第九十九話
すっかり体も乾いた僕らは、海を一望できるレストラン……を避けて、出来るだけ海から遠い食堂でご飯にありついていた。海が見えるところで良いものを食べようなどとは口が裂けても言えまい。ミラのトラウマをなるべく刺激しない様に……
「…………むぅ……」
さて、そんなミラさんなんだが、さっきから様子が変だ。食欲の権化みたいになってきた最近から考えると、とてもじゃないが理解し難い程食指が動いていない。さっきのアレは照れ隠しだけで無く、本当に体調が悪かったのではと不安に思うくらいだ。
「ミラ、大丈夫か? やっぱりまだ寒いか? どっか痛めたとかは……」
「大丈夫よ、ありがとう。ううん……大丈夫じゃないんだけど……」
そう言って、ミラは並べられた皿とのにらめっこに戻る。大丈夫と言われて納得出来る訳がない。だってこんなにも美味しいタコの刺身が……あれ?
「……もしかして、タコか……? それとも生魚?」
「…………アレ……タベモノジャナイ……」
そういってミラは顔を背けた。なるほど、まあ確かにタコは見た目で受け付けないという外国人が多いと聞くし。うん、納得……
「美味しいから、食べてごらんなさい。ほら、ほらほら」
「んんーっ! ムニエルが良いーっ!」
駄々をこねるんじゃありません。嫌がるミラの小さな口に、無理矢理タコの切り身をねじ込んだ。なんだろう……とても背徳的で嗜虐的な興奮を覚えそうになる。いやいや咀嚼を繰り返すとソレが食べられるものだと理解したのか、浮かない顔で次の一切れを自分で口に運んだ。ミラは一つ食わず嫌いを克服したようだ。
「さて、この後どうするっスか? 言われた通りホテルに予約はしてきたっス。今日は休んだ方が良さそうっスかね?」
「いえ、今日から聞き込みを開始するわ。一刻でも早く取っ捕まえないと、いつあんなのが孵るか分かったもんじゃないし。もし海棲適応なんてされたら、この街だけじゃない、ボルツや他の街の食糧事情にも大きく影響が出るもの」
ミラはそう言ったが……僕はソレに反対だ。元気になったのは認めるが、まだ顔色は優れない。もともと肌は白いが、それでも桜色の血色の良いミラが、それこそイカの刺身みたいにのっぺりと青みがかった、白んだ顔をしている。どうあれ体は冷やしたんだからしっかり休ませないと、コレは間違いなく体調不良など隠してしまうだろう。
「なら、それは俺とオックスでやるよ。お前は先に部屋に入ってろ」
「なっ……ダメよ! もし何かあったらどうするの!」
その為に武器を貰ったのだが……と、口答えをする気は無い。今はこの強情な少女を説き伏せる為に動くのが正着。無い頭を絞って考えた僕の作戦を伝えよう。
「何かあった時の為に、お前は対策を練ってくれ。街の全容を地図で把握して、隠れられそうな場所とか避難に使えるルートを何通りか考えておくんだ。最悪を考えるなら、まず街の人の避難が先だろう?」
街の人の安全となれば、彼女はコレがでまかせであるとしても頷かざるを得ない。そういう性分なのだから。と、彼女の正義感を利用している様で少し気が引けたが、まあ……あんまりほっとくと突っ走るし……
「……アンタの言うことにも一理ある。けど、二人だけでの行動は認めないわ」
「この意地っ張り。オックスもいるんだし、大丈夫だって」
さっきまで情けないくらい子供な顔をしていたミラも、すっかりいつもの頼れる顔になって。それでも子供みたいな意地を張る少女に、僕も再度要求する。頼むから、お前は休んでてくれって。
「…………ダメよ。認めない」
「なんでだよ! そんなに……そりゃ頼りないだろうけどさ」
少し感情的になって声を荒げた僕に、ふるふるとミラは首を横に振った。この間は頼りにしてるとか言ったくせに。と、毒突こうかと思った時、ミラの顔が少し赤らんでオックスの方をチラチラ見ながら僕に耳打ちしてきた。さっきもこんな事があったような……?
