊理媛神はずいっとサイン用紙に似た何かを差し出す。
伊織が言われるままに記入し、それを手渡すと菊理媛神は満足げに頷き、いそいそと大事そうにどこかにしまった。
「よいですか、これは先の件の契約書のようなものです。
くれぐれも天照大御神様を宜しくお願いします。」
「ああ、最善を尽くす。」
菊理媛神は薄く頷くと、天照大御神に向き直る。
「天照大御神様はいい加減、キクリ離れをしなくてはなりません。」
「・・・うん。」
「いいですか、郷に入れば郷に従えといいます。ちゃんと下々の者の言葉を吟味してご自分で考えるのですよ?」
「うん。」
「悲しいことがあっても引き籠るだけでは何も解決しません。まずは伊織殿に相談して下さいね?」
「うん。」
「それから・・・」
恐ろしく口が悪い菊理媛神だが、その本音は過保護で心配性であるようだ。
そんな二人の様子を生暖かく見守りながら、とはいえどうしたものかと伊織は頭を悩ませていた。
「お、終わりました。」
伊織が思考の海に沈んでいると、ペイパル女史が作業を終えた。
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ちゃむだよ? >_(:3」∠)_
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