第九十七話
その小さな背中をぐいと伸ばして、少女は大きな欠伸をした。少年はまだ眠たげな眼を擦って、朝日を恨めしそうに睨んでいる。朝を迎えた僕らは、約束通り要塞から叩き出された。
「薄情なやつら……でも無いか。あんだけ迷惑かけといて」
「ほらアギト、何やってんの。もう行くわよ」
陽の光を浴びてキラキラ輝く錆びた鉄屋根を振り返って見ていた僕に、彼女はそう言った。名残惜しくも無い宴の席に別れを告げて、僕らはまた歩き出す。目的地は西、ボーロヌイという港町。正面に長く伸びる自分の影を追って進む。
「ところで、どんな所なんだ? 港町って事は分かったけど……」
「港町なんだもの、そりゃあ……魚介類よね」
誰もご飯の相談なんてしとらんわい。僕は目の前で揺れる小さな頭にチョップをかます。僕が聞きたいのはだなあ……
「そうっスねぇ。昔の話になるっスけど、安全な街だった筈っス。海から来る魔獣ってのは、まだ見た事も聞いたことも無いっスから。飛行型も流石に海の方までは行動圏外みたいで」
「なるほど、それはいい事聞いた。オックスは頼りになるな、食いしん坊の誰かさんと違って」
そんな弱々しい目で睨まれても怖く無いやい。振り返って涙目で睨んで来るミラの頭を撫でて、僕はまた思案に暮れる。海から来る魔獣はいない、と言うのは大きな収穫だ。取り敢えず海産物は安全に入手出来…………発想がミラと同レベルじゃ無いか!
「……あんまり浮かれんじゃないわよ? オックスの言った通り、それはあくまで昔の話。魔獣の卵の売買なんて事が行われている以上、確実な安全なんて存在しない。アレが街中で孵ればたちまちパニック、それに海棲魔獣が今も居ないなんて保証も無いわ」
「ふ……不安を煽る様な事言うなよな……」
ミラの言う事ももっともだ。僕らは問題の卵について調べる為に西へ歩いているわけだし、陸上とはいえ魚型の魔獣も見ている。いかん……胃が痛く……
「だからって暗い顔しないの。大丈夫、アンタは私が守ってあげるから。大船に乗った気分でいなさい」
「……頼りにしております」
出来れば……いえ、嬉しいし頼もしいんですけどね? 出来ればオックスの前ではそういう事言うのやめて頂きたくて。恥ずかしいじゃないの、いろんな意味で。ただでさえ変な勘違いされてるわけだし……
しばらく歩くと、地面の砂の粒子が大きくなってきた。より正確に言うと、固まってきた、だ。背の低い草だが、緑も見られるようになった。何より大きいな変化は……
「うえぇ……アギト……なんか変な……変な臭いしない……?」
「潮の香りです……風情も情緒も無いなお前は……」
お前……潮風嗅いだことなかったんかい。海が近いのだろうと、目的地が近いのだろうと教えてくれる海風によって、乾き切った大地は湿り気を帯び、塩害に強い植物だけが生息する。ただ一つ疑問があるとすれば、ボルツから徒歩で丸一日も歩けば着く様な距離に海があって何故……何故、雨が降らないのかと言うところ。
「……ミラ。この干ばつってさ、魔術や錬金術で人為的に引き起こされたって可能性は無いかな?」
「難しいところね。理屈の上では不可能じゃ無い、けど実践しようと思ったら並大抵の術師に出来る芸当じゃ無いわ。それこそ魔術翁クラスの術師でも無いと」
ミラは更にこう続けた。もしそうだとしても、村が干上がる程の長期間維持し続けようと思ったら、総魔力量は少年魔術翁をもってしても不可能に近い膨大な量を費やす必要がある、と。となれば……取り敢えずこの干害は人為的な物ではないと考えていいのだろう。
「……っ! 見えたわ! 二人とも、もうちょっとよ!」
少女はさっきまでの難しい顔から一変して、嬉しそうにそう言った。見えたというのは、きっと街の事だろう。サラサラした滑る足元が続いて流石に歩き疲れていた僕らには、有り難すぎる吉報だ。
街に辿り着いたのは、それからしばらく歩いた後。手元の時計では午前十一時半と言ったところか。あの要塞に時計は無く、ボルツを出発する前に一応合わせて来たが……安物買ってしまったからな、正直信頼性は薄い。だが、そう大きくズレている事もあるまい。門一つ、柵一つも設けていない無防備な街、ボーロヌイの港町に僕らは到着した。
「さぁーご飯よ! ムニエルにしようかなぁ……」
「はいはい、今度は勝手にどっか行かないでね」
僕は今度こそ逃さない様に、ガッチリお子様の手を握った。なんて強い力で引っ張るんだ、そんなに食い意地張って無かったじゃないか、初めて会った頃は。まだ慣れないのであろう磯の匂いに時たま目をシパシパさせながら、ミラはあっちこっちの様子を楽しそうに眺めている。ガラガダでもそうだったなあ。と、ふと懐かしくもなり……ああ、そう言えば街を出た事が無いと言っていたっけな……と、思い出す。海の匂いも、聞き齧ってはいたものの、初めて嗅いだんだろうと思えば楽しいのも頷ける。
