聖域
「じゃじゃ~ん。ここなら静かにお昼食べられるでしょ?」
白崎が得意気に両手を広げる。
やってきたのは屋上だった。謎の畑が三分の一程を占めており、縁には落下防止の高いフェンス。フェンス沿いには四人掛けくらいのベンチが点々と配置されている。利用者は疎らで、数組の男女がベンチや敷物の上に陣取ってのんびりお昼を食べている。
確かに静かな場所だった。俺の望むささやかな平穏がここにはある。
生憎俺はそれどころじゃなかったが。
白崎の前で大失態を演じて、俺は死ぬほど落ち込んでいた。悪魔みたいな顔をした醜い嫌われ者のこの俺が、あれしきの騒ぎでパニック発作を起こすとは、お笑い種だ。
俺は変わった。変わったはずだ。それなのに、俺の心には消えない傷が残っていて、なにかの拍子に疼きだす。まさにさっきのように。ささやかな平穏を手に入れてからは随分落ち着いていたが、度重なるストレスでぶり返したのだろう。なんにしても、絶対に知られたくない弱みをよりにもよって白崎に知られてしまった。
「……大丈夫だよ。さっきの事は誰にも言わないから。実は私も、同じようになることがあるの。大勢の人に囲まれると、なんだか怖くなっちゃって、うわーって。だから一緒。そんな所も私達、相性ばっちり? なんちゃって」
誤魔化すように、慰めるように、そんな事などなかったように、白崎は優しい言葉を投げかける。二年前の俺ならコロッと騙されただろうが、今の俺には通用しない。
それっぽい事を言っておいて、どうせ裏切るに決まっている。
そもそも、こんな目に合っているのはこいつのせいなのだ。
「うるせぇ。なんでもねぇよ」
俺は何もなかった事にした。
俺は最後の力を振り絞ってひと気のない四階まで移動していた。俺がへばっている所は白崎以外には見られていないはずだ。
白崎の嘘だって万能ではない。というか、俺と付き合っているという話だって普通に疑われている。拡散力はあるだろうが、それがそのまま受け入れられるわけじゃない。俺がパニック発作を持っている事だって、証拠がなければそう簡単には広まらない……と、思いたい。
「うん。そうだね」
白崎もその辺は理解しているのだろう。今の所は脅してこなかった。喫茶店での盗撮を思えば安心は出来ないが。
「とりあえず、座ろっか」
適当なベンチに向かう白崎の後を追う。発作は収まったがまだ本調子じゃない。
回復するまでは無用な衝突は控えるべきだろう。
白崎はベンチの真ん中から一人分右の場所に座った。隣の空いたスペースをトントンと手で叩いて、にっこりと俺に微笑む。
俺は近くにある別のベンチに座った。
「ホワイ!?」
俺は無視してそっぽを向く。
こいつのせいで朝から散々だ。おまけに発作まで起こして、冷静になったらムカムカしてきた。そんな奴の隣で飯なんか食えるか。
「うぅぅ……」
白崎は頬を風船みたいにして俺を睨んだ。そして不意に明後日の方向を向く。
「あーあー! 私の彼氏、可愛い可愛いマイダーリンの黒川きゅんってばほんと~~~~~に照れ屋さんなんだからぁああああああ!」
「なっ!?」
片手でメガホンを作り、わざとらしく周りに向けて言う。屋上で飯を食っているやけに距離の近い男女共が、こっちを見てクスクス笑った。
この女、またやりやがった! すぐに周りに言い触らして、本当に嫌な女だ。
それなのに白崎は、そっちが悪いんだよ? みたいな顔で俺を睨み、もう一度ポンポンと隣を叩く。
俺はぐるるるる、と喉の奥で唸って威嚇すると、フン! とこれ見よがしに鼻を鳴らしてそっぽを向いた。白崎がなにをしようが、絶対に言いなりになんかならない。そんな事したら舐められるだけだ。
「うぅぅぅぅぅ!」
白崎は、お前の顔どうなんてんだよ!? ってくらい頬を膨らませると、ぷしゅる~っとため息を着いた。やれやれと肩をすくめて立ち上がると、こっちにやってきて俺の隣に座った。ぴったりと、太ももが触れ合うくらいの距離だ。
俺は黙ってベンチの端に尻をスライドさせた。
