第三百三十九話【夜の雨】
「それじゃあ帰るから、ふたりともちゃんと歯磨きして寝るんだぞ」
気付けばすっかり遅い時間になってしまっていて、僕は慌てて帰り支度を済ませてふたりにそう言った。
未来はまた英語の勉強に夢中で空返事しかしてくれないし、真鈴もなんだかすっごく眠たそうな顔で手を振ってくれるだけ。うーん……塩……
「……っと、そうだ。真鈴、鍵……は、明日話するか。おやすみ」
おやすみー。と、真鈴は大きな欠伸をしながら返事をしてくれて、僕が玄関に辿り着く前には床に転がって丸くなってしまっていた。んもう、お布団に行きなさいって。
未来がすっかり勉強に集中してるから……これ、放置されるな、そこそこ。風邪引くかな。
くっ……分かったよ、お布団に入れてから帰るよ……っ。
「んふふ……ごめんねぇ。なんだか……ふわぁ。やっぱり身体に引っ張られてるのか……すぐに眠たくなっちゃって……」
「……無理はダメだからな。もともとへっぽこのポンコツなんだから、未来に付き合って無茶したりするなよ」
誰がポンコツだい。と、真鈴はふにゃふにゃになったままそう言ったが、布団に寝かせてやればすぐに寝息を立て始めてしまった。
星見の件、それに未来の魔術の手伝い。
そもそも小さな身体だし、体力が少ないであろうことも明白だ。
アギトが僕よりもずっと体力があったように。
「無理はさせられない……な。よし。今度こそ帰るからなー、未来―。朝ごはんは作ってあるから、あっためて食べるんだぞー」
はいはい。なんて生返事でも今はいいか。集中してるんだし、邪魔しちゃいけないもんな。
今度こそマンションを出て……うっ、かなり暗い……。もう六月も一週間経ったし、暗くなるの遅いと思ってたんだけどな……
「これ……雨降らないよな……? 急いで帰るか」
傘とか持ってないしね。
もうこの帰り道も慣れた。杖が無くてもフラついたりしない。
うん、じゃあ急ごう。僕は小走りで家路に就く。もうひとつの家族の待つ家にさっさと帰るのだ。
さっさと……ケーキ、次はふたりの分も買って帰るから……
家までまだそこそこ距離があるってのに、悪い予想通り小雨が僕の肩を濡らし始めた。ひぃん、寒いぃ。
疲れて小走りもやめてたんだけど、こうなったらもう本気ダッシュしかない。
よーし、次の曲がり角超えたら……息を整えて、次の曲がり角で……気合を入れて、その次で走ろう……走れたら、走ろうかなー……
「……? なんの音だろ」
ぽつぽつという雨音の中に、なんだか……こう……煙……えっと、お湯が沸き始めた時みたいな音が混じっている……気がする。
未来みたいに耳が良いわけでもないから、そんな気がする……ってとこ止まりだけど。
でも……聞こえるような気がする。
じゅうじゅう……じゅわじゅわ……って、何かが泡立つような音だ。
「こっちから……? 違う、もう一本向こう……?」
いや、やっぱりこっちかな?
正確な場所なんて分かんない。こういう時にはいつもミラが引っ張ってってくれたから、僕ひとりだとやっぱり大したことは出来ないな……
でも、気になっちゃったからには調べてみよう。
もし魔獣の手掛かりが見つかれば御の字。そうでなくても……
「そう教えられて育ったからね。はあ……ふたりがこっちにいなければ、こんなの無視して帰っただろうに……」
マーリンさんにそう育てられた以上、アギトとしての使命感がちょっと強めに出てる今は、そういうのを気にしなくちゃ気が済まないのだ。
気になったら調べなさい、自分で見に行きなさい。
生まれ育った町の知らない道にも、好奇心を向けなさい……って、きっとあの人ならそう言うだろう。
曲がり角をひとつ抜け、カーブミラーが置かれるくらい大きく曲がった一本道を進み、そしてようやく僕は異音の正体に気が付いた。
ずーっと同じ音量で、同じくらいの距離で鳴り続けてたそれは、側溝に流れ込む雨水と生活排水が合流する音だった……らしい。多分。
「……濡れ損……っ。ああもう! めっちゃ濡れたのに! 寒かったのに!」
バカじゃないかこれじゃ! いや、冷静に考えたら本当にただのバカだけど。
まあいいや、ちょっとスッキリしたし。
蓋の無い側溝からはゴボゴボ聞こえるんだけど、蓋されてて音の出所が小さいとそういう風に聞こえるんだ。
うん、解決。解決したからはよ帰ろう。
早く帰ってお風呂入って……その前にちょっと怒られるかな……?
