第8話 その後6
それから数日後、マクエガー子爵は血相を変えて飛び込んで来た。なんでもリックラック公爵は、あれは別に冗談などではなく、鬼畜じゃあるまいし人様の奥方に手を触れるわけもない、という回答を貰ってきたので、私はリックラック公爵の都のお屋敷へと出向くこととなった。
前に公爵を見た時はなんとステキな人だろうと思ったが、もう腹は決まった。私はシモンと人生を共にする。
もしも公爵が私に不貞を働こうとしても……。
抗えるのだろうか? 相手はこの国の三分の一の領有者で、若くて美男と来ている。
私自身を分析すると、そう言う男に惹かれる傾向があるのだ。
しかもシモンはあの通り──。
いや。もう止めよう。アドンの時で懲りたはずだ。もしも今もアドンと一緒なら、きっと今より楽しい平民の生活をしていたのではないかと夢に見る。
私はあの時、アドンの手を放すべきではなかったのかも知れない──。
ふっ。すべて繰り言だわ。
アドンは私に捨てられて心が壊れてしまったに違いない。そんな私が今度シモンを裏切るなら、天国の門は目の前で閉じられ、永遠に地上を彷徨うかもしれない。
リックラック公爵のことは金貨百枚として見ればいいのだ。そして金に忠誠を誓う。
お金がたまれば、マクエガー子爵の庇護から抜ければいい。ブライアンにお金を返して、私たちは都にそれなりの屋敷を建てよう。
月々の報酬、金貨百枚にはその力があるんだもの。
公爵の身の回りの世話、望むところよ!
◇
すぐにマクエガー子爵に連れられて、リックラック公爵に面会しに行くことになった。とても緊張する。
当たり前だ。思えば平民だった私が、こんな最上級の貴族と面会出来るなんて、恐ろしくあり得ないことだろう。
私たちは執事に応接室に案内され、そこで待機していたが暫くすると、マクエガー子爵だけが呼ばれて、ドアを出ていった。
結構な時間が経過して、胸だけが激しく鼓動する。そんな中、マクエガー子爵は困った顔をして帰ってきた。
「のう、ミウ……」
「な、なんでしょう?」
「閣下は前に、君には触れたりしないと言われたが、今から二人で食事がしたいとおっしゃるのだ」
「二人で……ですか?」
「うむ。私には帰ってよいと仰られたが一両の馬車で来たと言うと、別室で食事をして待機しているようにと言われたのだ。公爵と言えども独身男性が既婚女性と二人で食事したいなどと、あまり感心しない。君はどう思う?」
私も少し引っ掛かるところがあったが、ここまで来たらわがままなど言ってられないと思った。
「そうですか。しかし公爵さまのご意向なのでしょう。私はお請けしますよ。それに回りには使用人も居られるのでしょう?」
「たしかに。それはそうだ。間違いは起こるまいとは思うが……」
「でしたら大丈夫です。それに私はもと平民ですよ。強いんですから。公爵さまが襲いかかってきたら肘鉄を食らわせてやりますよ」
「そうか。だが暴力はいかんぞ?」
「正当防衛ですよ」
「ふふ、それもそうだ」
やがて係のものが来て、私を呼び食事の場へと連れていってくれた。
そこには白いクロスがかけられた円卓が用意されており、中央には輝く銀の燭台。色とりどりの花が飾られて、伯爵家とは相当格が違うと再認識した。
しかし円卓。これは距離が近すぎる。互いに手を伸ばし合えば中央で指を交差することができる。まるで夫婦が会話を楽しめる距離感だった。
だがそこには公爵さまは居らず、執事が私に暫く待つように言ってきたので尋ねた。
「あのぅ……。公爵さまは、こんな風に女性とお食事を楽しむのですか?」
すると執事は澄まし顔で答える。
「いえ。ジュラルード伯夫人が初めてです」
「え? 私が? なぜ公爵さまはこのようなことを?」
「閣下は昔、なくなった愛する奥さまとこうして食事なさったそうです。それを再現したいようです」
「ええ? まさかどうしてです? 私はそれに適当な人物ではありません。ご辞退申し上げたいのですが」
「いえ。あなたは閣下の意向に逆らえません。すでにお仕事は始まっているとお考えください。それに閣下は女性を無下に扱ったりするかたではございません。どうぞご安心を」
安心など出来ない──。私が奥さま以来、初めての食事の相手ですって? それが正直な思いだったが、それを仕事と割り切れというのならそうなのかもしれないと腹をくくった。
暫くすると両開きのドアが使用人たちによって同時に開かれ、公爵さまが現れた。彼は白い衣装に金糸銀糸の刺繍が施された装いをしていて、光がそれに反射してとても眩しかった。
私は立ち上がってカーテシーをとってご挨拶を申し上げた。
「あ、あの、閣下におかれましては日々ご健勝のこととお慶び申し上げます。リックラックに栄光あれ!」
彼は首のスカーフをいじって、指で座るよう指示しながら言う。
「数ヶ月前に沿道で会ったな」
その言葉に、ドキンと胸が跳ね上がった。やはりあの時、公爵は私を見ていたのだ。しかしどうして私をジュラルード伯夫人だと?
考えが追い付かない中、公爵から命じられた執事が寄ってきて椅子のサポートをしてくれたので、上手に座ることが出来た。
公爵はそれを見届けてから指を鳴らす。
「食事の用意を」
すると一斉に慌ただしくなり、使用人たちが入ってきた。食器やナプキンが並べられて行った。
公爵の侍女は、彼の衣服が汚れないように二人がかりでナプキンを膝にかけていた。
その時の私は公爵さまは普段どんなものを食べられるのだろうと期待していた。
横の皿に温かいスープが注がれ、目の前に大皿が置かれる。私はそれに目を見張った。
「これはその名の通り、鳥のような形をしておる」
と言う公爵の声──。私の目の前がぐらりと揺れる。
──これってホントに鳥みたいな形してるな──
毎日聞いたそのセリフが頭を巡る。
それは鳥豆の煮物に、鳥豆の葉のスープだったのだから。
私が躊躇していると、スープを一口飲んだ公爵はすぐに料理長を呼んだ。料理長は恐れ入って平伏している。
「スタン。どうして命じた通りに作らない。これには鶏ガラと他の野菜の出汁が入っている」
「いいいい、しかし閣下に豆の葉と塩だけのスープなど出せません……」
「分かっている。君の忠義の心なのだろうが、私にとっては大事な料理だったのだ。忠実に再現して欲しかったな。下がっていいぞ」
「あ、ありがとうございます……」
料理人は畏れ入って下がって行く。私は呆然と公爵の顔を見つめた。
それは口ひげをきれいさっぱり剃りあげたアドンだったのだ。