白崎は半ば尻で体当たりでもするように追いかけてくる。
制服越しに触れる生足が生暖かい。
「……せめぇだろ。くっつくんじゃねぇ」
耐え切れなくなり、俺は言った。
「恥ずかしいんだ?」
ニンマリと、クソムカつく顔で白崎が俺の顔を覗き込む。
拳を握って怒りに耐えると、白崎は少しだけ俺から離れた。
「怒らないでよ。黒川君って可愛いから、ついからかいたくなっちゃうの」
「バカにしてんのかてめぇは?」
本気でイラっとして白崎を睨みつける。
「なんで?」
白崎は子供みたいな無邪気さで聞いてきた。
「分かってて聞いてんだろ」
「分かんないから聞いてるんだよ」
あくまでも白を切るつもりらしい。
「……この顔が可愛く見えるなら眼科に行けよ」
「可愛いってそういう事じゃなくない?」
白崎は即座に言い返してくる。屁理屈女め。
「私が思うに、可愛いってギャップだと思うんだよね。ヤンキーが実は猫好きみたいな、クールな先輩が実は縫いぐるみを抱かないと夜眠れないとか。そういう意味では黒川君、ギャップの塊って言うか、ギャップしかないって言うか、なんかこうつっつき回して反応を見たくなっちゃうって言うか。あぁ、語ってたら胸がキュンキュンしてきた。ねぇ黒川君、その癖毛頭、わしわし~ってしてもいい?」
「いいわけねぇだろぶっ飛ばすぞ!」
「そういう所も可愛いにゃん……」
白崎はうっとりとして胸を押さえる。
「嘘つけよ。どうせ腹の底じゃ俺の事キモいと思ってるんだろ」
「ちょっとね」
予想外に肯定され、思わず言葉を失う。
「いい意味でだよ? キモ可愛い的な。味があるみたいな? お顔だって、イケメンよりも黒川君みたいなタイプの方が好みだし。なんだか見てると面白くって、楽しくなるし」
「だからバカにしてんだろ!」
「してないってば! これが私の愛情表現なの、好きの形なの!」
「だとしたら、どうかしてるぜ」
「そんなもんだよ恋愛なんて」
「ボロが出たな。俺が初めての彼氏とか言って、随分恋愛に詳しいじゃねぇか」
最初から信じてなんかいなかったが。
やはりこの女、十股ビッチなのだ。
「残念でした~。私は黒川きゅんと違って友達沢山いるから、毎日聞きたくもないお惚気を嫌って程聞かされてるんです~」
ベーっと白崎が舌を出す。短くて小さな舌だ。引っこ抜いてやりたくなる。
「そんなもん聞かされるくらいなら、友達なんかいなくて結構だぜ」
「それは極端だけど、半分は同意。友達多すぎるのも、それはそれで大変だしね」
意味深な苦笑いを白崎は浮かべる。
「ていうか、いい加減お弁当食べよっか」
「言われなくてもそうするっての」
お互いに弁当を膝の上に広げる。
「わぁ! 黒川君のお弁当、めっちゃ綺麗! お母さんが作ったの?」
「……あぁ」
「お母さん、お料理上手なんだね!」
「……まぁな」
「あ、そこは普通に認めるんだ」
「……うるせぇよ」
他人の弁当なんか知らないが、俺の弁当が綺麗なのは間違いない。毎朝母親が頑張って作ってくれているのだ。別に見せる相手もいないから、適当で大丈夫だと言っているのに。それでも母親は、弁当のせいで俺が笑われたら嫌だからと言って、せっせと綺麗な弁当を作ってくれる。友達なんか必要ないが、こんなに綺麗な弁当を見せる相手がいないのは、本当に申し訳ないと思っていた。
「お前の弁当はどうなんだよ」
別に母親の弁当を褒められて心を許したわけじゃない。
こいつの弱みを掴む為に探りを入れているだけだ。
「ふふ~ん。私のお弁当も負けてないよ? じゃじゃ~ん!」
白崎の弁当は三段重ねで、寸足らずの魚雷みたいな円柱形をしていた。
一番下を開くと、中には折り畳まれたナンが無理やり押し込まれている。
「いや、なんでナンなんだよ」
「おやおや~?」
「な、ちが、わざとじゃねぇよ!」
「ま、そーいう事にしておきましょう」
ムカつく顔で言いながら、上の二つも開く。
赤いカレーと黄色いカレーだ。
そう言えば、喫茶店でもカレーがどうだの言っていた。
カレー好きなのか?
