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グレコ=ローマンの生涯

作者: 不出水

 今なおレスリングのスタイルとしてその不朽の名を残しながらも、時代と政治の波に押し流され個人としての彼については闇に葬られたと言っても過言ではない、グレコ=ローマンの生涯について振り返ってみたい。


 グレコのレスリングは上背を活かし相手を包み込むように押し崩していくスタイルであり、下半身からすくい上げてグラウンドへ持ち込む一般的なレスリングスタイルとは大きく乖離したものであった。彼の象徴とも言える赤いシングレット(レスリング用のワンピース型衣服)を身に着け、鷹揚に両手を広げて相手を待ち受けるさまから「赤いヒグマ(Красный медведь)」の名で親しまれた。

 引退後もレスリング親善大使として各国を巡り、特に地中海諸国は彼のお気に入りで、約10年間を過ごしながら普及と後進の育成に励んだ。


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少年時代

 グレコは極東ロシアはハバロフスクの近郊で林業を営む家庭に生まれた。

子供の頃から恵まれた体格と、家業の手伝いからか筋肉質で肉付きの良い体格から子熊(Медвежонок)の愛称で呼ばれ、周囲の大人たちに愛されながら過ごしていた。

当時の彼はおとなしい性格で、楽器、特にピアノを好んでおり、将来の夢もピアノ奏者になることだと語っていたという。


 基礎普通教育課程に進んだ10歳頃には彼の体格はすでに170cmを超えており、課程を終える15歳で200cmの直前まで伸び続けた。また普段から斧を振り続けた生活により全身の筋肉はもちろん、後の彼のスタイルを支える120kgを超える握力を生み出すまでになっていた。一方、末端まで筋肉で肥大化した指ではピアノの白鍵が単独では叩けなくなり、彼のピアノ奏者の夢はこの時代に絶たれた。


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青年時代

 グレコは高等専門教育課程へは進学せずに家業を継ぐことを希望していたが、優秀な成績を伸ばすよう教師からの強い勧めを受け、また両親からの後押しもあったため、親元を離れスヴェルドロフスクの大学への進学を選んだ。ここで彼は生涯の恩師と、レスリングに出会う。

 生理学(特に栄養生理学)を専攻し、助教授(当時)のツァラトストマン博士に師事した。多才で知られるツァラトストマン博士は作曲家や指揮者を副業としており、グレコと趣味の会話を交わすことを好んだ。また、グレコの恵まれた体格を活かして欲しいと自らが顧問で携わっていたレスリング部へと誘った。

 その結果は博士の想像を幾重にも裏切るものだった。

体格こそ恵まれているものの自然と音楽を愛するグレコ青年はレスリングのスパーでもオロオロと構えるばかりで何もできなかった。

そして「大柄なだけで顧問に何やら目をかけられている後輩にちょっとスポーツの現実を教えてやろう」とばかりに下半身に組み付いてきた先輩は、押しても引いてもグレコを倒すことができずに、ただタイヤに抱きついたパンダのように滑稽に身を揺するだけだった。


 これを見た博士は即座にグレコを連れて大学を出た。それ以降、博士は以前同様に出勤していたものの、グレコは大学に姿を見せず、後日、博士の手づからからグレコの休学の手続きがなされた。

 グレコは二年後に復学。別人のように積極的にレスリングに取り組む模範的なレスラーになっていたという。博士がただ一回のスパーからグレコの才を見抜いて何かしらの特訓を行ったのではないかと言われているが、これについては博士・グレコの両者とも一切のコメントを行っていない。


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選手時代

 復学後、体格を筋肉で一回り大きくしたグレコは国内の大会で破竹の快進撃を続けた。早々に国内敵なしと活躍の場を世界に広げ、国際大会だけでは飽き足らず各国の大会にゲスト出場しては優勝を重ね、最終的な公式戦の戦績は256戦全勝(諸説あり)とされている。冷戦時代、ソ連の選手が各国の大会で活躍を重ねることに対して、西側諸国は良い印象を持たなかったが、スポーツ親善としての性質上から表立った文句も言えないため報道で大きく取り上げないことで半ば無視を決め込むような対応が取られた。

一方、ソ連国内では正に国民的英雄として大々的に取り上げられ、象徴とも言える赤いシングレットを身に着け、両手の人差し指を天に向けて指す独特のガッツポーズを決めたグレコのポスターが街のあちこちで見られた。

 恩師であるツァラトストマン博士が世界大会3連覇を祝して作曲したのが「ヒグマのソナタ」である。この曲は黒鍵と隣り合う白鍵の和音(あるいは不協和音)をベースに構成されており、グレコの太い指でも演奏できることを主眼においたものだと言われている。もっともこの曲の評価は酷いもので、グレコの甥であり、ツァラトストマン博士に音楽で師事したピアノ奏者、ゲンゴ=ローマンは「先生がグレコおじさんのことを高く評価し、弟子として愛していたのは間違いがないが、あのヒグマのソナタのことはちょっと」と苦笑い混じりにインタビューに答えた記事が残っている。


 プライベートな生活では、大学時代の同級生であったヴァンナと結婚。2男2女をもうけたが後に離婚。円満な友人関係を続けた後、晩年に元の鞘に収まるように再婚している。


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晩年

 引退後はウラル山脈近くに別荘を構え、スヴェルドロフスクと行き来しながらレスリングの後進育成に携わっていたが、後に政府からの招聘を受け、外交官としての任を受ける。レスリング親善大使として各国を訪れることを目的としていたが、本来はお飾りであり象徴的な肩書に過ぎない親善大使が外交官の身分を持つことは異例である。東側西側の別なく各国に滞在し、レスリングの普及と文化交流をおこなっていたが、特に地中海沿岸がグレコのお気に入りであり、一時的な滞在にとどまらず居を構えておよそ10年間をこの地で過ごした。

 逆に現地のグレコに対する感情は冷たく、「あいつのグレコローマンスタイルは偽物だ」という誹謗中傷を受けるが、逆に子供人気は高くグレコのレスリング教室は盛況を博した。またグレコをモチーフにしたアニメ「グレコポルコ(豚のグレコ)」が放送されるなど親しみやすいキャラクターとしての彼の人気は高いものだったとされる。


 1987年、突如グレコは本国からの召還命令を受け、帰国次第外交官の身分を剥奪された。「国民的英雄」の歴史は闇に葬られ、祖国の記録からは黒塗り、抹消の憂き目をみることとなった。(西側諸国では先述の通り、もとより無視を決め込んでいたため記録が少ない)

数年間はウラルの別荘での軟禁状態が続いたと言われているがその後の消息ははっきりしていない。ただ、90年代に甥のゲンゴが受けたインタビューの中で「おじさん(グレコ)は別荘でサーモンでも釣りながら暮らしてるんじゃないか」との受け答えがあるため、落ち着いた生活を今も続けている可能性はある。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  知られざるグレコローマンスタイルの歴史に笑いました!面白かったです!設定が凝っていて読み応えがありました。これを読んで信じてしまう人が出てきたらもっと面白いですね。
2021/08/12 17:00 退会済み
管理
[良い点] グレコローマンスタイルという言葉だけは知っていましたが、語源になった人物についてはじめて詳しく知りました。 2年間の謎の修業期間、数々の逸話……まさに伝説的人物だったんですね。 勉強になり…
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