第三百六十三話【僕達だったら】
ぼうっと意識が戻り始めたのが分かった。
何かがあって、焼き切れていた意識が。
ツンと鼻をつくアルコールの匂いと、全身の痛み——ぴりぴりとした擦過傷の痛み、ズキズキとした刺し傷の痛み。
だんだんそれらがはっきりし始めて、そして誰かの泣く声が聞こえてきた。
「……ま……りん……?」
「——アキト……っ。アキト……アキト……っ」
ここは……見慣れない天井だけど、どこかはすぐに分かった。
ここは病院で、僕はベッドに寝かされている。
ぼろぼろ泣きながら僕の顔を覗き込んでいたのは真鈴で、僕は……
「————っ。あ……れ……なんで……確か、駐輪場の……」
「——アキトさん! はー……起きた……はぁー……っ。ほら……っ。マリン、もう泣くのよし。ちゃんと起きたから……ほら……っ」
天井。真鈴の泣き顔。そして次に見えたのは、今にも泣きそうな顔の花渕さんだった。
ああ、そうだ。魔獣が出たんだ。それで……逃げて……逃げられなくなって……
「アキ、気分は大丈夫か? 生年月日と自分の名前、ちゃんと言ってみろ」
「……兄さん……? 生年月日……? えっと……?」
身体も起こせないままだけど、首を下に向けたら兄さんと母さんの姿も見えた。
ふたりともホッとした顔をしてて、それでも兄さんだけは険しい口調で僕の意識を確認しようと色々質問してくる。
「ぐす……ごめん……ごめんね……っ。僕の所為で……僕の所為で……っ」
「……マリン、それ違うってば。マリンはなんも悪くないって。だから、ね。もう泣くのやめな」
ぎゅうと手を握られて、暖かさが伝わってきた。
そうだ……この手……あの時……?
真鈴はずっとずっと泣いてて、花渕さんがそれを慰めてるんだけど……
でも、花渕さんもどんどん顔が赤くなっちゃって。真鈴に釣られて涙を流し始めてしまって……
————僕がやるんだ————
「……ああ……そっか……そうだった……」
いつか聞いた声だと思った。
ずっとずっとうるさかった声。
ずっとずっと——もう忘れてしまった筈なのに、それでもまたやって来てしまっていた声。
ああ——そうか——僕はまた————っ!
「————ふんっ! んぐっ……あふぉ……」
「っ⁉︎ ちょっ、アキトさん⁉︎ 何してんの!」
バチィーン! と、乾いた音が響いた。
思ったより大きい音が出たな。
そして……お、思ったより痛え……っ。
あんまり力は入んなかったけど、それでもフルパワーで——全力も全力、過去一のフルスイングで、僕は自分の顔を両手で平手打ちした。
「——ごめん。真鈴の言う通りだった。深入りしちゃいけなかった、一回帰るべきだった」
「浮かれてた、自惚れてた、浮き足立ってた」
「全部……一回反省したことなのに、怒られたことなのに、またやらかした」
ごめん。と、僕は急いで身体を起こして、それから深く頭を下げた。
真鈴はそんな僕に面食らった様子だったが、しかしすぐにまた泣き出してしまう。謝るのは僕だよ、って。
——僕がやるんだ——
その声は、かつての僕のものだった。
初めてミラを守ってやれて、浮かれてて、それで……兄さんが倒れて、達成感が全部義務感に変わって。
全部自分でやらないと、って。
焦って焦って、自分も周りも見えなくなって。
それで……大怪我して、ミラを泣かせて……
「……っ。真鈴、ありがとう。お前が助けを呼んでくれたんだよな? 僕が気絶しちゃってたから」
「……ぐすっ……僕は……僕は何も出来なかった……っ。僕の所為で……だけど、ミライちゃんが……」
未来が……?
はて、そういえば未来の姿が……あっ、いた。
一番近くに真鈴がいて、それに付き添う格好で花渕さんがいて。
兄さんと母さんはそれを見守る位置にいて……で、未来は部屋の隅っこで椅子に座って仏頂面をしていた。
す、拗ねてる……? 気付かなかったから……?
