第三百三十話【どれだけ平穏であろうと】
猫ちゃんに癒され、脅かされ、或いは眠らされ。三者三様の楽しみ方をした猫カフェを後にした僕達は、少しだけ商店街をぶらついて帰途に就いた。
行きよりも混んでる電車に乗って、また馴染み深い町へ帰る。
「つ……着いた……ひぃ……」
ただいまはもうちょっと先、駅から出て人混みから逃げてとにかく必死に新鮮な空気を吸う。
もう……もう本当にダメ。乗り物酔いが酷い。どうして……どうして僕はこんなにも無力……っ。
「それじゃあ……ひゅぅ……買い物して……こひゅ……帰るか……こふっ」
「大丈夫かい……? 肩でも貸そうか……なんて、今の僕が言っても、か。杖、やっぱり持ち歩くべきだったね」
いえいえ、そこまでではなくて。
情けないわねって顔で未来が僕の背中を押すから、真鈴も一緒になって僕の手を引っ張る。
こう……あれだな。結局変わんねえな、向こうと。むぐぐ……僕がふたりを案内する筈が……
「晩御飯は用意してあるから……明日の朝ごはんと、それにお昼ご飯も準備しておかないとな。
なんか食べたいもの……肉とか魚とかのレベルで良いから、何かあるか?」
「そこまで準備して貰わなくても、昨日食材は買ってくれたじゃないか。台所の使い方も教えて貰ったし、僕達だけで大丈夫だよ」
私達を誰だと思ってんのよ。と、後ろからも文句が聞こえた。
そんな未来の態度に真鈴も便乗したのか、僕のお腹をぺちぺちと叩き始める。
しかし、こうしてるとふたりとも人懐っこい子供にしか見えんな。いや、未来は元々人懐っこい子供だけど。
「念の為ちょっとだけ買い物して帰るか。パックごはんとかレトルトとか、日持ちするものなら幾らか買い置きも出来るし」
「またこんびにに行くの? それともすーぱー? どっちでも良いけど、あんまり無理するんじゃないわよ」
ぺちん。と、最後に一発叩いて、未来は僕の背中から離れて真鈴と手を繋いで歩き始めた。すっかりお気に入りだな、お姉ちゃんポジション。
「そうだよ。まだ身体も本調子じゃないだろうし、それに他にやるべきこともある。ここで倒れられるわけにはいかないからね」
「だ、大丈夫だって、信用無いなぁ……。体力はこれでマックスなの」
残念ながらね。
のんびりした足取りで、たわいも無い話を……晩御飯の話をしながら、マンションまでの道のりにあるスーパーへと向かう。
ふたりはご飯の準備くらい自分で出来るって言ってたけど、僕がやることに意味があるのだ。
恩返しという僕個人の目的と、そして……保護責任者として望月さんに認めて貰う為の……っ。
「————? アキト、マリン。ちょっと待って」
「へ? どっ、おっ、あぶっ……あ、危ないな、いきなり止まるなよ」
そんなのんびりした空気を吹き払ったのは、突如足を止めてキョロキョロと周囲を窺い始めた未来だった。
何やら真剣な様子だけど……なんだろうか。焼き芋……なんてまだ早過ぎるよな。
そうなると……もしかして、うちの移動販売が近くでやってるとか。それならちょっと買って行くのも手かな?
ふたりに食べて貰いたいし、お店の売り上げにもなるし。
「————こっち——いや、こっち! ふたりとも付いて来て!」
「お、おい! 危ないから走るな! 車来るから!」
いや、車来てたらアイツなら分かるか。いやいや、そういう問題じゃない。
来てるけど跳べば避けられる……みたいな考えを持ちかねないんだから、アイツは。
しかし何を見付けたのだろうか。あんなにも真面目な顔で走り出したってことは、そんなに良い匂いが……
「——っ! ああもう……ダメだ、危機感なんてこれっぽっちも持ててなかった。未来! 道分かんないだろお前! 案内するから、ちょっと戻って来い!」
この大バカアキトが!
未来の背中には緊張感があった。これはつまり、魔獣——なんらかの危険を感知したってことだ。
「……アギトだったらちゃんと気付けた自信あるのに……っ。猫ちゃんが……猫ちゃんが想像以上の癒しをくれたから……っ」
「なんだかよく分かんないぼやきは後だよ。もし本当に魔獣だとして……そして君の言う通り、この街が多くの目によって監視されているとしたら……」
未来を先行させて対処に当たらせる。僕達がいつもやってた、それこそ魔王との戦いでも採用してた方針はあまり取りたくない。
でも、急がないとどこに被害が出るかも分からない。
でも……僕が急いだところで……
「たかが知れてる……っ。ぐ……ぐぐ……っ。未来! 絶対逃げること! 絶対暴れないこと! それと、絶対誰も傷付けさせないこと! それだけ守って先行してくれ!」
「——誰に言ってんのよ、バカアキト! 当然——っ!」
最優先すべきはなんだ。まず何より被害を出さないことだろうが。
僕達が活動出来なくなる事態を避けることも、明日からの被害を防ぐ為には絶対条件だろう。
なら、両方欲張れば良い。
未来なら出来る、やってきた。
頼むって頭を下げるよりも前に、未来はものすごいスピードで駆け出して……待った! 行き先教えて! 待って未来ちゃん! どこ行くかだけ教えてって!
