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異世界転々  作者: 赤井天狐
最終章【在りし日の】
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第三百六十二話【呪を——】


 その光景は知っていた。

 一度視て、分かっていた。


 けれど——避けられなかった。


 また——また、ダメだった————


「————アキト————っ!」


 そこには少年アギトの姿は無い。


 そこにはアキトという男の姿も無い。


 あるのは変貌した願いの形だけ。

 禍々しく歪められた、願いだった筈の理想だけ。


 魔獣の足音も、それに僕の叫び声もかき消して、それは咆哮を上げた。

 お腹の底まで響いてくる重低音は、まるで雷鳴のようだった。


 空洞状のこの地下施設は、その音を何度も何度も繰り返して響かせる。


 これが僕の罪だと、そう責め立てられているようだった。


————獣の腕——獣の貌——

——獣の体躯で、それは魔獣を叩き伏せた————


 あり得ない。


 あり得てはいけない。


 アキトというただの人間——弱い人間には、あり得てはいけない変貌だった。


 前腕から先だけが、長くて黒い毛に覆われ、鋭くて太い爪をギラつかせている。


 右脚だけが異常に膨れ上がり、脱げたのか裂けたのかも分からない靴がそこらに転がっている。


 顎から上だけが狼のように変貌してしまったアキトからは、何も感情なんてものは読み取れない。


 これは——これこそが——僕の罪だ————


「——っ。アキト——ぉっ! しっかりして! アキト!」


 バツッ——と、何かが千切れる音がして、そして血飛沫が舞った。


 べちゃりと硬い地面に叩き付けられたのは、ぐちゃぐちゃに捻じ曲げられた魔獣の前肢だった。


 叩き伏せて、噛み千切って、食うのではなくただ殺す為にそれを破壊する。


 これは獣でも人でもない。暴走した敵対心だけで動いている怪物だ。


「アキト——っ! お願いだ! しっかり——ちゃんと自分を思い出して! アキト——っ!」


————これが——僕の背負わせた業だ————っ。


 自分を責めて解決するもんじゃないけど、どうしたって後悔せざるを得ない。


 分かっていた。

 この可能性はずっと前から知っていた。

 けれど……っ。


 この子なら——平凡で、優しくて、臆病で、弱いアギトなら大丈夫だって——現実から逃げてしまった、盲信してしまっていた。


 バツン! バツン! と、肉の食い破られる音が何度も響く。

 その度に魔獣だった肉片はそこらに散らかって、ひとつ、またひとつと絶命していく。


 こんなにも惨たらしい暴力を、あの子が望むわけなかったのに——っ。


「——アキトぉお——っ! 起きて! アキト! お願いだ! アギト——っ!」


 返事は無かった。


 べちゃりとまた肉片が転がって、そして獣の背中から敵意だけが消えた。


 僕の声に反応したんじゃない。

 ただ、それを向ける相手がいなくなってしまったから。


 魔獣は全て、アキトの手によって葬り去られていた。


 あり得ない——あり得ちゃいけない——って、食い止めなきゃいけないって、その為にこうしてこの世界にやってきたのに——っ。


——アギトには特別な力があった——


 それは元々持っていたものじゃない。

 僕の所為で付与された、忌まわしい呪いのようなものだった。


 願望を叶える——奇跡という結果だけを以って、全てを叶えるという呪い。


 最後の召喚から彼が帰還した時、その力の一端は既に発露してしまっていた。


「——アギト……お願いだよ、アギト……っ。起きて……目を覚まして……」


 その日、少年アギトはひとつ目の奇跡を起こした。


 ふたつの世界と縁を繋ぐ——彼が望んだわけでも、彼の力によるものでもないが、しかしそれは間違いなく奇跡だった。

 ひとつの精神、ひとつの意思、ひとり分の心で、彼はふたり分の身体を使役し始めた。


 少女の未来を変えた。


 少女の心を変えた。


 そして、世界の未来と滅亡を変えた。


