瞬間と書いて「とき」
そして放課後の帰り道。
ようやく一人になる事が出来て、俺はささやかな平穏を噛み締めていた。
白崎の嘘告に巻き込まれてから、俺の平穏はすっかり破壊され、騒がしくなってしまった。静かなのは、登下校の時くらいだ。
夕焼け色に染められた、交通量の少ない住宅街の裏道。そこをとぼとぼ歩きながら、俺は数メートルおきに切り替わる通りの匂いに神経を集中させ、晩御飯当てゲームをやっていた。
我が家の今日の晩御飯はなんだろう。
母親の作る料理なら、なんだって美味しいに決まっている。
その後は義務になってしまった白崎とのゲームだ。白崎の相手をするのはうんざりだが、ゲームには慣れてきて、ちょっと楽しくなってしまっている自分もいる。白崎と食人族を無視すれば、中々どうしてよく出来たゲームである。現在は第二拠点を建設中だ。授業中にスケッチを描いて構想を練ってある。建築で大事なのは計画性だ。そこの所を白崎はまるで理解していない。全てがノリで何とかなると思っている脳筋女なのだ。蛮族め。
なんて事を取り留めなく思っていたら、不意に背後に自転車の近づく気配を感じた。
なにやら急いでいるようで、かなりのスピードを出している。
カラカラと、金属質の何かを引き摺るような音もしていた。
……いや、おかしいだろ。
嫌な予感に振り返ると、俺は我が目を疑った。
「待ってたぜぇ! この瞬間をよぉおおおおおお!」
「はぁああああああ!?」
うちの学校の制服を着たやたらとデカい金髪の黒ギャルが、凄まじい形相で俺を睨みつけ、右手に持った金属バットで地面を擦りながら、猛スピードでママチャリを漕いでいた。
いやいやいや! なんだこの状況は!? おかしいだろ! と慌てている場合じゃない。
相手はやる気だ。やらなければ、こっちがやられる。
「くたばりやがれぇえええ!」
「ざっけんなこらぁ!?」
金髪黒ギャルのフルスイングを、俺は靴底で受け止めるようにして蹴り上げる。かなりの衝撃だが、それは向こうも同じ事だ。女の手からバットがすっぽ抜け、高く飛んで道路に落ちる。バットを蹴落とされた衝撃で、女は自転車のコントロールを失って電柱に突っ込んだ。
「いったぁ……てめぇ! よくもやりやがったし!」
普通に大事故に見えたのだが、女は平然と立ち上がってきた。
「うるせぇボケが!」
走って距離を詰めていた俺は、そのまま飛んでドロップキックをお見舞いした。
「ふごぉ!?」
正面からまともに食らい、女が吹っ飛ぶ。
言っておくが俺は、問題にならない理由があるなら女だって平気で殴るからな!
「いきなり後ろから金属バットで殴りかかって来るとか、イカれてんのかてめぇは!?」
「そんなの、催眠アプリで桜の事洗脳してエッチな事したあんたに言われたくないし!」
その辺の雑魚なら一発KOの一撃だったが、女はふらつきながらも立ち上がった。
改めて見ると、デカい女だった。背もガタイも胸も、なにもかもがデカい。華奢な白崎と比べたら、一回り以上大きいだろう。あいつがガラス細工なら、こっちは武骨な鉄器という感じだ。外国人の血が混じっているのか、攻撃的な目は鮮やかな青色をしている。派手な髪形に派手な化粧の、頭の悪そうなギャルだ。実際悪いのだろうが。
それで俺は昼間の会話を思い出す。
「……なるほどな。お前が白崎の言ってた親友か」
「そうだよ! あたしは二組の一ノ瀬アンナ! 桜の親友でボディガードだ! 悪魔の力だかチートスキルだか知らないけど、人が風邪で休んでる間に桜の事洗脳しやがって! しかもエッチな事までするなんて! マジで絶対許さないし!」
獰猛な顔をして一ノ瀬が叫ぶ。怒りのせいか目には涙まで滲んでいた。それだけ本気という事らしい。本気のバカだ。
「どうせ言っても無駄だろうが、俺はなにもしちゃいねぇよ! 大体彼氏ってのも、白崎が勝手に言ってるだけだ! 付きまとわれてこっちは迷惑してんだよ!」
「桜がお前みたいな奴に惚れるわけないだろ! そんな事、それこそ魔法でも使わない限りあり得ないし! で、そんな卑怯な事する最低野郎はスケベな変態って決まってるし! てーか、男なんかみんな桜の事エッチな目で見てるに決まってるし! 女のあたしですらそうなんだから!」
「知らねぇし、知りたくもねぇし、変態はお前だろうが!」
なんなんだ? 白崎といい一ノ瀬といい、俺が知らないだけで、世の中の女はこんな奴ばっかりか?