「そっか……未来、お前がまた助けてくれたんだな。そっか……いつもありがとな。それと……いつもごめん」
未来は何も言ってくれなかった。
うっ……怒ってるな、これ。
僕が無茶するといっつも心配してくれたけど……最近反抗期だったからかな、結構本気で怒ってらっしゃるっぽい。
いや……怒られたのは、これが初めてじゃないけどさ。
「アキ、ちゃんとみんなに感謝するんだぞ」
「しかし、とにかく良かったよ。頭打ってるって聞いたから心配だったんだ」
「意識もハッキリしてるし、障害も無さそうだ」
そうねえ。と、母さんも笑ってくれて、花渕さんもそれに釣られてホッとした顔になってくれた。
真鈴だけがまだ泣いてて、悔しそうで、つらそうで……
守ってあげられなかった……って、きっと真鈴も思ってるんだろうな。
元々の関係と立場を考えたら、まだ彼女にとっての僕は庇護対象なんだろうし。
でも、ひとまず安心。って、そんな空気があって。
その中で、未来も僕のとこへ来てくれて……
「————歯ぁ食い縛りなさい————」
「——え——ミラ————」
ゴ——ッ。と、鈍い音がして、そして僕の視界はまた天井だけを映した。
ぐらぐらと頭が揺れて、頬の痛みが遅れてやってくる。
真鈴と花渕さんの悲鳴が聞こえた。
多分、事情を知らないから声も上げられないってだけで、兄さんと母さんも驚いてるだろう。
で……僕もちょっと驚いた。
「——い……てて……未来……ごめん、本当にごめ————」
「————ごめんじゃないわよ。アンタ、本当に自覚あるの?」
え——?
自……覚……?
それは……それはもちろんある。
みんなに心配かけた。
それにそもそも、魔獣とは戦わない、見たらすぐ逃げる、って。そういうルールを作ったのは僕だ。
なのに、それを僕が破ってしまった。
ちゃんと罪は自覚して——
「————なんてツラしてんの——このバカアギトが————ッ‼︎」
「アンタはそんな顔で——そんなザマで、誰に憧れて貰うつもりなのよ————っ!」
ゴッ。と、今度は未来の硬い頭が僕のおでこにぶちかまされた。
胸ぐらを掴み上げられて、今までに見たこともないくらい怒った顔を向けられて——いいや、違う。
一回だけ見てる。
僕はこの顔を——今の僕に向けられてるこの顔を、いつかこいつに向けた筈だったんだ。
「——アンタは勇者なのよ——ッ!」
「たとえ世界を隔てようとも、アンタはマーリン様に見出していただいた勇者なの!」
「それがなんなのよ、このザマは!」
「アンタは何も自覚出来てない、大切なことが分かってない!」
「フリード様に親友とまで呼んでいただいておいて、まったく覚悟が出来てない!」
真鈴は大慌てで未来を——ミラを制止しようとしていた。
花渕さんは、普段の甘えん坊な姿からは想像出来ないくらい苛烈な怒りを露わにするミラに、怯えてるみたいだった。
兄さんは……母さんは……僕は——
「——私だったらこんなことにはならなかった——っ! させなかった!」
「たとえ相手が魔獣でも、怪物でも、魔人でも、魔王でも!」
「私だったら、全部片付けた上で笑って帰ってきた! それが勇者よ!」
「それが——英雄って呼んで貰った人間の義務なのよ——っ!」
それは——そうだ。
ミラはいつだってちゃんと帰ってきた。
待ってろって僕に言って、そしてちゃんと帰ってきてくれた。
魔竜を相手にしても、魔人を相手にしても、そして——魔王を相手にしても。
「——勇者に、英雄に、ヒーローに必要な資質はただひとつだけ」
「強さでも、優しさでも、賢さでも、臆病さでもない」
「それは、絶対に死なないってことだけ」
「絶対に——絶対に、何があっても、どんな状況でも、たとえ何もかもがダメになっても、逃げ出してでも生きて帰るってこと」
「アンタはそれが分かってない」
「……ミラ……?」
それ……どっかで聞いたことある。