「普段はライスなんだけど、なんとなく今日はナンにしてみたなり。ナンだけに?」
俺は無視して弁当を食った。
「……突っ込んでよ!?」
「うるせぇ。飯くらい静かに食わせろ」
「もー! 勝手なんだから!」
お前にだけは言われたくない。
白崎は赤いカレーに浸したナンを齧ると、不満そうに首を傾げた。
「ん~。やっぱ出来合いのナンはびみょいね。冷たいし、パサパサだし、いいとこなし。黒川君も食べる?」
「いらねぇよ」
「食べてよ。美味しくないから」
「余計にいらねぇよ! なんで美味しくないもんすすめんだよ!」
「むしろ不味い物の方がすすめたくなるまであるし。このがっかり感、分かって欲しいなり~」
「いらねぇっての!」
「隙あり!」
大口を開けた瞬間、白崎は食べかけのナンを俺の口に突っ込んだ。
「んが!?」
このクソアマ! しかも食べかけかよ!
吐き出すわけにもいかず、仕方なく咀嚼するが、確かにパッとしないナンだった。いかにも出来合いといった無味乾燥とした味で、なんの風味もない。ナンだけに。
「黒川君。今、物凄くしょうもない事考えてなかった?」
「考えてねぇよ」
怖っ。こいつエスパーかよ。
赤いカレーはインド風というか、かなり本格的なシーフードカレーらしい。エビの風味が強く、スパイシーだ。美味い事は美味いのだが、スパイシーなのは頂けない。俺は辛いのも大の苦手なのだ。
「……ぐぅ」
口の中を広がる辛さに、思わず声が溢れる。
「あ、黒川きゅん辛いのダメだった?」
「は、はぁ? そんなわけ、ねぇだろ」
焼けるような辛さに耐えながら、俺は平静を装う。
しかし辛さは収まる気配がなく、どんどん激しくなるばかりだ。
「高校生なんだし、このくらいの辛さは平気だよね」
「あたりまえだろ」
いや、全然平気じゃない。辛すぎだろ。俺はカレーだって甘口しか食べられないし、寿司のワサビも無理なんだぞ!?
だが、そんな事は言えない。
白崎の口ぶりから察するに、これは中辛くらいなのだろう。
慌ててお茶を飲んだらかっこ悪い。また舐められる。
「ちなみにそれ、普通の辛口の十倍は辛いから」
俺は慌てて水筒に手を伸ばし、受け口から直にがぶ飲みした。
「――ぶはぁ! てめぇ白崎! なんて物食わせやがる! う、ぐぁ、まだかれぇ!」
辛いと言うか痛い。舌だけじゃなく、唇や喉、頬や歯茎まで。もはや毒だろ!?
「めんごめんご。黒川きゅんって子供舌っぽいし、もしかして辛い物もダメなのかなーって思ったらつい」
「しかも確信犯かよ!?」
「テヘ☆」
白崎はこめかみをコツンと叩いてぶりっ子ポーズをした。
殴りたい。殴っていいだろ。
「ちなみに確信犯って元々は法律用語で、自分は正しい事をしてるんだって信念を持って行われる犯罪の事なんだって。知ってた?」
「知らねぇよ!」
なんにしたって犯罪だろ!
