第13話 その後11
アドンは数日のうちに、ベッツィを呼んで暇を取らせた。若い男爵の嫁という破格の条件であった。
ベッツィは「ありがとうございます」と涙声でお礼を言い、気丈に公爵家を出ていった。
だが私はどうなるのだろう。私の仕事はそのままだった。アドンはそのうちに、王女さまを娶り、私にその世話を命じるのだろうか?
彼女の閨に行く前に私に身体を拭かせ、絹の寝巻きに着替えさせるのだろうか?
ベッツィだったら、それをやってのけただろうか? 恋するものにとってこれ程苦しいことはないわ。
「やあごらん、ジュラルード伯夫人。モンテロの木につぼみが出来てる。今年はずいぶん早咲きだよ」
「本当ですわねぇ」
いつものように私たちは庭園を歩く。二人で歩く姿は主人と使用人には余り見えまい。
アドンは白衣と金と銀の刺繍がある服を着て、私はお仕着せを着ていても。その上っ張りを取ってしまえば、我々はなんの格差もない裸と裸だ。それがこの距離感で歩けば、恋人か夫婦であろう。
アドンは楽しそうに庭木を剪定し、大振りの花を眺めていた。その時、花がぷっつりと取れてしまい、アドンの手の中には美しい花が残ってしまった。
「あ、しまった」
「あら、お気に入りでしたのに」
「これは悔しい、もったいないことをした」
「その茎の短さでは花瓶にも挿せませんしね。お捨てになるなら侍女を呼びましょうか?」
「なに。それには及ばぬ」
アドンは私の耳の上の髪に、そっとその桃色の大きな花を挿した。
「うん、これでよい。似合っているぞ、ジュラルード伯夫人」
私の胸はとたんに高鳴ってしまった。
ああ、アドン。あなたはなんという罰を? 私とシモンを許すと言っておきながら、あなたはこうして私の心を搔き乱す罰を贈るのだわ。
朝から夜まで、ずっとずっと側にいる罰。それは夫婦よりも長い長い時間。まるで支え合う老夫婦のように側にいて……。
でも身を触れることは決してない。キスはおろか、手を繋ぐことだって。
こんなことされたら、私は、私は……。
私はアドンの胸に飛び込んでしまった。五年前に自ら拒否したこの胸に。
ああ、身分も着ている服も違っているのに、僅かに香る匂いはやはりあなたなのだわ。
あの時は草花にやる肥料の匂いまでついていて、私は嫌がったのに。
「どうしたんだい? ジュラルード伯夫人?」
私の頭の上から、吐息と共にアドンの声が降ってくる。しかし突き放されない。私はそのままだった。
「ああ、アドン。もう許してちょうだい。私はあなたを裏切り、夫のある身なのに、ずるいわよ。どうしてあなたは私の中に入ってきてしまうの?」
私はアドンの上着を掴んで聞こえるように言った。彼の上着には私の涙がうっすらと滲んで行く。
私たちの後方では、侍女たちがひそひそとざわめいているのが分かった。私はそっとアドンの胸から離れたのだ。
「も、申し訳ございません」
「いや、よい。ステラ、来てくれたまえ」
アドンは侍女のステラを呼んだ。私の背中に冷たいものが流れることが分かる。
私もベッツィのように、お役御免になってしまうのだろうか? アドンと離されてしまうのだろうか?
ステラは、私の真横に立った。それは自分が私と同格であることを示す行為だった。彼女もおそらくアドンのことが好きなのだろう。
「お呼びですか、閣下」
「うむ。突然の蜂にジュラルード伯夫人が驚いてな。彼女は少し休憩させようと思う。君たちは職務を代行したまえ」
「蜂ですか? まだ蜂の飛ぶ季節ではありません」
「ん? なんのために私を疑うのかね? こうしてモンテロのつぼみも膨らんでいる。蜂が飛んでもおかしくなかろう」
「お、畏れ多いことを申し上げました。なにやらジュラルード夫人から声が聞こえたものですから」
「蜂に襲われたのだ、少しくらい悲鳴を上げてもよかろう」
「いえ、悲鳴ではなく」
「うむ」
「畏れ多くも閣下のお名前を……」
「悲鳴だ。君は邪推してはいけないよ」
「は、はい。閣下のお召し物も濡れております。すぐにお部屋でお着替えを」
「必要ない。すぐに乾く。さあ、ジュラルード伯夫人。君は休憩室で食事を取ってきたまえ。ステラ、私にも食事の用意だ」
「「かしこまりました」」
私とステラの声が一緒になってしまった。私はステラのほうを見たが、彼女は目を逸らしていた。
休憩室に向かう間、なぜか笑っていた。それはステラとタイミングが合ったこともあるだろう。
しかし、やはりアドンが私を庇ってくれたことが大きかったのだと思う。
アドンと、私の気持ちは──。
しかし、それは思ってはいけない。いけないことだ。私は一歩踏み込んでしまった。自制しなくてはならない。何よりこんな「醜聞の夫人」を胸に預けたなどと……。
私はアドンに汚名しかやれない女なのだから。
一人で食事をして、少し早いがアドンの元へ。いや少しどころではない。かなり早かった。アドンに会うことが楽しみなのかもしれない。
アドンの部屋に行く角を曲がると、外に侍女たちが立っていたので、すぐに角に隠れてしまった。いつものイヤミな彼女たちの行動がそうさせたのだろう。
