第15話 その後13
そして次の日。私が出仕すると、アドンの部屋ではなく、休憩室に通された。
意味が分からずに待機していると、アドンは起きて私を呼んでいるということだった。
なぜ? どうして?
私に朝の仕度をさせてくれないの? 私がアドンの部屋に行くと、アドンの部屋にはステラ一党で埋め尽くされていた。だが、アドンは人払いをして、みんなを追い出して私を近くに呼んだ。
私は震えながら訪ねた。
「か、か、閣下。一体どうなさいました?」
「うむ。来るべき時が来たというか……」
彼は困ったように押し黙って、少し時間が経ってから、ようやく口を開いた。
「陛下は私にロザリー王女殿下を降嫁なさるとおっしゃってな。私もようやく独身から脱出だよ」
私の唇が震えた。分かっていた。この時が来ることが。
おそらくアドンの元に、王室より私を使うなとのお達しが来たのだろう。『醜聞の夫人』を側に置いておくとは何事だ、と。昨日のお召しはきっとそれだったのだ。
泣いてはいけない。この日が来ることは分かっていることだったのだ。だから私は答えを用意していたのだ。
「それはそれは閣下」
私はお仕着せの膝の部分を取ってカーテシーをする。
「おめでとうございます。リックラックに栄光あれ!」
腰を九十度に曲げて深い、深い、礼。
私の顔が床に近い。その床が見えない。滲んで見えない。滲んで──。
「ありがとう、ジュラルード伯夫人」
アドンは立ち上がり、私に背中を向けて窓に近付いた。お陰で顔を上げて涙を拭くことが出来た。
ああ、アドンはロザリー王女と人生を共にする決断をしたのだわ。それで全て忘れてください。
あなたに短い時間妻がいたことなど。あなたは潔癖な人です。真面目で実直。誠実で魅力的な人。
きっときっとロザリー殿下は、あなたを気に入るわ。あなたはロザリー殿下の名前を呼んで、その唇にキスをする。私にしか許さなかった唇を。
そしてロザリー殿下はあなたの子を宿すのだわ。次の令嗣さまを。
本当に、本当に、おめでとう。
「一緒に逃げよう」
ああ、あの時。どうして私はあの手を振り払ったのかしらね。馬鹿でどうしようもない。涙が溢れて止まらない。
ねぇ、閣下。聞いてください。私、本当はシモンのことなんて大嫌いなんです。あんな益体なし。
そんなこと、大声で言ったらどんなに楽になれるでしょうね。
ベッツィやステラのように。身分を越えて抱いてくださいって言えたのなら。私もどんなに楽か分かりません。
彼女たちのほうが、よっぽど私より勇敢で魅力的でしょうね。
私の近くに足音が近づく。こんなぐしゃぐしゃな顔、見られたくないのに。
「なぁ、ジュラルード伯夫人」
「は、はい」
「すまんが、ロザリー殿下が嫁いでこられるのに、君がいられると困るのだ。今日限り任を解く。突然の事なので、退職金は多めに出させて貰うよ」
「あの……、それは、どうして……?」
「新しく妻を迎えるのに、置いてはおけないだろう……?」
「な、なにをですか?」
「だから、それより好きな……、分かるだろ……。私は窓の外を見ているから、その間に出て行ってくれ」
「はい……。お世話になりました」
「君といれた僅かな時間が私にとって……、いやもう言うまい」
アドンは足音を高くならして窓に近付いて行く。私はアドンの背中を見ながらドアのほうへと押し下がる。その背中が、閉じられるドアの向こうに消えて行く──。
閉じられるドアの音。私のその回りには、あの侍女たちが立っていた。私は気丈に胸を張った。
「満足でしょうね。醜聞の夫人がお役御免になったのだもの」
「ええ、そうね」
そう言うステラはいつものようにツンと鼻を上げて私の横を通り過ぎて前に出ると、彼女はその鼻の角度を少し下げて、もう一言追加した。
「寂しくなるわ──」
それは戦友に贈る言葉なのだろう。彼女は、ロザリー殿下に仕えなくてはならない。彼女にとって一番の敵に。