いやいや、子供じゃないんだから、今更帰りが遅いとか雨に濡れたとかでは何も言われないって。
うん、だから……
「……まだなんかある……のか? 何かあるって……そう思って……」
足はまだ家の方を向かなかった。
何も無い……と思うんだけど、どうしてもこのまま帰ろうという気分になってくれない。
この感覚にはちょっとだけ覚えがある。
何も特別な意味や理由なんて無い。これはただの勘違い——雨に打たれてるとちょっとセンチメンタルなシーンっぽく感じるから、勝手に妄想に耽ってしまうみたいなやつ。
そう、それだけ……の筈。
「————っ」
雨だし夜だしで視界は最悪、もう殆ど何も見えない。
たまに遠くで車のライトが見える以外は、家の光が溢れてるくらいだ。
くそう……なんだってこうも街灯が少ないんだ、僕の故郷は。田舎だからか、田舎だから暗いんか。
暗い——暗くて暗くて、本当に暗くて——明かりが少ないからじゃない、違う理由で視界が暗いのだと気付いた時には手遅れだった。
頭だけは冷静だった。ああ——最悪だ、またやった。
これ、昔にもあったんだ。ミラが倒れた時とか、兄さんが倒れた時とか。
周りが見えなくなって、自分の中に生まれた答えの中のたったひとつだけを盲信して。
極端に視野が狭窄する、一番やっちゃいけないって反省した筈のやらかしだったのに————
「——魔獣————こんなに————っ」
それは痕跡——ずっとずっと求めていた証拠だった。
辿り着いたのは、家からもマンションからもずっと遠い、住宅街の外れにある自然公園だった。
コンクリートの舗装はここで途切れていて、数少ない街頭の代わりに、大きな木が僕を見下ろしている。
そこに残っていたのは、人でも犬でもイノシシでもない、得体の知れない大きな足跡だった。
「ふたりに報告しなきゃ。電話……なんて通ってないよな、そりゃ。ああもう、スマホ持たせてやるか……? いや……結局目で見なきゃ分かんないよな。だったら……」
走ってもう一回マンションへ戻るか。いや、時間を考えろ。
真鈴はもう寝てた。未来だって休ませてやらないと。
じゃあ……どうする。ひとまずこの足跡は写真に撮っておくとして……
「……この奥……っ。まだ……まだいるんだとしたら……」
確かめる必要があるんじゃないのか。
もしもこれが新しい——本当についさっき出来た足跡だとしたら、それは……困る。
でも、そうじゃないなら……っ。
もっと困る、これに未来が気付けなかったってことになるんだ。
アイツの耳も鼻も目も、それに直感も。何もかもがこれを見落としてしまっていた。
そんなことになったら、この先の調査で何かを見付けられる可能性が一気に低くなってしまう。
もしもそうだとしたら、今ここで調べておかないと……
「っ。寒いし微妙に怖いけど……行くしかない」
雨は幸いまだ小降りのまま。
本降りになる前には切り上げるって自分に言い聞かせて、僕はぬかるんだ地面に足を踏み入れた。
足跡は奥に向かって……向かってるんだろう、多分。
爪が生えてる方が前だなんて常識すら無いんだから、これもまた憶測でしかないけど。
でも、一方向にしか足は向いてない。
大して広い公園じゃない。全部見て回ったらそれなりだけど、真っ直ぐ進んで反対側に出るだけなら五分かそこらで抜けられる。
足跡を追って慎重に歩いて、そして僕は足跡の切れ目に辿り着いた。
なんのことはない、そこでまた地面がコンクリートに覆われたのだ。
「……収穫無し……かよ。はあ……濡れ損……」
徒労に徒労を重ねた結果……だけど、何も無いならそれはそれでよしだ。
でも……じゃあ、この足跡はなんだったんだろうか。
この公園に住み着いた……或いはここから出現した……ということじゃない?
だとすると……ここはたまたま魔獣が通っただけ、とか。
でも……だとすると、それなりに大きいのがこの近くでうろついてたことになる。
目撃者が……もしかしたら被害者が出てるかもしれない。
「もしそうならまたニュースになってるかも。帰ったらSNS見て……? また……この音……」
こぽ——ごぽごぽ——と、また水の音が聞こえる。
そりゃあ公園から出たんだから、道路脇の側溝から聞こえるようになったんだろう。だけど……?
暗いから……かな、やっぱり。これが凄く怖いものな気がして、僕はびくびく怯えながら辺りを見回していた。
でも……やっぱり何かがいる様子は無い。
明日は未来を連れてここへ来る。アイツに見て貰えば何かが分かる筈だ。
こんな時にも情けない話だけど、アイツと一緒だったらと考えたら怖さも半分くらいになった。
小雨とはいえ長い時間うろつき過ぎた、すっかりずぶ濡れだ。
何も収穫が無かったことに落ち込んで、何も危ない思いをしなくて済んだことに安堵して。そして今度こそ走って家に向かった。
風邪引いたら、花渕さんにも未来にも色々言われかねない。帰ったらさっさとお風呂に入ろう。




