第九十五話
僕らは自分の影に向かって歩く。あれからミラはすっかり意気消沈してしまって、黙り込んだままの寂しい旅路が続いた。そんな沈黙を嫌がってか、それとも純粋な疑問かは分からないが、オックスが彼女に問いを投げかける。
「あの、ミラさん。王都に向かうなら、あんまり西に逸れると面倒っスよ? ボルツからはどっちかって言うと東に向かうくらいの気持ちでいないと、トグの大山にぶつかって迂回する羽目になるっス」
トグの大山。と言うのは僕には分からないが、ともかくこのままの進路ではマズイらしい。迂回する羽目になるという口ぶりから察するに、それは文字通りの大きな山で、切り立った崖なのか魔獣の巣窟なのかは分からないが、今の僕達には乗り越える事が容易く無い場所なのだろう。
「……いえ、このままでいいわ。私達はまず北西、ボーロヌイの港を目指す。あんな物見ちゃったからには、元締めをとっちめとかなくちゃ」
「ボーロヌイ……?」
ああ。と、オックスは僕に説明してくれた。この国の西にはオテロヌイと言う大洋があるそうで、その海と面した港町、海の影と太古に名付けられた場所があるそうな。彼女はそこを目指す。と、先の野盗が口にしていた、帽子の男を探すのだとその脚を進める。
「まあ……確かに放ってはおけないけどさ。そういうのって、国がなんとかするもんじゃないのか? 俺達が……お前が無茶する必要は……」
必要は無いんじゃないか。と言い終わるよりも先に、ミラの顔がこちらを向いた。まだ赤く腫れたままの目で彼女は僕を睨みつけて、弱めのローキックをかまして怒鳴った。
「バカっ! バカアギト! 必要が無ければやらなくていいなんて事は無いのよ! それが悪だから、看過出来無い罪だから止めるんじゃ無い! 私は……私の腹の虫がおさまんないからやるの! アレは生命への、魔術への……そして何より、人の営みに対する冒涜なんだもの!」
そう言い切って、彼女はまたくるりと反転して歩き始める。どうやら僕が思っている以上に大事で、僕が感じた以上にミラの怒りは激しいようだ。
「そう……だよな、ごめん。あんなひどい事が人為的に引き起こされてるってんなら、今すぐに止めるべきだもんな。それにあの卵だって……元は鶏の卵なら、本当は元気なひよこが……」
「本当は美味しいハムエッグになる筈だったのに……っ! なんてひどい事を……」
ひどい解釈違いを見た気がする。ええと、ミラ? さっき貴女、結構かっこいい事言ってた筈なんですけど……?
「なんて人間本位な、残酷な憐れみ方だよ! ハムエッグって……どの道生き残れないんじゃないか!」
「なーんでよ! 美味しいじゃないのハムエッグ! アンタさてはオムレツ派ね⁉︎」
こちとら母さんの卵焼き派じゃぁい! ではなくて! ええい……さっきの感動を返せ! この食いしん坊! そんなやりとりもありの旅路をひたすら進み、正午を回ったところで僕らは全体を認識出来るほどの小さな集落を発見した。だが、周りは乾いた不毛の大地。ミラはいつかと同じように僕らに確認を取る。無駄足かもしれないけど私は確かめたい。という彼女の訴えに、僕らは戸惑う事なく頷いた。
「……これまたヒドイっスね。どれもこれも朽ちて随分経ってるっス」
柵も無い無防備な集落に踏み入った僕らの目に飛び込んできたのは、哀れむ事も儘ならぬ程に荒れ果てて何も残っていない人間の名残だった。
「盗賊に荒らされたのか、魔獣に襲われたのか。どっちにしても気分の良いもんじゃないよな。ミラ、そっちは何かあったか?」
「ダメね。前向きな話をするなら、ここの人は干ばつに耐えかねて何処かへ逃げ出したのだろう、って形跡があったわ。奥に広い畑の跡があるんだもの、そうであって然るべきなのよ」
それは推察と言うより願望だろう。だが、彼女の願いを僕は尊重したいとも思う。一層暗く、重くなった足取りで、僕らは道に戻る。乾き切って荒れ切って、轍くらいでしか存在を確かめられないその道に。
また僕らはしばらく歩き、懐中時計が午後五時を指し示した頃ミラはまた口を開いた。
「……二人ともゴメン。馬車、乗った方が良かったかもしれないわね。全然町の姿なんて見えない、って言うか潮風の匂いすら感じないわ」
「いいよ、謝んなくて。そう言う旅だって、自分で言ったんじゃないか。今更だろ?」