 ただの少年でありながら、彼は世界を滅ぼしかねない脅威を打倒した。

 生きながらにして死を自覚するという、もうひとつの奇跡とともに、彼はまたそこに楔を打ち込んだ。


 三つ目の世界で勇気を取り戻し、四つ目の世界で再び死を味わい、五つ目の世界で獣と化した。

 彼の変質は、きっとこの時点で確定してしまっていた。


 六つ目の世界で世界そのものを確立し、七つ目の世界で超越存在と邂逅し、八つ目の世界で不可侵な未来に触れた。

 既に彼が異常であると、結果が全てを語ってくれていた。


 そしてふたつ目の世界で彼は笑い、こうしてひとつ目の世界に帰ってきた。


 なのに——っ。


「アギト……っ。ねえ……起きてよ……っ。アギト——っ」


 獣の姿になったアキトは、返事をしてくれなかった。


 こちらも見ず、どこにも意識を向けず、ただ外敵が現れるのを待っている。


——魔獣を排除する——


 平凡で、優しくて、臆病で、弱かった彼が望んだ、身の丈に合わない願い。


 奇跡は起こされる。


 それが当たり前だから、彼の願いは成就する。


 彼の知る形で——唯一手にしたことのある形で、つよい肉体をここに再構成してしまった。


「————っ⁉︎ なに——これ————っ!」


 突如、僕の眼球に熱が走った。

 あまりにも急で、そして予想外の出来事だった。


 きっと彼の願望には、僕やミライちゃんへの攻撃なんてのは含まれていない。

 だから、その痛みが怖かった。

 もう、僕と魔獣との区別も付かないのか、って。


 でも——違った——


「——なんだよ——これ——っ! マナが——っ。暴走してるのか——君だけじゃなくて——」


 見えたものは、歪みに歪んだ自然だった。


 大気中に含まれる魔力——自然に存在する魔力、マナ。

 それが全て、意思を持って形を創ろうとしているのが見えた。


 あり得ない、そんなのあってたまるか。


 僕でも——僕以外の本物の魔女でも、そこまでは出来ない。

 アギトはもう——魔女さえも超越して——


 暗い眼孔。


 黒い鱗に黒い翼。


 もたげた首をまっぷたつにかち割るような赤い口。


 その姿には覚えがあって、この未来はずっと否定したかったもので——

——あっちゃいけないって——なのに————


——魔竜——


 かつて、少年が見た最悪の形。


 死を、絶望を、恐怖を、嫌悪を煮固めた災厄。


 あまりにも強大で、あまりにも強靭で、あまりにも無慈悲な暴力が、大きな口をゆっくりと開けてこちらを睨み付ける。


「————ダメ——アギト——っ! ダメだ——逃げて——っ!」


 これは——これはアギトによる奇跡じゃない——っ。


 アギトの奇跡に引っ張られて覚醒した、この世界を襲っている何者かの意思。

 魔獣を——あり得ない生き物を引っ張り出す、正体不明の異質な力。


 アギトが枷を外したから——例外を作ってしまったから、この世界の理がそれを咎められなくなっている。


 突如現れた魔竜。それがどこからどう現れたのかなんて、今のアキトには関係無い。

 打ち倒すべき魔獣の、その一頭。

 ただそれだけを認識して、彼は獰猛な呻き声を上げて飛び掛かる。


 けれど——っ。


 それは魔獣ではない、そして魔竜でもないのだ。


「——アギト——ッッ!」


 獣の肉体は、あっさりと叩き伏せられた。


 振り回された尾に薙ぎ払われ、その足下に近付くことも出来ない。


 これは魔獣ではない。

 魔竜でもない。


 これは、アギトの中にある恐怖の再現。


 ミラちゃんを、オックスを、フルトの大勢の冒険者を蹂躙しただけの装置、その再現。


 だから、彼ではこれに届かない。


 アキトは一撃で動かなくなった。

 魔竜もそれ以上の追撃を見せることはなかったが、しかしアキトがもう動いてくれなくなってしまった。


 自分でも嘆かわしいくらい弱っちい身体は、悲鳴を上げて彼に駆け寄ることしか出来なかった。


「アキト——っ! 起きて! しっかりしろ! アキト! 逃げるんだ! ミライちゃんのところへ!」


 返事は無かった。


 完全に意識が切れて、歪んでいたマナもちょっとずつ落ち着きを取り戻す。


 魔竜はきっとすぐに消える。

