第11話 その後9
その日はアドンは庭を散策していた。アドンは庭を見るのが好きなのだ。公爵邸の庭は広い。今日は北の庭園。昨日は西、一昨日は東……。
私は胸に見覚えのある腰袋を抱かされる。中にはアドンが庭師時代に愛用していた道具が入っているのだ。
時折足を止め、彼は私に手を伸ばす。それは身に触れるためではない。道具を渡すよう指示しているのだ。
腕の角度で分かる。鋏を欲しがっている。私は剪定鋏を手渡すと、アドンは無言で庭木の手入れを始めた。
パチン、パチンと音を立てて、伸びすぎた枝を切って見映えを良くする。彼は満足したのか私に鋏を返した。
いつもの私ならそれをちゃんと受け取っただろう。しかし、疲れがピークに達していたのか、私は鋏を上手くとれずに前のめりになってしまい、アドンの身に倒れ込んでしまった。
頼り甲斐のある肉体へと──。
その時、アドンは何かを叫んでいたが、私はそのまま目を閉じてしまった。
◇
目を開けると、庭園が縦に広がっていた。私はベンチの上に横になっていたのだ。しかもアドンの膝の上に……。
「申し訳ございません!」
私は飛び起きて詫びを入れようとするものの、アドンは私を手で押さえて起き上がれないようにし、心配そうな顔で訪ねた。
「疲れているようだな。一時間ばかり寝ていたぞ」
私は怒られると思ったので平身低頭の思いだった。しかしアドンは、自身の膝を指しながら言ったのだ。
「まあよい。私の膝が気に入ったのならもう少し眠ると良い」
「あの、しかし……」
「まあまあ、君に過労で倒れられても困る。今日はこの通り公務もなく、庭木を剪定するだけだからな。君にもゆっくりさせてやろう」
「あのしかし、それはとても畏れ多く……」
「昔は休日になき妻にこうしてやったり、してもらったりしたのだ。それがつい懐かしくてな」
涙で滲む。たしかに私たちは昔そんなことをした。あの頃はそんなことに対して価値を感じられなかった。それがいつもの日常の一つであったのだもの。
でも、シモンと結婚してから、シモンはお金はくれても、こんな安定はくれなかった気がする……。
「では遠慮なく失礼いたします」
「うむ」
どうしてだろう。こんなに怖くてたまらないアドンの膝に甘えるだなんて。
遠くでアドン付きの侍女たちが、私たちの様子を見ながら悪口を言っているようだ。
それはそうだろう。私は既婚者だし、アドンは私に情けをかけてくれているだけ。それは今まで侍女たちには与えられるものではなかったのだ。
失敗ばかりの人妻を甘えさせるなんて、今まで働いてきた彼女たちにとっては腹が立つことでしょうね。
ああ、でもなんて安心感のある。
私は涙を流しながらアドンの膝に甘えていると、上からアドンの声が降ってきた。
「ジュラルード伯夫人。私がなぜ公爵となったか聞かないのか?」
「あの、それは、はい。ですが、畏れ多くなかなか聞き出せずにおりました」
アドンは私の顔を見つめて、少し間を置いてから話し始めた。
「君たちが不貞を犯して出ていったとき、私は全てを失い、かといって力もなく、ただ床の上に伏したままだった。何日も食事も取らずにな」
「は、はい」
それはアドンのその後。私たちの知らない、アドンの姿だったのだろう。
「私は眠りの中で、白い雲の上にいるような感覚に陥った。ああ、もう死んだのだなと思っていたが、目を覚ますと自室のベッドに横たわり、看病させられていた。意味がまったくわからない。私は君が帰ってきてくれたのかと思って、複雑な思いで君の名前を呼んだのだ」
「は、はい」
「しかし君は居なかった。出てきたのは今の執事頭のアンソニー・ゾージングだった。彼の話では私の祖父は、先代のリックラック公爵の兄で、後継者の座を捨てて侍女と逃げたらしかった。そしてあそこで庭師として暮らしていたのだ。私のね、家にはその家系図があったのだよ。祖父とその弟の名前。そこには祖父に並んで前の公爵閣下である、クロード・リックラックの名前があったのだ。さらにその上には祖父の父であるグレゴリー・リックラック。私はこの家系図を開いて君の名前を書き入れた時があったが、そんな曽祖父や祖父の兄弟のことなどまったく気にしないでいたんだよ」
「あ、あの時──」
そう。私たちが結婚したとき、アドンは家系図を開いて私の名前を書いていた。次書くときは子供が生まれたときだね、と言いながら。
「リックラック公爵は、どうもお子さまに恵まれることはなかったらしい。そこでリックラック最後の血筋の私を探し当てたと言うことだ」
「そうなんですね……」
「まあその後は大変だったがな。平民の私が貴族の礼儀の勉強や、方言から都言葉への矯正やら、軍事や歴史の勉強など、今までしたこともないことをたった一年で叩き込まれたのだからな。先代のリックラック公爵にはそれほど時間がなかったのだ。私が後継者と呼べるようになると安心して逝かれたよ」
「そうでしたか……」
「まあ私にとってもこの勉強期間は君やジュラルード伯爵のことを完全に忘れられるほど大変だったからちょうど良かったがな」
「は、はい……」
「君にとっても良かったじゃないか。あんな勉強量はとてもじゃないが夫人には耐えられるものではなかったよ。君が公爵夫人になるよりは伯爵夫人となったのは天からの導きだったのだろう」
「はい……」
この言葉はアドンのイヤミではないのだろう。彼の性格からして、本当にそう思っているのだ。そんな気遣いなのだろう。
それからアドンは続けた。
「すまなかったな、いつもいじわるをして。私も根に持っていたのだ。君はすぐに音を上げて夫婦して都から逃げだしてくれるだろうと思ってたが……、君はいつの間にか倒れるまでの忍耐力を身に付けたのだな。まあそれだけジュラルード卿を愛しているのだろう。あの男のどこに惹かれたのか分からんが私の負けだ。これからは無下に叱ることは止めにするよ」
次から次へと私の涙が溢れだす。私がアドンを裏切ったのにこんなに優しくしてくれるなんて……。私は鼻をすすりながら答えた。
「そうです。私は夫、シモン・ジュラルードを愛してるのです。ちょっとやそっとのいじわるには負けませんわよ」
「こいつ……、妬けるな。私の中にまだ少しくすぶる気持ちも考えずに」
そう言いながらアドンは笑った。私も合わせて笑う。
アドンは大きな男だわ。あの時となにも変わらない。こんな私を許してくれたのだ。
知らなかった。この人は生まれついての貴族の精神を持ち、元帥の気概を持っていたのだ。だからこそ私に安心を与え続けていたのね。私はそれを当たり前のことと思ってしまったんだわ。
シモンと比べたら──。
いえ、それはもうしてはいけないことだわ。私がこのアドンを捨ててシモンに走ったのだもの。自業自得よ。
シモンを愛してる。シモンを愛してる。そう復唱するしかない。
私が今さら、アドンに心惹かれ始めただなんて、そんなこと思ってもいけないのだわ。