申し訳無さそうに振り返ったその小さな頭を、僕は撫で回して背中を押す。だが、うん。馬車には乗ろうな。これに懲りて、文明に頼るようになってくれれば……と、心のどこかで僕は願わざるを得ない。クリフィアを出発し、あの名も知らぬ村に辿り着いた時の様に。ミラに背負われての特急旅は、人数が増えたことによって難しくなっている。ゲンさんと僕の二人を担いで跳び回った事もあるし、出来なくは無いのだろうが……
「最悪野宿ね……オックスはそういうの大丈夫? 出発前に聞かなくてゴメンなさい」
「オレは全然大丈夫っスよ。むしろちょっと楽しみっス」
なんて逞しいメンタル。となれば、問題があるとすれば僕だけか。いつかの様に、恐怖に目も瞑れなくなるなんて無様はもう晒したく無いのだが……多分、まだ無理だろう。なんでもいいから人里に辿り着きたいところだ。
「…………オックス。ひとつだけ聞いていい? あの二人組を取り押さえ時、貴方言ってたわよね? 密売人が“噂になってる”って。あれって……ガラガダでの話? それとも……」
「えっと……それはボルツの話っス。おばちゃんや街のみんなに聞いて……ミラさん?」
ミラは随分遠くを凝視しているみたいだ。何かを見つけたのだろうが……そんな質問が出たという事が、その何かを良いものではないと物語る。暫く歩くと、彼女は僕らに、もう少し近付いて。と、指示をして、ポーチの中に手を突っ込んで、ナイフをいつでも抜ける様に身構えた。
「ミラ……? 一体何が……?」
彼女は僕の問いに対して、視線を前に向ける様にとアイコンタクトした。まだ何もない荒野の奥に何かがあると、視認出来たのはミラがナイフを取り出して、体の影に隠して歩き始めてからだった。それは街や村と呼ぶには一体化し過ぎていて、砦と呼ぶにはツギハギすぎる。人工的に積み上げられた石と鉄の塔の様な、大きな大きな——それこそビルの様な建物が現れた。
「オックス、もう一つ聞くわ。密売人ってのはあの二人組のこと? それとももっと大きな、組織立ったもの?」
「…………そこら中で話題になってる……って、言ってたっス。つまり……」
近くに寄ると、殊更その大きさに肝を抜かれる。アーヴィンの神殿よりも大きい、無骨で不恰好な要塞。文字通り密売人の巣窟、野盗の根城と言ったところか。よく見れば元になった建物がある様で、無理矢理な増築を繰り返した結果がこの巨大建築なのだろうと言うのが分かる。
「…………ちょうど良いじゃない。アギト、今日の宿はあそこにしましょう」
「………………ミラさん? あのぅ……嫌な予感しかしないんですけど…………?」
僕らにステイと言い放って、それはこっちのセリフだなんて言わせる間も無くミラは単身その建物に走って行った。えーと……きっとアレだ、男連れより女の子だけで交渉した方が上手くいくと思ったんだ。同情も引けるしね。うん、だから……今晩だけ泊めていただけませんか? みたいな交渉を……
「——揺蕩う雷霆ッ!」
遠くで聞き覚えのある破滅の言葉が聞こえた。知ってた。知ってました。ええ、全部分かってました。言霊から後に続く音は、遠くにいても分かるくらい凄惨で……とばっちりにも近い災害が、要塞内にいるであろう推定密売人の方々を襲っているのが手に取る様に分かる。なんて……なんて残酷な世界だろう……
暫くすると、とても良い笑顔の少女が帰ってきた。そして開口一番——
「二人ともーっ! 今晩泊めてくれるってーーーっ!」
なんて無邪気で良い笑顔だろう。僕は頰と拳に着いた赤い物には触れない事にして、彼女に手を引かれるがままに建物の中に入る。外観通り中もボロボロで、何故かは分からないが、まるで雷にでも打たれたかの様に焼け焦げた内壁や、ハンマーでも思い切り叩きつけた様に割れて抉れた石の床が目に入った。なんて酷い……これが人間のやる事かよ……っ。
「……どうやら、アイツらが言ってた帽子の男はここには居ないみたいね」
ミラは真剣な顔で僕に耳打ちした。と言うことは……
「…………もしかして彼らは襲われ損なの……?」
「そんな事ないわよ。仮にも野盗なんだから、懲らしめておいて損ってことは無いでしょう」
むふーっと彼女は胸を張って言い切った。なんて純粋で綺麗な目をしているんだ。そんなに無垢な瞳を向けられたまま蹂躙されたと言うのなら、さっきからそこらでノビている男達が不憫でならない。完全に猟奇的殺人鬼に襲われた気分だったのだろうな。別に彼らを擁護する気は無いが……正義とはかくも恐ろしいものかと深く心に刻んだ出来事だった。