 これはアギトの記憶だけで再現されたものだ、彼がいなければ成立しない。


 けれど、ここが特異点になっているのは変わらない。


 すぐに魔獣が発生してもおかしくない、早く逃げないと——


「——痛っ! 何が————虫——っ‼︎」


 不意に痛みが足を襲った。

 さっきの眼の熱さとは違う、もっともっと鮮烈でクリアな感覚だった。

 何かが足に噛みついたのだ。


 大急ぎで足を振るえば、何かが剥がれて飛んでいった。


 小さな虫……の、ように見えた。

 だけど、迫って来るものは違って見えた。


 黒い波が——うぞうぞと動く黒い波が——芋虫みたいな大きさの魔蟻が、大群となって僕達に押し寄せていた。


「っ——くそっ! こっち来るな! 来るな! アキト、起きて! 早く! こんなのに襲われたら——」


 マリンの小さな身体は、アキトの大きくもない身体さえ担ぎ上げられなかった。


 波はすぐに僕達を覆って、そして全身を文字通り刺すような痛みが包む。

 僕もアキトも、魔虫の群れに飲み込まれた。


「く——ぁっ……ぐっ! アキト! この! 起きて……っ。離れろ! こんな——こんな雑魚に——僕が——っ」


 どうして——どうして僕には力が無い————っ。


 未来が見えた。

 この未来も見えていた。

 なのに、どうしてこれを避けられなかった。


 どうしてこんな小さな虫けらさえも蹴散らせないでいる。


 どうして彼を蝕む恐怖を——魔竜を焼き滅ぼせないでいる。


 どうして——


「——うあぁああ——っ! 離れろ! ふざけるな!」

「僕が——僕がいてなんで君を守れない! なんでまた——また——僕は誰も守れないっていうのかよ————っ!」


 手を振り回して、足を振り回して、地面を転がって、それでも自分の身にへばり付いた虫を払い落とすことすら出来ない。


 僕の痛みはいい、それよりもアキトだ。


 さっきまで長い体毛に覆われていた筈の腕は、既に人間のものに戻っていた。


 だけど——っ。


 やっぱり無茶な変質だったんだ、青黒く変色していて少し冷たい。

 このままじゃ壊死してしまう。


 蟻に噛まれた場所からも、穴ばかりが増えるだけで、血の一滴すら流れない。


「——っ! 燃えろ! 燃えろよ! 燃え盛る紫陽花(バルナ・ハイディジア)——っ! 燃え盛る(バルナ)————っ」

「なんで——なんでなんだよ——っ!」


 言霊は火炎を放たない。

 祈りは救いを与えない。

 魔力は術を組み上げない、僕には彼を救えない。


 何が魔女だ、何が巫女だ、何が魔術師だ。


 どうして——僕にはなんの力も——


「——に——げろ——真鈴——」


「————アキ——ト————」


 どんと突き飛ばされて、そして僕の身体はアキトから遠のいた。


 すると、魔蟻は僕の身体から離れて、そしてアキトの方へばかり集まっていく。


 なんだ、どうしたことだ。

 これはなんだ、どうして僕が守られている。


 どうして——


 そこに勇者の姿は無い。

 平和な街の、少しだけ暗い地下施設に僕はいた。


 そこに勇者の姿は——


「————ぅうぁああああ————っっ!」


————ふざけるな————っ!

 勇者だ! 彼こそが勇者だ!

 他の誰でもない、アギトとアキトの気高い精神こそ勇者に相応しいんだ——っ!


 逃げろと、自分を犠牲に生き延びろと、彼はそう言って僕を突き飛ばした。


 ふざけるな——っ。

 それは——僕が背負わなくちゃならない責任なのに————


「——アキト! 目を覚まして! お願いだ!」

「一緒に逃げるんだよ! 僕が——僕が代わる! 君が生きなきゃ嘘だ!」

「この世界は君の住む世界で、君の住む街で、君の為の人生だ——っ!」

「お願いだから目を覚ましてくれ!」


 もう一度駆け寄って、そして虫を手で払い除ける。

 だけど、どれもこれも小ささからは想像出来ないくらい力強い。


 払っても払っても戻って来て、踏み潰しても動いていて、また僕まで蟻の群体に飲み込まれ——


「——え——?」


 ガジリ。ガジリ。と、身体中を噛み削られていく。その最中で、背中に違和感を覚えた。


 肉を噛み切られ過ぎた……?