今度は私のようにイヤミを言うわけにいかないものね。
ステラ。あなたも大変な道を選んだものね。私も寂しいわよ。頑張ってね。
◇
私は退職金の入った金貨の箱を持って、家へと馬車で向かった。これだけあればなにか事業が出来るかもしれない。
またマクエガー子爵にお願いしなくてはならないわね。
ふぅ。問題はシモンだわ。まぁ自分が働かなきゃいいんだから、事業にお金を融資して責任のないポジションでも貰えばいいのかもしれないわ。
家に到着すると、なにやら騒がしく、街の人々が集まっていた。私が近付くと、執事が慌ててやって来たのだ。
「奥さま、旦那さまが……」
「え!?」
家に入ると、シモンは自室で首を吊っていた。遺書には、私が不貞を犯しているのを見るのが辛い、公爵が権力を笠に私を奪い去ってしまう前に死ぬ、と。
はぁ、シモン。あなた、死ぬ勇気はあったのね、まったく呆れてものも言えないわよ。何度違うと言っても、妻を信用できないんだから、あなたとこれ以上いても、きっと元々ダメだったのよ。
せっかくこれからは毎日一緒にいれたのに。なんてタイミングの悪さ。あなたには涙一滴も出ないわ。
私は遺書をそっと暖炉の火に入れてしまった。
◇
シモンは高級な白い柩に入れて、遠くジュラルード伯爵領まで運ぶことにした。
喪主はルーイ四世。つまり私たちの子どもブライアンだった。彼は執事のウォーレンを横に置いて、聞きながら立派に喪主を勤めた。
何より泣いていたのは、叔父のマクエガー子爵で、『シモンを殺してしまった!』と崩れ落ち、もはや腰も立たないほどだったので、埋めるときに立ち会えなかった。何もマクエガー子爵がシモンを殺したわけではないのに。罰とはいえ、領地を取り上げたことを悔やんでいたのであろう。
彼はどこかでシモンを許し、ジュラルードに帰れるようにしたかったのかもしれない。
息子のブライアンは、私も一緒に屋敷に住むように言ってくれたが辞退した。もう私は次にやりたいことがあるんですもの。
◇
私は歩いて帰っていった。
アドンと暮らした小屋のような家に。その回りは草だらけで、家はお化け屋敷のようになっていた。
私はたすきを巻いて、庭を掃除する。家の中を。ベッドの回りは念入りにした。
そして白い花をたくさん摘んで、ベッドの回りにたくさん撒いたのだ。
もう、私の旅は終わった。せめてシモンが生きていれば、いずれ仲が回復して、少しでも生き甲斐があったのかもしれない。でも、そのシモンももうこの世にいない。
いや。それはマクエガー子爵と同じような繰り言だ。シモンの性格ならば、きっと私は嫌気がさしていたでしょうね。ふふ。今更ながら、なぜあの人に惹かれたのでしょうね。不倫までして、馬鹿なことをしたものだわ。
私は、ただ一点、ベッドを眺めていた。
利き手にはナイフを持っている。このベッドの上で、アドンとの思い出を抱いて死にたい。
これを見た人は、私がシモンの後を追ったと思うでしょうね。そしたら美談になるかしら?
まあそしたら少しはジュラルード伯爵家に貢献できるかしらね?
ミウ・ジュラルードは婦道を貫いたとして──。
でもね、それは違うのよ。
ここは私とアドンの聖域。
そんな勝手なこと言えた義理じゃないけど。だってこのベッドの上でシモンと抱き合っていたんだものね。
でもね、やっぱりアドンとここで生活を共にしたんですもの。
楽しかった、あの時と彼を思いながら死ぬことを許してちょうだい。
私の胸の中には止まない雨がずっとずっと降り注いでいる。
アドンが私以外の人と結婚すると聞いてから。
ねぇアドン。私、あなたが与えてくれたあの仕事がとても好きだった。だってそばにあなたがいたのだもの。
あなたにもう会えない人生なんて──。
アドン。どうか幸せに──。
私はナイフを喉に突き立てた。