「問答無用! 黒川! お前をぶっ飛ばして、桜を元に戻すんだ! その為にあたしは来たんだし! これ以上、あたしの桜を汚させてたまるか!」
勝手な事を言うと、一ノ瀬は距離を詰めてきた。デカい図体を素早く翻す。次の瞬間、大砲のような回し蹴りが炸裂した。
間一髪で避けられたからよかったものの、凄まじい風圧に肝が冷える。まともに食らったらマジで骨の何本か持っていかれそうだ。この女、只者じゃない。間違いなくなにかしらの武術の心得がある。そういう類の一撃だった。
「あんたの噂は知ってるし。そこそこ出来るみたいだけど、どうせ素人っしょ。あたしは桜を守る為に格闘技だって習ってるんだから!」
不敵に笑うと、一ノ瀬は右足を抱えるように高く上げ、片足立ちの構えを取る。長身で足が長いから蹴り技が得意なのだろう。
「パンツ見えてんぞ」
「――きゃ!? エッチ!? 見るなし!」
慌てて一ノ瀬がスカートを押さえる。
襲撃しかけるなら短パンくらい履いとけっての。
「てめぇが勝手に見せてきたんだろうが! 大体そんな汚ねぇ子供パンツ、誰が見たがるかよ!」
一ノ瀬のパンツは総柄で、ウサギを大福にしたような可愛いマスコットが全面に描かれていた。
「汚くないし!? ちゃんと拭いてるし!? ほら!」
一ノ瀬は真っ赤になってスカートをまくり上げた。
「だから見せんなっての! 痴女かよ!」
「痴女じゃないし! あんたが汚いって言うからじゃん! 変態! バカ! エッチ! もう絶対許さないし!」
盛大にパンツをモロ出しにして、一ノ瀬が鋭いハイキックを放ってくる。
避け切れずに左手で受けるが、あまりの重さに上半身を持っていかれそうになる。
「このデブが! 重てぇ蹴り放ちやがって!」
「デブじゃないし!? ちょっと骨太なだけだし! 本当、最低!」
と、後ろ回し蹴りが槍のように鋭く伸びる。
ギリギリで横に避け、バックステップで距離を稼ぐ。
「おっと、そこまでだ。こいつがなにか分かるか?」
そう言って掲げたのは、バカでかい一ノ瀬のローファーだ。
先程ハイキックを防いだ時に奪ってやった。
「う、くさっ」
「臭くないし!? 返せよ!」
涙目になって吠えると、一ノ瀬がこちらに手を伸ばす。
「返してやるぜ。ほら、取って来いよ!」
俺は近くの民家の庭にそれを投げ込んだ。臭いローファーは犬小屋の前に落ち、中から出てきた柴犬がそいつ咥えて小屋に引っ込んだ。
「あたしの靴!? ちょ、どーすんだよ!」
「知るかよ! これに懲りたら、俺に関わるんじゃねぇ! さもないと、次は両方奪ってどぶ川に捨てるからな!」
それだけ言うと、俺は走り出した。
別に普通に喧嘩しても俺が勝つのは間違いない。が、一ノ瀬もそこそこの実力者だ。そんな奴を戦闘不能に追い込むのはかなりの手間だし、俺も無傷では済まないだろう。怪我なんかして帰ったら母親が心配する。それよりも、こっちの方がずっと楽だ。大体、喧嘩は手段であって目的じゃない。ゲームみたいにレベルが上がったりアイテムが落ちるわけじゃないのだ。割に合わない喧嘩なら、避けるに決まっている。
「黒川ぁ! 覚えてろよ!」
何度も聞いた負け犬の遠吠えに、俺は背中越しに中指を立てた。