「アキト、ゆっくりで良いとは言わない。でも、焦らないで。
魔力痕を残してくれてる、これなら僕達も後を追える。
それに、こういうやり方なら他の人に迷惑は掛からないだろう。
僕達には僕達だけの特別なやり方がある、上手いこと使ってくれ」
「魔力痕……そっか、その手があった。ああもう……それも前は僕が自分で気付けたのに……っ」
そればかりは仕方ないよ。と、真鈴は僕の手をギュッと握って、そしてこっちこっちと案内を始めた。
ふたりは変わらず頼もしいのに、僕は余計にダメダメになってるじゃないか。
「君はアギトじゃない。その記憶を持ってて、その絆を持ってて、その精神性を持っていても、君はアギトという肉体を持っていない。
培われた経験……動物的な本能は、どうしたってそこに依存する。
むしろ君は安堵すべきだと思うけどね。この安全な世界に暮らしながら、魔獣に怯えるなんてちぐはぐな行動を取らずに済むんだから」
「……ものは言いよう……か、むぐぐ。ごめん、真鈴。案内全部任せる。
またケーキ買って来るから、こういうとこはふたりにめっちゃ頼らせて」
めっちゃ頼ってくれたまえ。なんていつもの調子で胸を張る真鈴に手を引かれて、小走りで曲がり角を三つ抜けた先のことだった。
そこには未来の背中があって、しかし魔獣を見付けた様子も無くて……?
「未来……? どうした? もしかして見失ったか?」
「っ……そうね、見失ったわ。匂いが消えた……完全に消滅してる。こんなのあり得ない……けど、こういうのがあり得ちゃう問題だってことね」
厄介極まりないわ。と、未来は拳を握り、そしてまた鼻をひくつかせる。
匂いが消えた……か。それってつまり、まだ魔獣は完全には実体化してないってことなのかな?
それで……こう……たまたま一瞬だけ実体を持ったから未来の鼻がそれを捉えて、でもすぐに消えちゃって……みたいな。
「……ミライちゃん。匂いが消えた……っていうのは、残り香も消えてしまったってことでいいのかな?
だとすると……因果そのものがまだ確立していない……いや、そもそも確立させる必要が無いのかも。
それでも、一瞬は匂いがあった——一瞬だけでも実体化した可能性がある、と」
「その一瞬で誰かが傷付けられないとも限らない。もしかしたら、完全に実体化した後より、今の方が危ないかも」
なんとかして対策を練らないと。未来も真鈴も険しい表情で俯いてしまった。
一瞬だけ現れて、その時だけ暴れて、そして未来が探知して駆け付けるよりも前に消えてしまう。
もし本当にそうなってしまったら、これはもう手の付けようのない問題になってしまう。
対策って言っても……現れるまでこっちは動けないんだし……
「……有効な手段は、現状だととてもありそうにないね。よし、一度切り替えよう。
今日のことは一度忘れて、相変わらずこちらから探知する手段は皆無だと意識するように。
被害が出る……のは、もう避けられないかもしれない。もっとも、それを是とするつもりも無いけれど」
追い付く方法は無い。なら、先回りする方法を考えるべきだ。真鈴はそう言って僕達の手を取った。
ほら、行こう。こんなところで立ち止まっているのは不自然だ。
監視があるのなら、それらしく振る舞う方が良いだろう。なんて……い、いや、そこまでガチガチに監視されてるわけじゃ……
「罠を張ろう、そこら中に。安全が最優先だ、三段階に分けて慎重にことを運ぶよ。
まず、この問題に魔力が関与しているかを確かめる。ミライちゃん。ここまで言えば、君ならもう分かるよね?」
「はい。まず、魔力を感知する網を張り巡らせる。人間とも動物とも違う、異様な魔力を感知出来たなら、それが魔獣ということになるでしょう。もしもそれが見つかったなら……」
次に、その魔力に対してのみ作用する探知の罠を設置する。
それに引っ掛かるようであれば、最後にその魔力源に対して捕縛を試みる罠を。
なんだか物騒な話に聞こえるけど……町の人に被害が出ないように、全力で配慮してくれてるみたいだ。
「うん、よろしい。さて、明日からの目的が定まったね。となったら、今日は早くご飯を食べて寝よう。
アキト、君は君の生活を優先しなさい。網を張れるのはミライちゃんだけ、目的地も無いから案内も必要無い。そろそろお仕事に戻るんだろう?」
「……分かった。何かあったら頼ってくださいね。それと、無茶も無理も無茶苦茶も禁止ですから」
信用無いなぁ。と、真鈴も未来も僕をジトっと睨んで、そしてすぐに笑顔に戻った。
問題の深度が深まった……が、それと同時にこちらから動く算段も付いた。
何も解決していないし、結果的には好転もしていないが、少しだけ前を向く余裕は出来そうだ。