「二人ともー。折角なら漁港の方で食べましょうよー。きっと新鮮な魚が入ってるっスよ」
「一理あるな。ミラ、待て。待てだってば」
よだれを拭きなさい。何処でもいいから早くご飯にしたいと顔に書いてある少女の手綱を握って、これまたはしゃいでいるオックスの後を追った。彼はそれなりにいろんな場所に行っているのだから、僕やミラよりもこういう時ずっと頼りになる。オックスに案内されるまま、潮風の吹く方に歩き続けると僕らの目の前には——
「………………っ‼︎ アギトっ‼︎ アギトアギトっっ‼︎」
きっとこれも初めてみる光景なのだろう。ああ……なら、その感動は僕の何倍にもなって当然だ。少女が目を輝かせて眺める先に——僕らの先に広がっているのは、ただの水平線。何一つ遮るものの無い、中天の陽に照らされて銀色に輝く大海原だった。
「アギトーっ! アギトっ! アギトっっ‼︎」
語彙力の死んだミラは、海から一切視線を外そうとせず、それでいて僕の手を強く握ってぴょんぴょん跳ねたり腕を引っ張ったり……その感動を表す手段を持っていない事を悔やむ暇も無いくらい、感情を全身から溢れさせる。だが残念、今度ばかりは僕も……ちょっとミラの事を構ってやれる余裕が無い。僕だってこんなもの見せられたら……
「お…………おぉおおおおおっ⁉︎ ミラっ! ミラーーっ‼︎」
「アギトーーっ‼︎」
もうどうしようもなくなって、僕らは抱き合って跳ね回っていた。こんな……こんなもん……どう吐き出せば良いのか分かるか!
「お、お二人とも……人前っスよ……」
オックスの言い分も分かる。普段なら僕も、恥ずかしいからやめようね。なんて、ミラに諭しただろう。だがそうじゃない、そうじゃないんだ、今回は! だって……だってこんなにも綺麗な……
「アギト! 決めたわ! 私アーヴィンにも海を作る! こんな良いもの、みんなにも見てもらわない手は無いわよ‼︎」
「お……おお! 良い! それ良い! じゃあロイドさんにお願いして、海を一望できるレストランを建てて貰おう! みんなで海を見ながらご飯食べて……」
良い! それ最高! なんて言い合って僕らは小躍りしながら海を目で堪能する。オックスは、海を作るって何っスか……と言っていたが……ええい! そんなの知るか! 僕らも自分で何言ってんのか分かっちゃいないんだよ!
「アギト! もっと近く! もっと近くで見たい!」
「おお! 行くか!」
「行かないっスよ! これ以上向こうに行ってももうレストランは無いっス! こっから先は造船所と防波堤と船着場っス‼︎」
オックスは何か言っていたが、僕らの足が、頭が、胸が止まる事を許さない。そうと決まったら一目散なのは、ミラの病気が感染ったか。僕らは静止する声など振り切って、一目散に走り出す。走って走って……ちょ、ミラ速……速い! そして……
「アギトーーーーっ‼︎ アギトっ⁉︎ アギ……っ⁉︎ アギト‼︎」
「…………おお……おおおおおっ⁉︎」
もう前には何も無い。空の青と海の青と、太陽の金と雲の白金だけ描いた絵画の様な景色。さっきまでは聞こえ無かった波の音。さっきまでとは比にならぬ程、濃い海の匂い。船着きの桟橋の一番先から眺める景色には、五感すべてを飲み込んでしまう程の雄大な力があった。
「〜〜〜〜〜〜〜っ‼︎」
ミラは堪らず全身を震わせる。後ろから声がした。オックスが追い付いたのだ。だが、その顔ももう僕らを引きずって帰ろうとするものでは無く、僕らと同じ自然に圧倒され魅了されたものの顔だった。
「〜〜っ! やっほーーっ!」
ミラはそんなオックスの方も振り返らずに海に飛び込んだ。あっ! ズルイ! 抜け駆けしたミラに僕とオックスが声を揃えてそう叫んで鞄を下ろしている時のことだった。
「…………ミラさん? おーい? ミラさーん?」
「……あれ? あいつ海初めてだよな…………っていうか、アーヴィンって深い川も無かったような…………っ!」
僕とオックスは急いでシャツを脱いだ。飛び込む支度が出来るよりも先に海面が荒れる。バシャバシャという音とともにミラが顔を出した。
「アギっ……っ⁉︎ 足つかなごぼぼぼっ! アギトーごぼぼぼぼぼ……」
「当たり前だーーーっ‼︎ 今行くから力抜け! 暴れるな!」
二人掛かりで引き上げた時には、さっきまでのキラキラした目は恐怖に震えていた。海も深い川も無いアーヴィンから一歩も出た事が無いのだから当然なのだが、うん。
「……ウミ……ウミコワイ……」
ミラはカナヅチだった。