そうだ、そうだった。いつかうっかりこぼしたことがあったっけ。
勇者に、英雄に必要な資質ってなんだろう、って。
魔女の田んぼで、花渕さんとデンデン氏の前で。
マーリンさんに背中を押して貰える理由が分かんなくて、自信が無くて、うっかり聞いちゃったんだ。
そしたら……ふたりは声を揃えて言ったんだ。
「——たとえ僅かでも、ほんの数人でも、たったひとりでも——っ! アンタに希望を見出した人がいるなら、アンタは絶対に死んじゃいけないのよ!」
「これだけ心配してくれる人がいる、家族がいる。マリンのことこんなに泣かせて、ミナだってずっと不安そうな顔してた」
「みんなみんなアンタに振り回されて、こんなとこで暗い顔してた。一回目で自覚しなさいよ——っ!」
「————っ! ミラ——っ。ごめ……いや、違う。ごめんじゃないよな」
——ああ——そっか——
ミラが怒るのは——他の誰よりも怒ってるのは、他の誰よりもその最期を悲しんだからか。
後悔したから、誰よりもつらかったから。
謝らない。って、僕がそう言ったら、ミラはひゅっと手を振り上げて、そしてそのまま僕の脳天に平手打ちを——ぴぉん⁉︎ 禿げる! 思ったより痛い! 禿げる!
「——っ! 悪い、寝ぼけてた! やるべきことをやるって言って、本当にやんなきゃいけないことを忘れてた」
「また、いつもみたいに。思いっきり暴れて解決してくれ、ミラ! 後のことはもう気にすんな!」
「——当然! 目が覚めたならさっさと起きなさい! いつまでもボサッとしてんじゃないわ!」
おう! と、僕はもう一回顔を叩いてベッドから飛び起きた。
そうだ、今更無法とかやり過ぎとか、そんな言葉は僕達にはナンセンスだった。
もしも大問題が起きたら…………大問題は困るなぁ。
ちょっとした問題が起きたら、僕が謝って謝って謝って謝って、で、償って働いて償って働いて返していけばいい。
ああもう、今になってみると自己保身ばっかりじゃないか。
「——ちょっ、アキトさん⁉︎ 何して——どこ行くの⁉︎」
「アキト! ダメだよ! まだ動いちゃダメだよ! 大怪我してるんだよ!」
あっ、ちょっ、ふたりがかりで止めないで、割とあっさり止まっちゃいそうになる。
まだまだ心配そうな顔の……いやー、ずっとこのままな気もする。
ずーっと、このふたりには心配掛けるんだろうな。
まだ泣いてる真鈴と、僕が変なことし始めたからまた泣きそうになってる花渕さん。
うん……謝るべきはこっちだね。
「ごめん、花渕さん。やんなきゃいけないことがあるんだ」
「真鈴、行く……ぞ……と、思ったけど、お前も怪我してるんだよな」
「じゃあ……ここに残って……ともいかないよなぁ」
「おぶって行きますから、また俺に力を貸してください」
真鈴は何回も何回も目を擦って、それでも結局涙は止まらなくて。
でも、どこかで吹っ切れたらしくて、バカアギト! と、怒鳴ると、いつもの顔になって僕達よりも前に歩み出た。
それでこそマーリンさんですよ。
「……兄さん、母さん。もうちょっとだけ心配掛けるけど……心配掛けないようにってやってたらこんなことになっちゃったから、もう開き直ってめっちゃ心配かけるけど」
「でも、次はもうちゃんと帰るから」
逃げた——わけじゃない。と、信じたい。
でも、僕はふたりの言葉も待たずに病室を飛び出した。
ミラが一番前を歩いてて、その後ろに僕がいて。
ちょっと後ろ、ほぼ真横にマーリンさんがいて、僕達を見守ってくれている。
これならもう間違えない、間違えても誰かが正してくれる。
「さ、行くわよ! 早く全部片付けて、向こうの問題も解決しなくちゃいけないんだから」
「——おう!」
向かう先はあの地下駐輪場。
多分、なんとかなる。
あそこには魔獣の痕跡がたくさんあるんだ。
ミラとマーリンさんがいたら——僕だけじゃないなら、なんとだってなる。