「…………べ、別に心細いとかは無いけど……ほら、アンタいないと寝つきが悪いっていうか……」
「そんなに怖かったの……」
側頭部に頭突きを貰った。それはやめろ! 本格的に脳へのダメージが心配になる! だがまあ……そう言われてしまったら……うん。それは僕の性分なのだから、ミラに頼られて仕舞えば僕は応えざるを得ない。もしそれが僕を危険から遠ざける為のあざとい嘘だったとしてもそうするし、こいつにそんな器用な真似が出来ると思わないから尚更だ。
「いいから! 今日は全員早めに休む事! 特にアンタはろくすっぽ寝てないんでしょう? そんな状態で魔獣と遭遇したら事だもの、単独行動は認めないわ!」
「はいはい……最初からそう言いなさいよ」
それはどういう意味よ。と、ミラは赤くなった顔を近付けて小さな声で問い詰める。そりゃあ……と、口を開きかけたところでまたオックスの距離が遠くなっていくのを感じて、咄嗟にミラを押し退けて食事を再開した。寂しがりやだな、お前ら。いや、僕も人のこと言えないんだろうけどさ。とにかく予定は決まった。ご飯食べたら今日はもう休む。まだ昼過ぎだが、多少の午睡くらい良いじゃないか。僕はイマイチ味の大雑把なタコを飲み込んでごちそうさまを言った。
それからすぐに、予定通りの約束通りに僕らはオックスの取ってくれた宿を訪れた。そしてまた、ミラの顔が青ざめる事となる。
「さ……さん…………へや……?」
「……っス。三部屋だとなんかあるんスか?」
なるほど、オックスは正しい。お金の都合を考えるとたしかに痛手ではあるのだが、若い男女が三人同部屋というわけにもいくまい。と、そう言うのではなく。どうやら小さな一人部屋しか空いていなかった様で、彼は気を利かせて、きちんとみんなが休める様に、リラックス出来る空間を準備しようと、そう気を利かせて一人一部屋あてがってくれたのだ。頼もしいし常識もあるし、なんて出来た好青年だろう。だが、それはコイツにとってそうでもないのだ。それは先日の晩に思い知らされたし、さっきも聞いた。
「……す、すいません。一部屋……いえ二部屋で大丈夫です。すいません……」
平謝りしながらミラは鍵を一つ返す。オックスはまた……ああ! だから遠くなるなって!
「そういう事なら先に言ってくれれば……いや、オレの落ち度っス。散々アピールはされていたのに、気付けなくて……」
「違うから! 何度も言うけど違うからな⁉︎」
あくまで金銭的負担の為とオックスに弁明する。その勘違いは僕の精神的負担が大きいから勘弁してくれ。いえ、周りから見て良い感じ見えるってんならそれはそれで……いやいや! 無いから! こいつにそんな情緒は無いからな!
それから僕達は、案内された部屋に荷物を下ろした。ミラは窓から見える青色の光景に絶句していたが……こればかりは耐えて貰うしか無い。頑張れミラ、お兄ちゃんがついてるからな、と言うしか。窓側に俺が寝るからさ。と、目を床へと向けて足踏みしたり地面を足で突いたりと、足が着く地面がある喜びを確かめているミラに言い聞かせて僕らは布団に入った。ダメだ……徹夜の疲れと布団の冷たさ、それと背中の温かさで……すぐに眠——
アラームなど鳴らない。それもそうだろう、だってあんなに早くに眠ったんだ。きっとまだ二時とかそんな、明朝ですら無い深夜の筈だ。僕はもぞもぞと手を這わせてスマホを探した。しかし、今日は暖かい夜だ。もう夏は終わると言うのに、夏みたいな匂いもする……?
「んん……アギトぉ……」
「…………あ……れ…………?」
二日目だと思っていたのだが、目を覚ますと僕はもう明るいボーロヌイの宿屋の部屋で目覚めた。これは……どう言う事だ……? 時間は……午前四時……? 待て、待って! 待ってくれ! 確か……ボルツでオックスのお爺さんがやっていると言う旅館に泊まって、ミラに小っ恥ずかしいことを言われた次の日僕は向こうに戻った。そして二日バイトをして、仏頂面の少女におっさんと呼ばれた胸の傷も癒えぬままこっちに戻ってきて……? ボルツをその日に出たのか……? 出た筈だ……? 出たんだ。そしてその日の晩……そうだ、盗賊の根城に泊まった。一晩明かしている以上は、昨日が二日目である事は間違いない。
「じゃあ……じゃあ向こうの僕はどうなる……?」
汗がどっと出た。この異常を相談できる相手もいない。ミラを起こしても何も解決しない。どうする、どうしたら良い。どうなる、もし三日目の朝をこちらで迎えたのなら……原口秋人はどうなる…………?
「ん……アギト……? 寝ないの……?」
「寝ないのって……もう朝で……あっ」
ああ、うん。なんでもない。今寝るから。僕はミラにそう言って布団に潜った。普通にこう……勘違いしたんだ、僕は。外を見れば、朝焼けとは思えない真っ赤な太陽が海に沈もうとしている。この街の西にある海に。うん……まだ眠れてなかっただけなんだな。ほっと胸を撫で下ろして、ゴロゴロと顔を擦り付けてくるミラの手を撫でて目を瞑った。心配するべきはコイツの体調と甘えグセだな、なんて考えながら。ああ、だけど……
——もしも本当に三日目を迎えたらどうなるのだろう——————