第三百二十五話【今の僕に出来ること】
魔獣の認知はみんな同じ——別のものに見えてるなんて面倒ごとはない。これが一歩の前進。
真鈴の持つ星見の力は、以前ほどの精度ではなくなっている。これが一歩……いや、半歩の後退。
「……半歩前進……だけじゃ、絶対に間に合わない。よし……っ」
アラームよりも前に目を覚まし、そしてぐっぐっと拳を握り込む。
握力……かなり落ちてたけど、ずいぶん戻ってくれたっぽい。いや、戻ってもへっぽこだけど。
でも、これなら大丈夫。秋人として生きて行くには十分回復した。
「おはよう、アキちゃん。もう杖突いてなくて大丈夫なの? あんまり無茶はダメよ?」
「おはよう、母さん。大丈夫大丈夫、無茶した甲斐があったのかな、もうずいぶん身体が軽いんだ。筋肉痛はあるけどね……」
そしてこれが、もう半歩分の前進になってくれる筈。
目を覚ましてから今日が七日目——ちょうど一週間だ。
散々歩き回ったおかげだろう、もう杖無しでもフラついたりしないくらいに体力も戻っている。
これならアイツらの足を引っ張らずに済む。これならお店に戻ることも出来る。
うん、大丈夫。半歩分くらいはある。あって。無かったら上手いこと付け足して繰り上げて。
「ちょっとお店見てくるよ。日曜日だし、こんなのでも手伝いくらいは出来る筈。もしいらないって言われたら……まあ……」
「無理はしないでね。結局原因もハッキリしなかったんだし、疲れを溜めたらまた倒れちゃうかもしれないんだから」
うっ……心配掛けてごめんなさい。
でも、原因はハッキリしているのだ。僕の中でだけは……なのが問題なんだけどさ。
僕はもう倒れない、寝たきりにならない。少なくとも、切り替わらない間は。この問題を解決するまでの間は。
朝ごはんもそこそこに家を飛び出して、僕はお店へ……行く前に、未来と真鈴に朝ごはんを届けにマンションへと向かった。
いや……さ。真鈴の体力に問題があるなら、自炊するにしても僕が手伝ってあげた方が良いかなって。
負担を軽くしてあげれば、大切な場面できっと有効な一手を打ってくれる。
或いは、危険なんてものが迫らないように先手を打ってくれる。
そういう能力だし、そういう人だ。
「おはよーう、来たぞー……っと。まだ寝てるかな、ちびっ子達は」
うん、寝てるねこれは。時間も時間だし、そもそも寝坊助だしね。
それなら都合が良い。今のうちにご飯を作っておいてあげよう。
音とか匂いで起きて来るかもしれないけど、それならそれで……アンタ料理なんて出来たの⁈ と、ちょっとしたサプライズを仕掛けられるというものだ。
「ま、とは言え簡単なものしか作れないけどね。花渕さんと店長に弟子入りしようかな……真面目に……」
朝ごはん、何が良いかな。
あんまり重たいものだとつらいかもしれないけど……いや、もしお店手伝うってなったら、お昼ご飯作りに来る時間無いわ。
じゃあ……お昼用の麻婆豆腐と、朝はうどんとサラダでも置いておけば良いかな?
おい、そこ。作ったうちに入るかそれ? とか言うのは禁止だぞ。
食べられる状態のものにした時点で、それは料理なんだよ。
冷奴丼よりずっとずっと文化的だろうがよ、あれも美味しいけども。
「しかし冷蔵庫デカいな。冷凍食品とか、電子レンジの説明してやれば買い置き楽だよな。でも……いっぺんに教えてパンクしないかな、大丈夫かな」
大丈夫か。何せ大魔導士に術師五家の当主だ。
あの国で賢人を上から連れて来いとなったなら、多分ベスト十六……三十……五十には名を連ねていて欲しい。
術師って括りだと間違いなく五本の指に入るだろうけど、ふたりとも常識は怪しいからな……
鍋にいっぱいのお湯を沸かしてうどんを茹で始める頃、ぺたぺたと小さな足音を連れて真鈴が起きて来てしまった。ああ、ごめんね。起こしちゃったね。
まだしょぼしょぼしてるらしい目を擦るその姿は、とても賢人とは呼び難い幼いものだった。うふふ、かわいい。
「ふわぁ……おはよう、アキト。ご飯作ってるの……っ⁈ だ、大丈夫かい⁈ ひとりで出来るかい⁉︎
ごめんね、情けないところを見せ過ぎた。そのくらいの体力はあるから、無理はしなくていいからね⁈」
「ちょっ、これっぽっちも信用が無い! ご飯くらい作れるよ、そこで見てなさい。まったくもう……って言うか向こうでもエルゥさんの手伝いとかしてるじゃないか……」
それを見てるから心配なんだよ……と、真鈴は凄くそわそわしてて……目、もうぱっちりですね。そうですか、僕が料理してる姿はそんなにショッキングでしたか、そうですか。ぐすん……
「大体、向こうとこっちじゃ設備が違うからね。火を起こすのもワンタッチだし、加熱するのも機械に全部任せちゃえる。
そりゃ確かに……向こうじゃ……役に立ってなかったかもしれないけど……ぐすん」
「ああっ、ごめんごめん。でも……ふふ、ありがとう。嬉しいよ、君が僕達にご飯を作ってくれるなんて。
やれやれ、どうも子供の成長を喜ぶ親の気分だ。こんなに小さくなったのにね」
ママって呼ぶとちょっと怒るくせに自分では言うんかい。
でも……まあ、そういう意図が無いわけでもないから言い返せない。
この人に恩を返すってずーっと言ってるもんな、僕達。
アギトじゃちょっと難しいけど、せめてこっちにいる間は頼りにして貰わないと。
