第9話 その後7
目の前のアドンは鳥豆料理を実に美味しそうに食べている。その姿を眺めることしか出来ない。
なぜ?
どうして?
意味が分からない。
平民だったアドンが公爵の白衣に金糸銀糸の刺繍……。私は真っ青になっていたがポツリと彼の名前が口から出る。
「アドン──」
それに反応してアドンはギロリと私を睨んだ。
「ジュラルード伯夫人。私は君にファーストネームで呼ぶことを許してはいない」
「あ、も、申し訳ございません!」
「君は畏れ多くもリックラックの前にいるのだ。控えたまえ!」
「あ、あ、あ、罪深いことをしました!」
私は立ち上がってその場に跪き、平身低頭だった。回りにいる使用人たちもどうしてよいか分からずに、ただオロオロしているので、アドンはみんなに落ち着いて部屋から出るように指図する。
怖い。恐ろしい。アドンと二人っきりになってしまった。
あの時の私は、アドンを傷付けたばかりか、あの場所に置き去りにした。そのアドンが今、権力者となって私の前にいる──。
その彼が椅子の音を立てて立ち上がり、私の前に来て見下ろした。それはあまりにも恐ろしい顔だった。
「ジュラルード卿とその夫人はやってはいけない罪を犯した」
「は、はい」
「私が死に勝る苦しみを受けている間、君たちは贅沢を楽しみ、自分だけの快楽を楽しんだのだ」
「は、はい」
「ジュラルード伯夫人。だが私はそれを許そう。君には明日より私の身の回りの世話を命じる。誠心誠意勤めたまえ」
「あ、あの……はい、ですが……」
「拒否は出来ない。私は君の息子に金を貸しているし、叔父のマクエガー子爵には仕事を与えている。それに益体なしの君の夫を支えるためには金貨百枚の手当ては必要だろう?」
「え、ええ」
「ふうん。なかなか物分かりがよくなったな。では今日はマクエガー子爵とともに帰りたまえ。明日から六時に出仕せよ。帰る時間は私が良いと言うまでだ」
「は、はい」
「私のことは夫に言ってもよいが、言ったらただ君の足を引っ張るだけだぞ。役に立たないくせに、君の邪魔ばかりすることは調べがついている」
「は、はい……」
「ではご苦労。下がってよろしい」
「は、はい」
「『はい』ではない。『ありがとうございます』と言って、私に背中を向けずに去るのだ! そのくらいの礼も知らんのか!」
「も、申し訳ございません。あ、ありがとうございます。閣下!」
私はアドンに言われた通り、彼に身体の方向を向けたまま押し下がり、ドアでまた礼をして部屋の外にでた。その頃になると全身から滝のような汗が流れていることに気付いた。
部屋の外にはたくさんの使用人が控えていた。彼らは部屋の中のアドンに呼ばれて入っていったが、数人が残って私のことを心配そうに見ていたので、気を張って訪ねた。
「なによ。どうしたというの?」
「あのぅ、ジュラルード夫人。閣下は普段はあのようなかたではありません。非常に気さくなかたで誰にでも優しく、冗談を言って笑わせてくれたりします。その閣下があのように振る舞うところを見たことがありません」
確かに。言う通りだ。アドンは誰にでも優しくて、老人の手伝いをしたり、子供たちと遊んであげたり……。特に私をことを気遣ってくれていた。
優しい、優しい人だったわ。
「そう。では私だけ特別扱いだと言うことじゃないかしら?」
そう笑ってやった。私がアドンにとって最大の罪人だなどと誰にも知らないように。
マクエガー子爵は、もう食事が終わったのか、と聞いてきたが、当たり前だわ。皿の数が二つしかなかったもの。
さらに、閣下を怒らせてしまったのではないかと心配してきたので答えた。
「大丈夫です。明日は朝六時に出仕するように言われました」