私は後ろにある別の入り口から入ろうと、通路を急いだ。それにしても侍女たちが外にいたのなら誰がアドンの世話をしているのだろうと思いながら、そっと扉を開けて中に入った。
すると、ステラとアドンの声だった。ステラはベッツィのように声を荒げてアドンに詰め寄っているようだった。
「こらこらこら、ステラ、いい加減にしたまえ! そして服を着よ!」
「いいえ、止めません。私もベッツィも、二人して閣下の世話を命じられ、二人して閣下に思い焦がれ……、身分違いながら、閣下にお情けを頂けることをずっと思い描いていたのです! それに閣下は夫人の業務を代行せよとおっしゃいました!」
「ど、どうしてこれが夫人の仕事か!」
「どうしてって、どうしてもです! 二人はいつも同じ部屋の中で──」
ブッ! 思わず吹き出しそうになった。こんな場面に遭遇するなんて。ステラはアドンに襲いかかっている。
どうすればと迷っていると、アドンは必死に抵抗して、ステラは床に倒れてしまった。
「はぁはぁ、このことは黙っておく。さっさと服を着るよう命じる。そしてジュラルード伯夫人と交代するように」
ステラはアドンに渡されたお仕着せを掴みながら叫ぶ。
「どうして? どうしてジュラルード夫人なのです? 私たちは同じ使用人でしょう?」
「もちろんだ。君もジュラルード伯夫人も区別はないのだぞ?」
「ですがいつもお二人は二人きりです。恋人のように笑いあい、今日は胸に抱きました!」
「待て待て、抱いてなぞおらん。ジュラルード伯夫人が蜂を恐れて私の胸に飛び込んできただけだ!」
「いいえ、あれはもはや男女でした! 閣下は夫人を胸に抱いて優しく微笑み、安心させるように彼女にさせるがままに……」
「邪推だ! ステラ、君には邪推のクセがある。私にそんな気持ちなどは……」
「では閣下は、今まで一度も夫人と閨を共にしたことはありませんか!?」
「うっ……!」
「なぜ言葉を詰まらせます! もはや街中の噂になっております。閣下は夫人と不倫関係にあると……。もう一度お聞きします。閣下は夫人と閨を共にしたことはないのですね?」
「そ、それは……」
「やはり。よく分かりました」
「待て、話を聞け」
「いいえ、よぅく分かりました。すぐに夫人を呼んで参ります。そしたらお二人は、このお部屋で好きなことをなさるといいでしょう。失礼いたします!」
「お、おぅい、ステラ?」
ステラは服を着ると、頭を下げて出ていってしまった。アドンはその扉を眺めたままだったが、私はそこに近付いた。
「なぜ? ハッキリと答えてあげなかったのです?」
「お、おい、居たのか?」
「抱いてないとおっしゃれば良かったではありませんか」
「それではウソをつくことになる。当時君と閨を共にしたのは事実だからな」
「ウソでもよろしいでしょう」
「バカな。君との思い出にウソをつけというのか? 私はイヤだ」
「ま……!」
私は真っ赤になってしまった。アドンも同じだ。彼は落ち着きを取り戻して椅子に座る。
私はその横に侍っていつものようにアドンの命令を待つ姿勢を取る。
しかしアドンは黙ってしまい、なんとも言えない気まずい雰囲気が漂ったので、つい口を開いた。
「おモテになりますのですね」
「当たり前だろう。私は昔からモテるのだ。サリィにレイにグレイス……、みんなみんな私が結婚する時に泣いていたのだ」
「グレイス……。十歳でしたけどね」
「よく遊んであげたよ。今ごろはジュラルード領内では一番の美人だろう。惜しいことをした」
「あーら。だったら待って差し上げれば良かったのに」
「それは、それよりも好きなものがいたからだ。……言わせるな」
………………。
またもや気まずい。なんだろう、この感覚。でもどうにかアドンを茶化すことで平静を保とうと、また口を開いた。
「しかし、影ではサリィやレイとも繋がっていたのですね」
「そんなことはない。彼女たちが勝手に熱をあげていただけだ」
「いやいや、分かりませんよ。今まで何人くらいお抱きになりました?」
「バカを申せ」
と言ったところで、ノックも無しに扉が開く。おそらく私を探しに行ったがいないことを報告に来たステラは慌てていたのだろう。
ステラが飛び込み、他の侍女たちもなだれ込んで来たタイミングでアドンは『バカを申せ』の続きを言ってしまったのだ。
「お前だけだよ」
その言葉は私に向けられた言葉──。
みんなみんな固まった。
だってそれは、愛の囁きのように聞こえたのだもの。
みんな顔を真っ赤にして私を睨む。アドンも頭の中で、自分の言った言葉が誤解を招くと思い、顔を赤くして立ち上がった。
「みんな、誤解するなよ。違うのだ」
「何が違うのです。確かに閣下は、夫人に『お前だけだ』とおっしゃいました」
「だー! 違う! そう言う意味ではない」
「どういう意味です!?」
「それは……だから、いや、もういい! みんな下がれ! ジュラルード伯夫人、君もだ! しばらく一人にしてくれたまえ!」
みんな一礼して部屋を出る。みんな私のことを睨みながら。私も部屋を出た。部屋の外は空気が最悪だったが、私は一人心の中で笑ってしまっていた。
アドンが慌てる姿が滑稽で、可愛いと感じていたのだ。
そして──。
やはりアドンが好きなのだと確信してしまった。