「ふむふむ、その設備は調理場だったんだね。ふーむ……なるほど。
こうして稼働しているところを見ると、向こうとそう変わらないのだと理解出来る。
ただ、そのどれもがより高度な技術の集合体だ。
まさか、かまどがこんなにも小さくなっているとはね」
「火についてはすっごく便利になってますよ。まあ……ふたりは魔術でぱぱっと着けちゃうから、あんまり実感出来ないかもですけど。このボタンをですね……」
ちょっとだけ抵抗のあるボタンをカチンと押し込むと、コンロは熱と共に青い炎を灯す。
それからレバーで火力を調節してやれば、真鈴は目をキラキラさせてそれに見入っていた。
こんなの、アンタら術師にとっては日常茶飯事でしょうに。
「いやいや……うん、凄いね。もしもこの未来に僕達も辿り着けるのだとしたら、早いとこ魔術翁に伝えてあげないと。
もしもクリフィアを立て直せたとしても、術師はそのうち無用になってしまうぞ……と」
「やめてください、そんな夢をぶち壊すようなマネ。と言うか、流石に僕らが生きてる間にここまでは辿り着けないですよ。多分ですけど……」
やっぱりそうだよねぇ。なんて真鈴がため息をつくと、またがちゃんという音とともにドアが開いた。今度は未来が起きて来たみたいだ。
さっきの真鈴よろしく目をごしごし擦って……僕が料理をしてる姿を見て、目をまんまるにして心配し始めてしまった。お前ら……
「真鈴、未来と一緒にお皿出して。昼ごはんも作っておくから、お腹空いたらあっためて食べて。電子レンジの使い方教えるから」
「はーい。ミライちゃん、気持ちは分かるけどお手伝いしようか。どうやらアキトは、僕達が思っている以上に頼もしいみたいだよ。それに、この世界の技術もね」
本当の本当に大丈夫なんでしょうねって顔で未来は僕の手つきをじとーっと睨んで、それから渋々お皿を運び始めた。こいつ……っ。
ひとまず朝ごはんだ。茹で上がったうどんをザルに移して水で冷やして、それから大きいボウルに移し替えて……
「…………あっ、めんつゆ……ふたりとも、ちょっと待ってて! つゆ……ソース? 買って来るから!」
「……思ってた通りの情けないアギトじゃない。はあ……まったく、ほんっとうに締まらないわね、アンタは」
くぅ……言い返せねえ……っ。
しかし素うどんなんて味気ないもの出すわけにもいかん。
大急ぎでコンビニに行って……あるよね、うどんつゆ。あったはず……あの、ストレートタイプ。
いえ、その……希釈するやつ、あんまりその……使ったことないから……
大正義コンビニエンスストアの力で失態を取り戻し、僕達は揃って朝ごはんを……馬鹿みたいな量のざるうどんを平らげた。
この為に母さんのご飯をちょびっとで我慢したんだ。
まあ、僕が食べなくても未来が全部食べただろうけど。
でも、やっぱりみんなで食べるなら僕も食べたいじゃない。
「こういった麺類は向こうじゃ珍しいね。それにこのスープだ。濁りの無い見た目からは想像出来ないくらいしっかりした味で、けれど塩っ辛さや混ぜこぜ感も無い。
ふむふむ……これはあれだね、進化と言うよりも、文化圏の違いが生んだ差だろう」
「……うどん食べて最初の感想がそれなの、子供として色々おかしいから人前では口にしないでくださいね……?」
分かっているとも。と、真鈴は……マーリンさんは、か。良い返事はするものの、物珍しそうにうどんつゆを眺めたり匂いを嗅いだり舐めたり……普段料理するからこその反応なのかな。
文化圏……ってのはよく分かんないけど、こういう出汁文化は別に現代ならではじゃないし、向こうでも再現出来るだろう。
麺も基本的には小麦粉だし、フルセットで作れちゃうかも。
「そうだ。真鈴の分のケーキ残してあるから、今日のうちに食べちゃって。
冷蔵庫に入れてるとはいえ、古くなると固くなっちゃうし」
「昨日アキトが持ってきたのだよね。食べちゃっても良かったのに。でも、その気遣いは嬉しいよ、ふたりともありがとう」
いやいや、流石に残しておかない理由が無い。未来だってそこは空気を読んでくれるくらいだ。楽しい思いはみんなで共有しないとね。
さて、お腹いっぱいになって、これからどうしようかとワクワクしてるふたりには悪いんだけど……
「ごめん。ちょっと今日も仕事に行ってくる。まあ……その……病み上がりだから、要らないって言われる可能性もあるけど。
出来るだけ早めに戻るから、それまでは部屋で大人しくしてて」
「分かったわ。ジュンが置いて行ったあの箱もあるし、対策を考えるだけならここでも出来る。アンタもアンタで無茶はしないようにね」
片付けはやっとくから、早く行きなさい。と、未来に背中を押され、僕はまた部屋を出る。
なんて言うか……しまったな。もし仕事に戻れたとして、そうなるとふたりと一緒に調べ物する時間が限られちゃう。
やっぱり鍵は真鈴に返して……いやいや。ふたりだけで歩き回ってちゃそれも危ないしなぁ。
増えた悩みを抱えたまま、僕は既に混み始めてるお店へと到着した。
そして、おはようございますの挨拶もそこそこに……花渕さんに怒鳴られて追い返されてしまった……っ。
もっとちゃんと休め! 大丈夫でも杖は持ち歩け! せめて暇な日に慣らしに来い! と。ぐすん……