「おおそうか。身の回りのお世話だったな。忠勤に励みたまえ」
マクエガー子爵に馬車で送られ、屋敷に帰ると、シモンは酒を飲みながら心配そうに私を見ていたが、公爵のことはなかなか聞けないようだった。
「シモン。大丈夫よ。明日は六時に出仕しなくてはいけないから、もう寝るわね」
「あ、あの……、ミウ?」
「なに?」
「仕事なぞ辞めてしまえよ」
「どうして? 仕事をしないと生活できないわ。あなたの飲んでいるお酒も、お金で買ったものですもの」
「し、しかしまだ金貨は残っている」
「あのねぇ、それでも増えなければ減る一方なのよ?」
するとシモンは立ち上がって私に抱きついてきた。
「ああ、ミウ。どうか私を見捨てないでおくれ。公爵は私よりきっと優れた男だろう。彼は君の美貌の虜になってしまったらどうしよう。君が彼のものになってしまうことが怖い。とても怖い!」
「な、なぜそう思うの? 私の夫はあなただけよ、シモン」
「な、なぜって……」
私たちは見つめ合ったまま動きを止めてしまった。
なぜなら、私は一度夫を裏切ったから──。
シモンはそう言いたいのだ。自分が見捨てられるだけの役立たずだと知っているのだ。
シモンはそのまま私を抱いた。自分の物であることを主張するように──。
終わった後、私はシモンの髪を撫でてやった。結婚してから数年しか経っていないのに、ずいぶんと髪は痛み、小太りになってしまったものだ。
贅沢や酒は彼の身体を蝕みつつあるのだろう。それは私だって同じだわ。人は少しばかり苦労して生きないとダメなのだ。
次の日、朝四時に起きて支度をした。いつ帰れるか分からないので、シモンの夜までの食事を作って家を出ると、そこにはすでに朝もやに包まれた公爵家の馬車が停車していた。
私は使用人だというのに、とても立派な馬車で驚いた。御者はすぐに乗るように言うので、それに飛び乗った。
お屋敷に着くと、四人の侍女が駆けてきて、私にお仕着せを着せ、アドンの部屋へと案内しながら言った。
「夫人。閣下は夫人一人に世話を任せるように言いました。閣下がお起きになったら、カーテンを全て開けてください。ベッドから足を下ろしますので、それを蒸したタオルで拭いてマッサージしてあげてください。その後はお髭をお剃りあそばして、次はお着替えです。お寝巻きを脱がして、下着から上着まで選んで差し上げてください。それからは何か言い付けられるまで待機してくださいね」
「わ、分かったわ」
私は寝室の裏の小さな扉から入れられ、アドンが起きるのを待った。昔は髭のある顔を見ていたが、今では髭はないのだ。あの頃は刃物の手入れをする余裕などなかったものね。少し伸びたら、商売道具の剪定鋏で切っていたことを覚えているわ。
そのうちにアドンのまぶたが揺れて彼は目を覚ます。その彼と目があった。アドンは優しく笑って私の頬に手を伸ばした。
「おはようミウ……」
しかし血相を変えて手を引っ込め、飛び起きた。
「な、なにをやっている、ジュラルード伯夫人! さっさとカーテンを開けるのが君の仕事だろう!」
「は、はい! 申し訳ございません!」
私は飛び上がって大きな部屋のカーテンを全て開けた。一人にはこの部屋は大きすぎる。カーテンを開けきる頃にはアドンはさっさと自分で着替え終わってしまった。
私は言い付けられたことの一つしか出来なかったので、お詫びを申し上げた。
「も、申し訳ございません。閣下」
「君は金貨百枚の価値を理解していないね、侍女に自分の仕事を言われただろう? その一つしか出来ないなんて、意識が足りないのだよ!」
私は頭を下げるしか出来ない。アドンはただ私に復讐したいだけなのだ。なんでも言いがかりをつけて、私を叱り飛ばして溜飲を下げたいのだわ。
負けてたまるもんですか。