 いいや、違った。


 それは——僕に与えられた最後の選択肢だった。


 銀色の髪。

 銀色の翼。

 きっと、瞳も瑠璃色に戻っているのだろう。


 マナが身体に寄ってくるのが分かる。


 アギトがそれを望んだことを——彼が僕の強さに憧れたことを知っている。


 忌々しい呪いとしてではなく、彼らを守る力として。


 僕の身体は、魔女の力を取り戻していた。


「——燃え盛る(バルナ)————っっ」


——そこに——かつて世界を救った筈の少年の姿は無い————


 あるのは惨たらしく変質した願望だけで、そこにはもう臆病で優しいアギトの姿は無い。


 そこに転がっているのは——魔女よりも悍ましい、魔と呼ぶに相応しい何かだった————


 これは選択だ——


 僕がここで魔女の力を振るえば、それは確定してしまう。


 この力は——この姿は、彼が意思を持って望んだものだ。

 深層意識ではなく、知性として思い描いた表層的な願望。


 僕をここから逃す為、難敵を全て排除する為、魔女という存在に回帰させるという奇跡を起こした。


 だから——これは選択だ——


————この力を振るえば——もう——彼は人間ではなくなってしまう————


「————マーリン——さん————」


「——っ。くそっ……くっそぉお————っ! 燃え盛る(バルナ)——紫陽花(ハイディジア)————ッ!」


 因果は固定された。


 彼が望み、世界が望み、マナが望み、そして僕が応えてしまった。


 撃ち放たれた魔術は魔虫と魔獣の残骸を焼き払い、そして僕の翼は熱を捕らえて空高く飛翔する。


 弱っちい腕でも、アキトの身体を抱きかかえて。

 かつてのように、空を舞って窮地を脱してしまった。


——これで——よかったのか——


「いいわけない——こんなの——こんな終わりなんて————っ」


 でも、それに頼るしかなかった。


 アキトが食い殺されてしまう、それを避ける手段が僕には無かった。


 だから、邪悪だと分かっていてもそれに縋るしかなかった。


 僕が——無力だった所為で——


 翼はすぐに揚力を失い、そして平坦とは言えない地面に僕達は叩き付けられた。


 段をいくつか転げ落ちて、それでも魔獣や魔虫からは逃げられた。だけど……っ。


「アキト……っ。アキト……起きてよ……っ。アキト……っ!」


 アキトは目を覚まさない。

 傷口からも血は流れていない。

 さっきぶつけた腕にも、アザのひとつすら出来ていない。

 ただ、段の形に凹んで戻らなくなってしまっている。


「誰か……誰か、助けて……っ。フリード……オックス……っ。誰か……」


 僕も……もう、動けなかった。


 翼は消え、髪の色は黒に戻った。

 魔術も使えない。

 彼を背負う力も無ければ、立ち上がる体力すらも無い。


 けれど……それは、確かに迫っている。


 べちゃり。べちゃり。と、湿った足音が近付いてくる。


 さっきのカエルじゃない。

 そして、魔竜でもない。


 また別の魔獣——魔力の乱れに引き寄せられた、新しい脅威。

 それが血や体液を踏み潰しながら近寄ってくるんだ。


 四つ足で、大きくて、顔が恐ろしくて、息を荒げた魔獣が。


「——誰か——っ。助けて——デンスケ————」


 轟音が聞こえた。

 魔獣の咆哮だろうか。


 もう、僕は助からなくていい。

 アキトだけは——この世界に生きているこの子だけは——っ。


 いざとなったら盾になるって言ったのに、それすら出来ないで——僕は——


「————【Lightning drift】————っ‼︎」


————そこに——巫女の姿は無い————


 あるのはただ、血と土に汚れた無力な子供の姿だけ。

 あるのはただ、希望を見上げる弱者の姿だけ。


 あるのはただ——世界を救う、勇者の背中だけ————


「————迎えに来たわよ——マリン——アキト————っ!」


「——ミラ——ちゃん——」


 あるのはただ——邪悪を貫く雷光だけ——


 世界最高の勇者は、当たり前に僕を助けてくれた。


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