怒鳴る俺を、白崎はきゃっきゃと手を叩いて笑う。
そんなこんながありつつも、俺達は弁当を食い終えた。
「なんか学校中私達の話で持ち切りだし、ギリギリまでここにいよっか」
「言われなくてもそうするつもりだっての」
わざわざ教室に戻って残り時間を晒し者になるのは御免だ。
なによりここは居心地がいい。広い屋上に十人ちょっと。静かなものだ。
天気は朗らかで風が心地いい。
俺の求める理想の平穏がここにはある。
邪魔なものがあるとすれば白崎だけだ。
満腹になってぼんやりしていると、白崎がニコニコしながら俺を見ていた。
「いい場所でしょ?」
「……まぁな」
そんな事で突っかかっても仕方ない。
腹いっぱいで面倒だし、俺は素直に認めてやった。
「じゃあさ、これから毎日屋上で一緒に食べようよ」
やなこったと言いたい所だが、俺は悩んだ。
俺を取り巻く騒ぎはしばらく収まりそうにない。
十分休みはともかく、昼休みは地獄だ。
五十分の間教室で晒し者になっていたらストレスでどうにかなってしまう。
それに、白崎から逃げ回って無様を晒すよりは、開き直って他の連中の前でだけは彼氏の振りをした方がマシかもしれない。その間に白崎の弱みを掴んで形勢を逆転させればいい。白崎は俺を舐め腐っているから、ゆっくりと時間をかけて俺をなぶり殺しにするつもりだろう。そこに付け入る隙はある。
……あとはまぁ、折角母親が毎日綺麗な弁当を作ってくれているのだ。たまには俺以外の相手に見せないと申し訳ない。相手が白崎なのは癪だが、そんなのは誰が相手でも同じだから気にしても仕方がない。
「……仕方ねぇな」
俺はいかにも嫌々という風に溜息をついた。
白崎は眩しい程の笑顔を浮かべる。
「私の気持ち、本当だって分かってくれた?」
「なわけねぇだろ。勘違いすんなブスが。お前のせいで野次馬共がうるせぇから、静かな場所で飯を食いたいだけだ。本当なら、一人で来たいくらいだぜ」
「ところがそれは無理なんですね~」
ブスと言われて軽く興奮しながら、ニンマリと白崎は言う。
「はぁ? なんでだよ?」
屋上を利用するのに、無理もないもないだろうが。
「黒川君ってさ、結構鈍いよね」
私の気持ちに気づかない時点で相当だけど。
そう呟いて、白崎は屋上を利用している他の生徒達に視線を向けた。
「この光景を見て、なにか思わない?」
「……やたらと距離の近い男女が多いとは思うが」
「多いって言うか、それしかいないじゃん」
「だからどうしたってんだよ」
白崎は呆れた顔でため息をつくと、シーっと人差し指を立ててとあるペアを指さした。
そちらのベンチでは、一組の男女がカップルみたいに肩を寄せ合っている。そしてふと、人目を気にするように辺りを見回すと、こっそりと唇を重ねた。
「――んごごごごっ!?」
「しーっ! 邪魔しちゃだめ!」
俺が悲鳴をあげる前に白崎の手が口を塞いだ。
唖然とする俺はカクカクと小さく首を振る。
「あいつら、こんな所でキスしてるぞ!?」
「そういう場所なんだよ。お昼の屋上は恋人達の聖域なの。だからこんなに空いてるんだよ?」
声を潜めて慌てまくる俺を微笑ましそうに見つめながら、白崎は悪戯っぽく片目を瞑る。
そう言われて改めて他の利用者を見てみると、がっちりと手を繋いでいたり、腰に手を回していたり、膝枕をしていたり、あーんしていたり、露骨にイチャイチャしていた。
他人なんか興味ないし見ないようにしているから気づかなかった。
理解した瞬間、胸焼けを起こすようなカップルオーラを感じて気まずくなる。
そりゃカップル以外は近づかないわけだ。
「で、ここにいる私達も、逆説的にカップルという事になるわけです。ブイ」
勝ち誇った顔で白崎がダブルピースを向ける。
「てめぇ白崎! また嵌めやがったな!」
いい加減頭にきて白崎の胸倉を掴む。
「嵌めるだなんてそんな、人前で恥ずかしいよ……」
白崎は気持ち悪い声を出して恥ずかしそうに顔を伏せた。ハッとして周りを見ると、周りのカップルがあらあらまぁまぁといった顔でこっちを見ている。
「な、が、違う! 嵌めてねぇよ! 誰がこんな女と! 俺は童貞だっての!」
「あははははは、黒川きゅん、そんな事言わなくたっていいのに!」
白崎が爆笑した。
「う、うるせぇ! てめぇが紛らわしい事言うからだろうが!」
俺は醜い嫌われ者だ。非モテの童貞、こういうのには全く耐性がない。
慌てたって仕方ないだろ!
ムカついて白崎を見るのだが。
「むちゅ~」
「ぎゃあああ!?」
なにを考えているのか、白崎はタコみたいに唇を突き出して待ち構えていた。
「ちょっと! 女の子のキス顔にぎゃあああはなくない?」
「あれのどこがキス顔だ! タコ顔の間違いだろ!」
「しょうがないじゃん。キスなんかした事ないんだから」
「嘘つけ!」
「嘘じゃないもん! 私はオール完全未使用新品だもん!」
「しらねぇし聞きたくねぇよ!?」
「知っててよ! 彼氏でしょ!」
白崎が逆ギレする。理不尽すぎる。
分かっていたが、やっぱりこの女はイカれている。
こんな女と二人で飯を食うくらいなら、教室で晒し者になっている方がマシなのでは?
割とマジで真剣に、そんな気がする俺なのだった。